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連載日本史268 経済大国

1973年の中東戦争による石油危機に続き、1979年のイラン革命による第2次石油危機をも乗り切った日本経済は、80年代に入って経済大国としての地位を確立した。技術革新による生産性の向上、生産現場の合理化、省エネ技術の進歩、公共事業費の増額による景気浮揚政策、第2次産業から第3次産業への産業構造のシフト、労使協調による日本型経営の成功など、当時の国際市場における日本経済のアドバンテージは、日本の輸出を拡大させ、貿易黒字を膨らませた。とりわけ大きく伸びた輸出品は自動車である。1980年、日本の自動車生産台数は米国を抜いて世界一となり、下請け・系列も含めた自動車関連産業は日本経済の屋台骨となったのである。

日本の主な輸出品と輸出先(www.jftc.or.jpより)

もちろん突出して黒字になる国があれば赤字に落ち込む国もある。その代表が米国であった。大戦後20年以上にわたって世界経済のトップを独走し続けた米国は、80年代に入ると貿易赤字の拡大に苦しむようになり、日米間での貿易摩擦が発生した。自動車に加えて、米や牛肉・オレンジなどの農産物、半導体などのハイテク製品が争点となり、日本市場の閉鎖性がやり玉に上げられるようになった。日本が豊かになったことで、感情面での反発を含む広範な経済摩擦が引き起こされたのである。

日米貿易摩擦の歴史(asahi.gakujo.ne.jpより)

経済大国となった日本は、国際社会において発展途上国への援助という役割を担うようになった。1980年代以降、日本の発展途上国に対する政府開発援助(ODA)の供与額は急増し、米国と並んで世界最大規模となった。民間のNGOによる国際援助やボランティアの活動も活発になった。一方で、特にアジアの周辺諸国との間では、先の大戦での日本の戦争責任を巡る問題も、教科書の記述に関する問題と絡んで顕在化した。国際貿易によって豊かさを享受した日本は、同時に国際社会における責任の履行をも求められる立場となったのである。

日本のODA供与国上位10か国の変遷(honkawa2.sakura.ne,jpより)

1982年11月、鈴木善幸首相の後を受けた中曽根康弘首相は「戦後政治の総決算」をスローガンとして掲げ、米国のレーガン大統領と親密な関係を築き、新自由主義的経済政策を推し進めて電電公社・専売公社・国鉄を次々と民営化した。一方、首相として戦後初めて靖國神社を公式参拝し、周辺のアジア諸国との間に摩擦を引き起こした。また、首相直属の諮問機関として臨教審(臨時教育審議会)を立ち上げ、個性重視の教育を掲げながら教育制度全体の見直しを進めた。こうした一連の政策を通じて国鉄労組や日教組を中心とした社会党系の労働団体である総評は弱体化し、民社党系の同盟や他の労組団体とともに日本労働組合総連合(連合)を結成するに至った。

中曽根康弘首相(Wikipediaより)

80年代前半までの日本の経済社会は、海外からエコノミック・アニマルと揶揄されながらも、国内のさまざまな規制もあって、それなりの節度を保っていたような気がする。それが中曽根政権の新自由主義のもと、米国からの圧力などもあって急速に規制緩和が進み、1985年のプラザ合意を契機として、際限なき投機熱にあおられたバブル経済の時代へと突入していくことになるのである。

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