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連載中国史23 隋

589年に中国を統一した隋の文帝は、土地政策においては北魏の均田制を土台とし、その上に租庸調の税制を敷いた。これらは後に唐代を経て、日本の朝廷の土地政策や税制の礎ともなった。軍事面では農民に武装させる府兵制を採用し、兵農一致の体制をとって外敵に備えた。魏晋南北朝時代を通じて匈奴・鮮卑・羯・羌・氐などの遊牧騎馬民族は徐々に中国へと同化したが、それに代わって北方ではモンゴル系の柔然に続き、トルコ系の突厥(とっけつ)が新たな脅威として台頭してきたのだ。府兵制もまた、日本の防人の制度の先駆けと言える。

隋の文帝(WIkipediaより)

文帝の導入した中央集権政策の中でも、最も後世に影響を与えたのは、試験によって上級官吏を登用する科挙であろう。三国時代の魏で創始された九品中正制は世襲による既得権擁護の色合いが強く、門閥貴族の弊害を生み出す温床となっていたことを踏まえた改革であった。すなわち、実力ある者に、受験による立身出世の道を開いたのである。やがて人々は、科挙への及第による立身出世を目指し、熾烈な受験競争を繰り広げることとなった。

科挙(Wikipediaより)

科挙の制度は歴代の王朝に継承され、二十世紀初頭まで約1300年も続いた。学問によって身を立てるという志向が、儒教的伝統を持つ中国の風土によくなじんだのも、科挙が長く定着した一因であろう。広大な国土を統治するにあたって、厳しい受験競争と、その頂点にある中央官僚としての地位が、大きな求心力になりえたという面もあったかもしれない。これもまた、表面的には形を変えながらも、日本における受験制度の根底にある志向を形作っていると思われるのである。

大運河と高句麗遠征(「世界の歴史まっぷ」より)

文帝は華北と華南を結ぶ大運河の建設にも着手したが、それが本格化するのは彼の死後、第二代皇帝の煬帝の治世になってからである。暴君といわれた煬帝は、運河建設をはじめとする巨大土木事業の強行のみならず、ベトナム北部のチャンパー(林邑)や朝鮮半島の高句麗への遠征にも数百万人に及ぶ民衆を動員し、その多くを死に至らしめた。大運河は完成したものの、各地で反乱が起こり、618年に煬帝が殺され、隋は統一後わずか三十年足らずで滅亡する。このあたりの経過は、秦の興亡と相通じるものがありそうだ。

伝聖徳太子像(Wikipediaより)

七世紀初頭、日本から遣隋使を派遣した聖徳太子は、煬帝に宛てた国書において、「日の出ずる処の天子、書を日の没する処の天子に致す」と述べた。これは隋と高句麗の敵対関係を勘案して隋との対等な関係を主張しようとした太子の外交姿勢を示したものだというのが通説だが、ひょっとしたら太子には、煬帝の無謀な領土拡張政策がもたらす破局が、既に見えていたのではないかとも感じられるのだ。

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