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食べて生きて呼吸する

東京に来てから1ヶ月が経った。

修論が終わってからというもの、コロナで不安な日々を過ごしながらなんとか引越しを終えて、母たちとの別れもそこそこにあっという間に一人暮らしが始まった。

大学院の修了式は中止、せっかく頂いた賞も授賞式が無くなり、無機質なダンボールに包まれた表彰状があっけなく送られてきただけだった。ならば入社式は、と思ったけれどいくつか研修を終えた後、中止の連絡が入ってきた。そうして手持ち無沙汰な日々を過ごしているうちに仕事が始まって、1週間の自宅研修の後、配属先へ出社する日々。のんびりしていたのが嘘みたいに慌ただしく、イレギュラー事態のせいでろくな研修も受けられず、上司の見よう見まねで仕事をした1ヶ月だった。

特別式典にもうこだわりはないつもりだったけれど、恩師や同級生、後輩たちとの別れを惜しむ暇もなく日々が過ぎて一抹の寂しさをを感じる。つい最近まで研究でいっぱいだった私の頭は、慣れない仕事の内容で埋め尽くされている。

東京に来たら私の住んでいた街と似たこの街を散策して、銭湯に行って、古着を買って…とわくわくしていたけれども、結局は正体不明の病原菌に怯え家と職場を往復する日々が続いている。私には医療関係者の方々の苦労など想像もつきやしないのだろうから、大人しく家にいることが最善策なのだろう。とはいえ、日々流れる東京〇人コロナ発症というニュースには些か辟易してきた。誰もが自由に動けないこと、そしてこの先の生活への不安感と閉塞感を感じている。

せめてもの気晴らしに、一人暮らしを始めたのだからと台所に経つ時間が長くなった。凝った料理は出来ないけれど、簡単に切って焼いて味付けして食べたり、時々鍋をコトコト煮たり。窓を開けると工事のおじさん達の声が聞こえる私の家は、比較的静かな住宅街にある。鍋を火にかける間、ほんのり香る美味しそうな匂いと、夕方の風は昔過ごした日曜日の記憶を辿らせる。

そうして出来上がったものを時々彼を呼んで食べさせている。美味い美味いと嬉しそうに食べる目の前の人を見て、私たちは生きているのだと感じる。些細な生活を見つめる。食べて生きる。当たり前のことだけど当たり前じゃないこと。そのありがたさと幸せさを噛み締めている。

今この状況をみんなで乗り切ろう、などといった無意味で現実味のない精神論は嫌いだ。数字的にどのくらいの期間自粛して、どのくらいの経済損失があって、今後この状況が続いたらどうしよう、と毎日のように考えている。けれどご飯を作って食べている間は、一種の現実逃避なのかもしれないけれど、ささやかな幸せを噛み締める。こんな時に私がこう思うことはあまりに贅沢で、贅沢すぎて反感を買うのかもしれないけれど。それでも今日も、明日も、生きていく。生きていかねばならない、そう私は思うのだ。

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