水沢

本と映画と音楽がすきな平成生まれの私のささいでとりとめのない愛しい日常。東京で先生やっ…

水沢

本と映画と音楽がすきな平成生まれの私のささいでとりとめのない愛しい日常。東京で先生やってます。不定期更新

最近の記事

あたらしいからだ

新年あけましてなんとか、というには少し遅すぎるこのタイミング。 怒涛のような2022年だった。久しぶりにnoteを開いて出来事を記すにはあまりにも周りの変化が大きすぎた。 とりあえず年末、仕事がピークに忙しいさなか、高熱を出し今では珍しくもなんともなくなったウイルスに悲しきかな、感染。 幸いにも軽症で済んだものの、まだなんだか体力が戻らず、ひとつひとつの動作がぎこちない。 そして長年お付き合いをした恋人とお別れをし、新しいパートナーと日々を過ごしている。 これもまた1年間

    • わたしが帰る場所

      「いつしか高知に戻ったとき、東京に帰らなきゃと思うのかな」 恐らくそんな風に考えたのが、今から約1年とちょっと前だったように思う。そして私はいま、アンパンマンの安っぽい車内メロディを聞きながら、田んぼが続く道を片目にこの記事を書いている。 「お父さんの肺にね、影が見つかって落ち込んじゃってて、あまりご飯を食べないのよ」 今年の3月、電話口で母の少し低い声が耳元に響いた。猛威を振るう、新型のウイルスが厄介で私は1年以上帰れずにいたのだけれど、悩むに悩んでようやく今回の帰省

      • 今日はきのうの続きだけれど

        突然ですが、 私はとてもみつはしちかこさんの「今日はきのうの続きだけれど」という詩が好きだ。特にこの詩を、今日のように冷えた冬の朝は繰り返し頭の中で反芻するくらいには。 ご挨拶が遅れましたが、明けましておめでとうございます。気がつけば1月ももうすぐ半ば、昨日の続きを繰り返して、いつの間にか過ぎていた2020年。2021年は元旦の仕事からスタートし、ようやく落ち着き、フラフラの体もようやく回復したところ。 東京に来て初めての冬を経験しているわけだけれど、予想以上に寒くて震

        • 嗚呼、懐かしきわたしの

          ふとした瞬間に昔のことを思い出す。 それは匂いだとか、音だとか、あるいは昔食べたお菓子の味だたか、それは否応なしに私の記憶を揺さぶるのだ。 気がつけば仕事を始めて4ヶ月。研究に明け暮れていた頃の記憶もはやぼんやりと(これは早すぎ?)する私の眼前に、かつて読んだ小説が暴力のように飛び込んできた。 山田詠美の小説をたまたま授業で取り扱うことになり、懐かしさとともに思い出したくない記憶の端々が顔を覗かせる。 私が一番彼女の小説で好きなのは「ひよこの眼」という短編だ。当時高校

        あたらしいからだ

          ただしい生活

          朝、カーテンの隙間から漏れる光で薄目を開ける。否応なしに新しい日の始まりを教えてくる光を無視するように、私は布団をかぶり、ベッドに転がるぬいぐるみを抱きしめる。うるさいスマホのアラームを何度も消して、また目を瞑る。 新しい生活様式、なんてテレビではやっているけれど、なれない仕事にプライベートを忙殺されてる毎日には無縁な気がする。休みの日は昼過ぎまで眠り、最後の力を振り絞って洗濯機を回し、掃除機をかける。のんびりとスーパーまで歩いてご飯を作り、近所の銭湯(人が少ない)に出かけ

          ただしい生活

          映画を愛する私たちへ

          ゴールデンウィークも残りあと2日ほど。来る仕事がやや憂鬱になりながらも、購入したての新しいテレビで映画を貪る日々を過ごしている。 冷えたビールと軽いおつまみ。半分酔っ払い気分で見る映画はここが現実なのか夢なのかその境目をどこか曖昧にしているような気がする。見たい映画と読みたい本。日々に忙殺されて忘れかけていたけれど、私って意外と好奇心旺盛なのかも、なんて思ったり。 今日は映画好きにはあまりにも有名すぎるジュゼッペ・トルナーレの『ニューシネマ・パラダイス』の感想をぽつりと書

          映画を愛する私たちへ

          食べて生きて呼吸する

          東京に来てから1ヶ月が経った。 修論が終わってからというもの、コロナで不安な日々を過ごしながらなんとか引越しを終えて、母たちとの別れもそこそこにあっという間に一人暮らしが始まった。 大学院の修了式は中止、せっかく頂いた賞も授賞式が無くなり、無機質なダンボールに包まれた表彰状があっけなく送られてきただけだった。ならば入社式は、と思ったけれどいくつか研修を終えた後、中止の連絡が入ってきた。そうして手持ち無沙汰な日々を過ごしているうちに仕事が始まって、1週間の自宅研修の後、配属

          食べて生きて呼吸する

          私の街、私の暮らし

          4月から新社会人になると同時に、初の一人暮らし、そして上京。 先日無事修論を出し終え、休む間もなく家族を連れて東京へ家探しに向かった(実際回ったのは母と2人だけど、父と兄は観光のためについてきた笑)。 元々住みたい所が決まっていた私にとって場所は譲れない。しかしその分家賃もお高いもので。バストイレ別が良いなんて新卒の給料で贅沢なんて言ってられない。泣く泣くユニットバスで妥協し、築年数はやや古め、けれど小綺麗な1Kをなんと6万で借りることができた。7万くらいまで家賃に考えて

          私の街、私の暮らし

          クリスマス後記

          令和最初のクリスマスが過ぎた。23日が祝日じゃなくなって、平成生まれの私はとても変な感じがした。 クリスマス。予定だったらバイトに明け暮れるつもりだったのに、先週から体調を崩してしまい、諦めて病院に行ったら生まれて初めてインフルエンザA型と診断された。 大学の授業も行けず、色々任されている仕事も多かったので色んなところにすぐ連絡しては頭を下げ、全然いいのよ、M子ちゃんこういう時くらいはゆっくり休んでね、と優しいお言葉を貰ったり。 初めての40度という高い熱にうなされて泣

          クリスマス後記

          おでんとたこ焼き

          近頃随分と冷え込んできた。ひどい冷え性の私は毎晩、両手両足を布団の中で擦り合わせては震えて眠る。花粉は辛いけれど、既に暖かい春が恋しくて仕方ない。つくづく冬に生きるのに向かない女だと痛感する。 こんな寒い時期に思い出すのは、何故か幼いころの父との記憶ばかりである。以前noteに父とパフェを食べに行った話を書いたが、おでんとたこ焼きも非常に思い出に残っている食べ物である。 小学生の頃、自営業の両親の会社へ学校が終わるとランドセルのまま向かい、宿題を終えたらいつも暇を持て余し

          おでんとたこ焼き

          愛の重さについて

          今年最後の3連休が終わった。 修士論文の中間発表会とゼミ発表とバイトを終えた私はくたくたで、日曜日は一日中布団の中で眠りこけてしまった。せっかく会員になっているというのにアマプラは音楽を聞くためのアプリになってしまっていて、もったいないなぁとぼんやりアプリを開いて見始めた映画がリュック・ベッソンの『アンジェラ』だった。 28歳(たしか)のアメリカ人の主人公は人が良く、悪いギャングに騙され多額の借金を抱えて今にも命を奪われんとするシーンから物語は始まる。主人公アンドレの身長

          愛の重さについて

          きっと秋のせい

          毎年この時期になるとフジファブリックの赤黄色の金木犀が頭の中を流れる。金木犀ってなんだからトイレの芳香剤の匂いみたいで好きになれないのよね、という私にあのひとは笑う。鼻をツンとつくような匂いを嗅ぐと、否応無しに秋が来たのだと体に知らせてくるから。 昨日は久しぶりに泣いてしまった。今年あと一回でも会えたらいいな、というのが最近の私たちの会話だから。もしかすると会えるかもしれない、となった昨日は慌ててホテルと飛行機を探したのだ。けれどもかさむ交通費とホテル代に思わず絶句。遠距離

          きっと秋のせい

          変わりゆくもの

          気が付いたらおとなになっていた、というのが最近の感想である。おとな、と言っても中味がどうというわけではなく、年齢が充分「大人」と呼ぶのに達しているのだということに、ふとした瞬間に自覚するのだ。 直接的、あるいは間接的に同級生の結婚を知ることが最近増えてきた。今週末は大阪で同じゼミだった子の結婚式に参列する。ご祝儀はいくら、ドレスに髪飾りに美容室…と慌ただしく準備をしながら、そうか、もうそんな年に差し掛かっているのかしら、なんてぼんやりと思うのだった。 まだ時間は高校生の頃

          変わりゆくもの

          桜桃忌にちなんで

          随分と前回の投稿から時間が空いてしまった。 本当はマメに更新したかったのだけれど、迫りくる修論提出に向けて近頃は論文を読んだり書いたりとしていたのだ。これでも一応は大学院生の隅っこを走っているのである。 そんな私の現在の専門はアメリカ文学。フィッツジェラルド、ヘミングウェイといったモダニズムを生きたロスジェネの作家たちへ関心がある。動乱の時代を駆け抜け、人々をシビアな目線で描いたヘミングウェイ、彼に作品への提言をしつつも作風は全く異なるフィッツジェラルド。個人的関心の強さ

          桜桃忌にちなんで

          平成だとか令和だとか

          何かと騒ぎたがる世間にイマイチついていけない。 思えば人間「最初」だの「最後」だの、やたら好きなものだ。生きていれば何にも始まりがあり、終わりはつきもの。むしろ終わらない始まりなんてこの世にあるのだろうか。 2019年になってから、すべて2019年最初の、になるし、あるいは年の瀬になれば2019年最後の、になってしまう。そして一度として同じ年は繰り返されない。いわば人生はすべてが「最初」で「最後」なのではないか、なんて、なんだか頭の悪そうなことを考えてしまう私。 そんな

          平成だとか令和だとか

          パフェと父

          6月には久しぶりに東京に。彼に会ってわざわざ自分の誕生日を祝われに行くというなんとも珍妙で(けれど4月は彼の誕生日でこっちに来てたし)、楽しみなイベントが待っている。2か月会えないけれど、お互い忙しいし、なんとか乗り切れるとは思うけれど、寂しくて「今すぐパフェが食べたいの」とわがままを言う私に、「次に会うときに星座パフェを食べに行こうよ」と提案してくれた。 そんな会話をしているうちに、ふと幼少期の頃を思い出した。 自営業の私の実家は、今は不動産業をしているけれど、その昔、

          パフェと父