全面的に善い人間にならなければ、人助けなんかできないってことはないと思う

上野千鶴子先生が東大生にインタビューを受けた記事を読んでいろいろ考えたので忘れないために書いておく。

私は、障害者だ。障害は個性だーって言うだけでは生活がままならないぐらいの障害者だ。一人で自力生活を送っていると、朝の支度ができなくて仕事や学校にはなかなか行けず、コップの中のお茶はいつの間にか腐り、床はゴミとホコリで見えなくなる(ADHDあるある、、ですよね?)。今は色々な支援とかがあって仕事ができているが、どちらかといえば弱者と言っていい。

インタビューのなかに「弱者が弱者のまま尊重されることを求める」「弱さ嫌悪(weakness phobia)」という言葉が出てきた(文脈は説明しきれないのでインタビューを読んでください)。頭では分かっている。弱者は弱者のまま尊重されるべきだ。それは本当にそうだと思う、心から。でも、私自身について考えたとき、自分は別に薬を飲まなくても働けなくなっても生きていていい、ということがどうしても理解できない。

私はこれまで、マジョリティーの価値観のなかで望まれる自分の得意技を差し出すことで、マジョリティー社会に席を得てきた。弱者は弱者のまま尊重されることはできないから、何かによって強者になることで尊重されることを求める、という戦法だ。「発達障害=才能」論を盾に使ったことも沢山ある。いわゆる、「天才ムーブ」を使えない人も幸せになれる社会にすべきだとは思うけど、自分は弱者のままで幸せになれる気がしない。

残念なことだが、わたしはあまり性格が良いとは言えない。もし自閉症スペクトラム and/or ADHDと、定型発達者の人数が逆転して、私たちがマジョリティーになったら、マジョリティー集団の一員である私はきっとマジョリティー特権を駆使して、定型発達の特性をいじり倒し、いじめまくると思う。そういうビジョンしか浮かばない。自分がされたことに対する復讐みたいな気持ちももちろんあるけど、それだけじゃなくて、ただ私はずっと強者になりたかった。平等な世界の中のモブじゃなくって、強者になりたかった。それは、経験のせいもあるけど、きっとそういう性格なんだと思う。

でも、人が持つのは集団の一員としての顔だけではない。そのマジョリティーとマイノリティーが逆転した世界で、私は定型発達の人を気に入ることがあるかもしれない。親友か、恋人かわからないけど、とにかく自分と違う特性をもつ相手をすごくすごく気に入ってしまったら。まあ、ぶっちゃけ差別されるのは自分じゃないから、そういう問題に関する記事なんかは読まないと思うけど、少なくともそいつの前では定型発達の特性をバカにする発言は慎むだろうし、相手が嫌がることはしない努力をするだろう。相手が弱くたって、もう全然いい。人間の感情にばっかり気を取られて物の細かい違いを区別できなくても、テレビやパソコンの音が小さすぎて聞こえないとか言われても、しょうがねえなあーって言って代わりに色々やってあげる。自分と全然違う感性を持っていることに驚いて、相手がどんな時に何を感じて、それがなぜかを知りたいと思うだろう。(※われわれ自閉っ子はこういう他者とのコミュニケーション欲求を全く持たないと誤解されることが多いですが、多分興味を持つ・持ってほしい部分や情報を処理するやり方が定型さんと違うだけで、気に入った相手と仲良くしたいという気持ちはあることが多いと思います。もちろん欲求の有無や程度には個人差がありますが。)

リアルではマイノリティー側である私は、そういう味方が一人でも近くにいてくれたら、結構人生は大丈夫だってことを知っている。そして別にマジョリティー側であっても、世界中の他人全員が「そういう味方」になってくれることなんかありえない。

だから、別に世界中を善意だけの人や差別意識のない人にしないと、この世はもうどうしようもないってわけじゃなくって、好きな人を大切にしたい誰かが、好きな人と分断されない世の中になれば、結構それで大丈夫なんじゃないかなって思った。あと、マイノリティーの特性を持ってるが故にまわり中からボコボコにされると、他の人間がすごく怖くなってしまい(残念ながら自閉っ子あるあるです)、好きな人と分かり合おうとすることができなくなるので大変よろしくない(もちろん他人と分かり合いたくない人の権利は尊重されるべきであるが)。だから、これからの大人として、それだけは阻止しなければいけない。

おわり。





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