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反動としてのアウフタクト

K.525の第2楽章は2/2andanteの曲である。だが、聴いた記憶に騙されてままの感覚では4/4で、しかも最初の四分音符がまるで1拍めになってしまう。そういう演奏は少なくない。これはHWV351の序曲などにもありがちな感覚の罠だ。

K.525のandante の場合、その冒頭は0小節めの運動の反動によって引き起こされる1小節めのアウフタクトから始まる。この運動は、小節の4拍子という外分図形を認識すると感覚に騙されない捉え方ができる。

音楽の運動は何かしらの起点があって立ち上がる。そして、そこで立ち上がった動きは必ず帰着する。その流れ全体を支配する骨組みで演奏がなされる。音符を鳴らせば音楽になる訳ではない。

このアウフタクトを小節運動の反作用として捉えられるかどうか。それは壁を相手にボールを投げる運動と似ている。壁とのラリーが継続できるためには、自分自身のコントロールに依存するところが大きい。

壁に当たる時のスピードと角度をコントロールすることによって自分の望む範囲の反動が得られる。

このアウフタクトも予備動作の仕方によって全てが決まる。2/2拍子を二つの二分音符で執ってしまうと反動でアウフタクトは得られない。2拍めの点を執る行為はあくまで便宜的なものだ。

このアウフタクトにおける二つの四分音符を丁寧な打点に合わせさせるような指揮は2/2の運動は破壊しているのと同じだ。そういう「がくげいかい」の「せんせい」にはなりたくないものだ。あるいはそういう「せんせい」がいないと演奏できないプレーヤーにも陥ってはならない。

さて、このアウフタクトへの誤解を認識した上で6拍子について考察してみたい。6拍子を二つで執るのはやはり便宜的な手段に過ぎない。

ブラームスop98の第2楽章のあの主題は確かに主題の中を同じリズムで繰り返している。だが、それは3/8の2回転ではない。小節運動への運動が次の小節のためのアウフタクトを付点四分音符としての反動を引き出していると捉えるべきなのだ。つまり1拍めと4拍目は同格ではない。4小節の4拍めを5小節めのアウフタクトとして、シンコペーションリズムとして引き出せるかどうかは演奏者の物理的な運動への認識力に負うところが大きい。この4拍目を点として明確に叩くことで「合わせさせよう」とする丁寧な「せんせい」は多い。けれども、そのようない執り方は6拍子の呼吸を殺していることに気が付かねばならない。

この反動としてのアウフタクトを認識できるようにするためには、やはり小節を外分的に捉えていく必要がある。小節かどう結びついて運動を実現しているのか、その骨組みがわからなければ、4拍目開始アウフタクトの起点と帰着点を見つけることはできない。

このop98の場合は、小節の4拍子が見えていなくはならない。

①0 ②1 ③2 ④3 | ①4…

この小節外分による図形的な把握ができて初めて次に予測的に備えることが可能なのだ。

何度も言っているようにワルツの指揮ができないというのもその音楽のこの外分図形が見えていないからだろう。小節の内分からスタートしようとするから「せんせい」になってしまう。そして、「せんせい」は響きに振り回させされてしまっていることにさえ気が付かないのだ。自分の出す「点」しか気が付かないからだ。

op98のこの第2楽章andante moderatoがなぜadagioなどではなくandanteなのか。それは楽譜から運動性を見つけ出せば一目瞭然だ。遅すぎるテンポではアウフタクトを生み出すエネルギーは生み出し得ないからだ。そして敢えて楽譜にはmoderatoが書き添えられている。そこに注目するとテンポの遅さも速さにも限界点が見出せるだろう。

聞いた記憶とその和音の響きに魅せられたスタートだから、もう楽譜を見るまでもないテンポの遅さになってしまう。それがマジョリティだから従う。そういう演奏はしたくないな。

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