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「乗る」よりも「乗せる」というノリ

なぜリズムに乗れないのか?というテーマは自分にとって若い頃からの研究課題。以前にも書いたけど、鳴るフレーズの骨組みを捉えてその先に立つ、という姿勢がとれないことが一番の理由だ。音楽という運動に対して受け身なのだ。
後打ちの手拍子が苦手なのも聞いた音に対して反応するから遅いためだ。進行する音楽運動の先に立つができない。いつも動いた後を追っている。その周回遅れのような態度がリズムに乗れない理由だ。

日本人は環境に対して受け身的な性格がある。音楽にとってそれが欠点でもある。だがある意味ではブルックナーのような音楽にじっくりと耳を傾けていられるとも言える。創造するのではなく、あくまでも鑑賞の立場なのだ。

後打ちの手拍子をする時、鳴った音となる音の間に入ろうとするのは、結果的に鳴った音に対するリアクションである。だが、それでは周が回って行くたびにテンポ感は間延びしていく。音楽に合わせるというよりはむしろ、手拍子はこれからなる音のためにある。その手拍子が次の拍を呼び出すのだ。あるいはその手拍子によって次を指揮しているのだ。

つまり、私たちは

♪ 🙏 ♪ 🙏 …

のイメージで後打ちを捉えてしまう。このやり方では結局、昭和な宴会でお馴染みの「手揉み」になってしまう。

だが、リズムに乗るのは

(🙌) ♪ 🙌 ♪ 🙌 …

という捉え方なのだ。そもそも「乗る」という言葉が間違えている。こちらが音楽を「乗せる」側にいるのだ。文化的に音楽を乗せるなんて演奏者に失礼だ、なんて発想にあるのが私たち。だが、「共に楽しむ」からこそ「乗せる」が正しいのだ。

さらに言えば、手を叩くのは閉じた状態の「合わせる🙏」ではなく、開く状態の「弾き出す🙌」である。この差も運動として大きい。

これはラデツキー行進曲のような拍と一致する手拍子でも、聞いた音に「合わせる」のではなく、「1拍前」に最初の手拍子があったと仮定して手拍子のリズムがあるのだ。「ラデツキー行進曲」の前奏の最後が四分休符、あるいは打楽器の一発だったりするのもその合図。さらには「王宮の花火の音楽」の序曲の開始がメロディよりも1拍先にあるのはその証でもある。その1拍が参加者全員の呼吸の起点になっているのだ。

つまり、「乗る」というのは音楽の先に立つことなのだ。さらに言えば指揮者の立ち位置に立つことなのだ。

さて、「合わせる」という日本人的なリズムの取り方は音楽というよりも音を点として見ている。つまり、頭を合わせることに主眼がある。だが「乗せる」の立場は手拍子の後に合わせるポイントを作る格好になる。言い換えればフレーズの起点を叩いて、その終点を合わせることになる。

例えばk.550のandante のアウフタクトを合わせるためにその発音の直前で指揮棒を上げるのか、アウフタクトのある位置を0小節と見たててその仮定小節自体から動き出すのかの違いだ。前者はそのアウフタクトを揃えて次の1拍めを合わせる。見ているのは八分音符や付点四分音符だ。後者は4小節目にあるフレーズの帰着点を合わせるために動く。見えているのは小節を分母にした4拍子だ。こちらは先の行進曲での「仮定としての1拍め」を0小節めに見ている。

0 1 2 3 | 4 …

後者の方が音楽を流れとして「乗せる」ことができるのだ。

以前の記事にも書いたように、指揮者や演奏者は、この「乗せる」側にある。音楽の拍に先行して波を作っているのだ。

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