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6拍子を3拍子2つにしたら違う音楽になってしまう〜ブラームス交響曲第3番

小節の中に足を着いてしまうのは把握が甘いから。小節をひとつの単位として扱えないと音符は音楽と結びつくことができない。

例えば、K.550の第2楽章、6/8andanteを付点四分音符でカウントしてしまうとテンポ感が見えてこない。ましてや八分音符を数えていては音しか鳴らせない。

それぞれの音が結びついて音楽になるのではない。始めに小節の運動があって、その運動の上に音楽は乗っている。つまり、小節で動かせない演奏では音楽はできないのだ。

メヌエットが二つの小節を分母とする音楽であることが再現できるリズム感が演奏者には必要なのと同じ問題がここにある。楽譜の「小節」というものを「単位」として捉えることは演奏者や批評者には必要な基礎力なのだ。感性の問題なのではない。

これができないとブラームスop90の第1楽章6/4allegro con brioもただの重たい音響の塊に終わってしまう。

この作品については克服しなければならない二つの課題がある。
まずはこびり付いたイメージの問題だ。この曲に「人生の秋を感じる」とか言っているのはジャケット写真の洗脳を受け過ぎなのかもしれない笑。それよりも「allegro con brio」という楽譜の表記にもっと注目しなきゃいけないのだ。

洗脳されたイメージに寄せるために「allegro con brio」を無理矢理な屁理屈を並べて引きずり下す強引さよりも、「allegro con brio 」と言っている楽譜の主張から考えるべきなのだ。

ただその前に、もう一つの課題がある。それは先にも述べたようなリズム感の問題だ。私たち自身がここに使われる6拍子や9拍子を「ひとつ」の単位として把握できるだけのリズム感がなくてはならないのだ。それはチャイコフスキーのop74の第2楽章で用いる5拍子も、第3楽章で使っている12拍子についても同じだ。小節を単位にできないと楽譜の縮尺がわからない。だから音響に振り回されてしまうのだ。

さて、このブラームスop90第1楽章の楽譜を見ればわかるように、第1主題は小節の運動に乗っている。前の時代のオルガン曲のようなペダル音の運動が音楽全体の骨組みとなっている。この低音パートの使い方はop98の第4楽章の先取りにさえ見える。

だがこの運動は、小節をひとつの単位として捉えられなければ単なる長い音響でしかなくなる。小節を付点2分音符や四分音符で分割してカウントしなければならないような把握ではそれは不可能だろう。

冒頭は小節を分母にした三拍子で始まる。この冒頭も1小節めの位置がわかっていないと提示部反復が不自然でぎこちなくなる。

012|①345 ②678 ③91011 ④121314|①15…

という4拍子の骨組みで動く。

この4拍子の行き着く15小節めからは16個の小節を3拍子と5拍子の2回のリレーの連続ですり抜けていく。この5拍子の挿入はある意味で勢いをクールダウンする効果にもなっている。そして第2主題に入るための転調を5拍子でやり過ごして第2主題へと流れていく。ここまでの流れのスムーズさはむしろ豪快で心地よい。

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