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演奏と里山

例えば、ブラームスop68の冒頭で8分音符が6つ並ぶような演奏では形は作れない。
そのような演奏に陥ってしまうのはフレーズの全体像が見えていない時だ。音響という現象を並べたところで、それは音楽にはならないのだ。

それぞれの音が音楽として、論理としてまとまるにはそのための秩序が必要になる。その秩序がバラバラな点になっているから8分音符が6つ並ぶになってしまう。8分音符が小節を作るのではない。小節が6連符を生み出しているのだ。

この視野を持たないと、12拍子はもっとバラバラになる。例えば、チャイコフスキーop74の第3楽章だ。この冒頭を三連符でカウントするような視野だととても狭まった音がひしめき合っているようにしか演奏できない。だが小節で演奏できると細かな音符が跳ね回るような生命感を得る。音価は同じであっても指揮の良し悪しでその効果は全く違うのだ。この第3楽章の開始は二つの小節が分母になった大きな4拍子という秩序で動いている。その秩序の下に小さな音符が弾ける空間を持つことができる。その秩序があるから運動の方向性が見えてくるのだ。だが単なる点の羅列では音符は動くことができない。

音響と音楽との違いはここにある。

それは自然林と里山との違いと似ているように思う。

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