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遠慮とか…便利な言葉

自然と、むいしきに、周りのひとや環境を見て それに合うように言動行動態度を取ってきた気がするだから誰とどこでなにするかによって 自分を使い分けるような感覚 そのようにすることが正しく優しく柔軟性があって 誰からも悪く言われることなくいい人と言われ とがめられず怒られず否定されずぶつかることなく穏便に平穏に日々暮らせて… なんて思ったりしてきたけど 自然とか無意識にとか ほんとは嘘なんじゃないかって最近は思う かなり意識的に意図的に考えてそう行動してて それがもう板につきすぎ

    • いのちの食べ方という映画を見た なんとなく1度見たことがある気がしたけど 台詞も説明も字幕もない映画だったけど ものすごい伝わってきた 制作側が何を伝えたかったか正確なところはわからないけど 受けとるものがたくさんあり なんなら受けとめきれなかった ただ肉を食べないとか無農薬の野菜を選ぶ というのだけでは解決するわけではない 今の、今までの仕組みがありありと伝わってくる感じ 鶏豚牛がかわいそうとか残酷だとか そうなんだけどそういうことだけではなくて これを見て だからこう

      • あきらめるしかないか~

        ドラマ半沢直樹も 映画メッセージも 映画ベン・ハーも 動画で見たケント・モリさんの話も まだ途中だけど藤原直哉さんの話も 時期外れ(と感じる)に育っている 小さく実をつけたすいかも まだ咲いてないけど生き生きしてるひまわりも 背が高くなるばかりで実のならない元気なトマトも その場その時期にそこで咲く花たちも にわとりがたまに見せる獣の目の怖さも足の裏の柔かさも 恒星占いのアンタレスのことも なんでか説明はできないけど すべてが繋がっていて同じことを言っている伝えてい

        • 下書きのままだった その3

          じぶんが好きなことやもの人があるのが当たり前で じぶんがどうしたいかはじぶんで決めなきゃいけないと思っていて じぶんにはこれがあるとかこれしかないみたいなのがあるはずと思っていて ―追記― それを見つけて気づいて見つけられなくても気づけなくてもそれなりにそれっぽいのがあったら それでなんとかまじめにいい人っぽく暮らしていく といいんだとやってきて 側ばかり 型ばかり 知ろうとしていたのかなーと 「内側」を知る、と言って 内側という型ばかり知ろうとして 内側そのものは

        遠慮とか…便利な言葉

          下書きのままだった その2

          人に会えば会うほど 人と関われば関わるほど 否 人を知れば知るほど その人となりに触れれば触れるほど 自分の粗野さが ―追記― あらわに… しみじみと… ぞぞぞっと…

          下書きのままだった その2

          下書きのままだった その1

          思いや気持ちがあっても行動できないのは 損得勘定があるから という一文を見た …ショック‼️ 自分を棚にあげて、ということを実感したのですが まず、 自分に想いや気持ちがあるのは知っていて 行動できてないことも が、自分に損得勘定があるなんて…! 損得勘定という言葉に対する嫌悪感といったらもう その言葉聞いたとき、すごかった… もう私は終わり…くらいに ―追記― じゃあ、終わったらいいんじゃ? そしたらなんか始めたりちゃうかな

          下書きのままだった その1

          5w1h …だっけ?

          ここでなにかをしたいとか ここのなにかをどうにかしたいとか ここをどうこうしたいとか そうじゃないってやっと気づけた ここ、はある意味どうでもいい なにか、もある意味どうでもいい どうしたい、もどうでもいい もうわかっている目標、夢のために 繋がって見えなくても いまここでできること、気持ちが動くことに しんしに向けるか伝えているか 見えてるのはほんとにわずかなことに 気づいているようでまだまだなんだなって感じる

          5w1h …だっけ?

          おすすめ

          じぶんがいいとおもうこと じぶんがすきなことものひと それを人にも教えてあげたい 人におすすめしたい 知ってほしい と思っても なんだかおしつけになるのもやだし もう知ってることかもしれないし 知った上で選択してないのかもしれないし じぶんが説明言葉にするとじぶんがいいと思っている十分の一も伝わらないというかチープに伝わってしまう そんな感じでたじろぐことがほとんどで 自己紹介、という気持ちで伝えるのはどうだろうと思った 私はこれを大事だと思っていますとか 私はこんな人

          おすすめ

          うすらぼんやり

          頭痛からの吐き気までもよおした昨日。 どうすればいいか 何が、どっちがただしいのか そうやって悩んでいるけど それは完全に外に向けての答えあわせで 外の答えは世の中にごまんとあって その時その場所その気分にぴったりな答えがあったりして でもしばらくするとなにか違和感が出てきて また どうすればいいか なにが正しいのか…と もとにもどる を繰り返して 自分からみたじぶん 他人からみたじぶん 他人からみた他人 自分からみた他人 それらがすべて合致するなんてこの世界で

          うすらぼんやり

          自分の非道さひどさ冷たさを実感 でももうあきらめないへこたれない まわりに感謝!

          自分の非道さひどさ冷たさを実感 でももうあきらめないへこたれない まわりに感謝!

          嫌だけどうれしい

          何を選択するか 何を成すか 何になるのか 何をするのか 何をしたいのか 何をすればいいのか そんな風な視点、姿勢でずっと過ごしてきて 「何」の部分は理想や想像、本や教科書、メディアや広告、人の目や他人の言動から学び、身につけて、実践することもできる。 それを「できるできないじゃない!やるかやらないかだ!」とか、 まだ本気だしてないだけ、とか、 スタートラインにたったとか、 中途半端とか、今さらとか、まだまだとか… 様々な言い訳のもとにやったり、やらないで済むように、 否、

          嫌だけどうれしい

          FB投稿を見て

          本当は本当に実のところは 食べ「物」は大きな問題じゃないんだって思う。 飲み物しかり、口にいれるものも入れないものも。 作り手のみえるモノにはきっとものすごい付加価値(こんな言葉しか出てこないかなしさ!)が加えられていてそれを人は感じることができていて(脳でわかるわからないは別として) それが何より届き響くものなのかなって

          FB投稿を見て

          上から目線な

          不定期にでも何度も繰り返し思うことがあって、例えば野良猫が道路でゴロンとしていたり、カニが道路路横切ったり、猪がうちの庭でフゴフゴ言っていたり、バッタや毛虫が葉っぱを食べてるところを見たり、多くは生き物を通して思うことなんだけど、怒っている人や世間的には変な人と見られる言動をしている人だったり、 よくわからなくなってきたから例を挙げるのはやめにして、 この一つの小さな生き物を受け入れようとしない邪魔者扱いする共に生きることを拒むこの人間界や人間の性?はなんなんだろう いや

          上から目線な

          なんで写真撮られるのが嫌だったのか?と聞かれて

          自分を見つめるとか知るとか いわゆる自分探しになるのかな じぶんで自分をわかることだと思ってたけど じぶんで自分に興味を持つ、観察するってことなのかなーと 写真を撮られるのが嫌だったのはなぜか?と聞かれて ふと考えると なんでだろうとじぶんでも不思議 けど、きっと 写る自分と自分が思う自分とのギャップが嫌だった、違いを見るのが嫌だった違いを見たくなかった認めたくなかった受け入れられなかったからとかかなと 人から見られてる見られたい自分像がありすぎてつくりすぎて それとは

          なんで写真撮られるのが嫌だったのか?と聞かれて

          はげどう

          烏滸がましい 心底、胸の奥の方からずーんと、そう感じる こうしてこんなことを記すことも烏滸がましいと思うけど あきらめずに 出すことをやっちゃうことを 続けたいと思う まだまだ承認や嫉妬、嫌悪、疎外感、虚しさとかなくなることはないけど それに惑わされないよう負けないようにしつつ 地道にいくこと 何がしたいのかも大事だけど 何のためにを見失わないこと

          はげどう

          手紙

          特に最近は恥さらしだと思ってこうして浮かんだことを記している こうして記したことの内容も言葉選びもばれちゃう人にはばれるし 違うとわかったはずなのにまだまだ正解や評価を気にしていたり 恥さらし、とかきながら全然さらしてないなーと思うってことはさらせてないんだろうし笑 思ったこと気づいたことを無視せず言い訳せずめんどくさがらずやるようにしている (自分が思う)道徳や常識や損得とかが出る前に あるときはやった後に、これやったらお返しあるかも、などの考えが出たりして面白い