3月11日に、思い出すこと。
日付が変わった瞬間に、書きたいことが溢れてきた。
7年前の今日、僕は岐阜の実家にいた。
何をしてたのかは覚えてないけれど、家にいて、そしたら、14時46分に大きな揺れがあった。
遠く離れた岐阜だけど、大きな音と長い揺れを感じた。
一応、日本で十数年生きてきたからから、なんとなく「あ、これはあかんやつや」って感じがした。
胸がざわっとした。
すぐに兄の部屋に行って、テレビをつけた。
それからは毎日、津波の映像と、原発のニュースと、あのCM。
当時は僕も高校生で、何とも思わなかったわけではなかったんだけど、どこか他人事というか、現実味が無いというか、そんな感じだったと思う。
岐阜では、食料や電気や、そういうもので困ることは特に無かった。
自分の知り合いは誰も被害を受けてなかったし、今この瞬間も、世界のどこかで知らない誰かが理不尽に死んでいる。
だから、これも同じだ、それがたまたま日本で起きたからといって、別に涙を流したり、必要以上に感情移入することも無かった。
今からちょうど2年前、僕は大学の友人と2人でヒッチハイク旅に出ていた。
たまたま4日間予定が空けれたから、学生のうちに1回やっておこうと。
とりあえずあんまり行ったことのない東北の方を目指して、特に目的地は決めずに、京都を出発した。
出発したのは、3月8日だったと思う。
1日で東京まで行けて、次の日の朝、新宿から常磐道に乗って、北を目指した。
そこで、僕らを乗せてくれたうちの一人のおじさんは、詳しくは聞かなかったけど、発生当時から復興活動に携わってる人だった。
その人の運転する車に乗って、いろんな話を聞いた。
すれ違うトラックが真っ白なのが多いのは、物資を運ぶのにトラックが大量に必要になったから、凝った塗装をする手間も省いて、どんどん送り出したからだと言っていた。
高い防波堤を作るのにあちこちから土を運んできているけど、まだまだ足りないと言っていた。
原発の近くの、立ち入り禁止区域の中も通った。
かつて人が住んでいた形跡のある街が、草に覆われていて、家の屋根は崩れていて、呼吸をしていない、「死んでいる街」を初めて見た。
外にはでっかい線量計がいくつかあって、外の放射線の強さを示していた。
除染後の土が、ビニールシートに覆われて、たくさん積まれていた。
テレビでしか見たことの無かった光景を目の当たりにして、もう発生から5年も経っていたけど、初めて現実のものとして認識した。
ヒッチハイク最終日、3月11日、最後に京都まで送り届けてくれたおばちゃんがいた。
わざわざ遠回りして、家の近くまで送ってくれた、優しい人だった。
あれ以来、津波の映像がフラッシュバックするから、ずっとテレビを見れないと言っていた。
特にこの時期は、思い出してしまうから、見れないと言っていた。
RADWIMPSが、3年後の3月11日にリリースした曲。
1日くらいはあったかな
この世の誰一人泣かなかった日は
1日くらいらはあったかな
この世の誰一人叫ばなかった日は
ある日、ある時、突然、それまでずっとそこにあったものが全部無くなるんだ。
僕は今、生きてる。 死ぬまでは生きてる。
ただそれだけ。
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