「言葉は嘘を吐くためのもの」
最近わけあってポエムを書くようになった。
もともと何かあるたびに紙に書き殴っていたし、
何より書いた当人ですら赤面してしまうほどの痛い文章をスラスラと
苦もなく書き連ねられてしまう。
そういう性分なのだろう。
自分でもうんざりするほどに、きっかけは途方もなくくだらないものだったが。
自分のために、あるいは誰かのためにことばを紡ぐということ。
もう少し噛み砕くと
共感してくれる人がほしくて書くのか。
それとも
誰かにみて欲しくて、気付いて欲しくて、自分の存在を認めて欲しくて書くのか。
何かを作ろうとするたびにその問いが呼び起こされる。
答えを迫られては指を止めてしまう。悪魔の問いかけだ。
今回も例外ではなかった。
それでふと、栗原ちひろさんのノートを思い出した。
読んだのはじつに半年以上前のことだ。
言葉って、そもそも嘘を吐くための道具なのかもしれない。
言葉が上手い人間は、嘘を吐くのが上手いから褒められるのかもしれない。
これは、この、嘘と怒りは、一生続いていくのかもしれない。
あれからそれなりの時が経ち、私は40歳になった。
私は現在エンターテインメント小説家。
「これはあなたを楽しませるための嘘です」と最初から看板を掲げて文章を書く仕事をしている。嘘ですよ、と前置きをしてから、自発的に嘘を吐くこと。そして、その嘘でちょっとしたくだらない楽しみだけを提供すること。
言葉が嘘を吐くためのものであるかぎり、これが私に出来る唯一の「誠実な言葉との付き合い方」なんじゃないかと思う。
消えない炎のような怒りから「誠実な言葉との付き合い方」をしてきた重みは、私の感性すべてを燃やし尽くしてしまう。
やはり私のやってることは違ってしまう。
…私の言葉を、心を、わかってほしい。
それが私の創作意欲だった。
所詮はアマチュアだ。趣味の範疇にしかなりえない。
「求める前に与えよ」とは、あらゆる成功モノにだって頻繁に出てくる。
自分が何か欲しいなら、まずは誰かが欲しいと思っているものを与えなさいということだ。「与えよ、さすれば与えられん」という、聖書の時代からの金言ですらある。
「ひとりの死で感動したい奴らのために、感動ポルノを生んでしまった」栗原ちひろさんのように。
実際「誠実なことばとの付き合い方」をして、栗原ちひろさんは小説家になった。
私もまた「あなたを楽しませるための嘘です」と宣言して
堂々と、嘘の言葉を並べ続けるべきなのだろうか?
笑顔の仮面をかぶって、媚びへつらい続けるべきなのだろうか?
止まらぬ涙を流し続けながら。
それこそ、人形じゃあないか。
はるか遠い過去の日、幼少の記憶から
ずっと変わらない人形じゃあないか。
意思を持つことの許されない、
誰かのの機嫌をとるためだけの人形じゃあないか。
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