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サブカル大蔵経327栗本慎一郎『幻想としての経済学』(青土社)

広義の経済学とは生物としての人間を考え直すことでなければならない。生態系の中における人間存在の意味が再検討されねばならないのはここから出る結論でもある。p.60

久々再読してみて、今の時代に、栗本慎一郎がいたら!とあらためて思いました。

我々経済人類学者は学問の分断や新設を図ろうとしているのではなく、もともと普遍的な社会科学であった経済学の原初性に戻ることを主張したに過ぎない。p.249

経済学とは何か。もう一度それを学界で考え直して欲しい。

私の経済学や法学も現実への応用の可能性がないわけではない。けれども、今のところ出される政策的提言が、非近代主義的、非理性的に過ぎると受け取られるだけだから、応用への提示を控えているだけである。応用への提示が、あれこれのものをみんなでぶち壊そうとか、食料不足の街でカーニバルをやろうとかの提言だと言うことになれば、誰が、今まともに受け取るだろうか。しかしやがてそれがあらゆる意味で真面目な人類生存のための有効な手段であり政策であることが理解される日が来るかもしれないのだ。p.38

経産省主導で進められてきた昨今の日本。経済とはそんな計算できる一面的で単純なものではないことを伝える本書の提言を誰も受け継がなかったのでしょうか。

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貨幣とは交換の中から生まれるようなものであるわけは無い。/受け手がただ圧倒されれば良いのだ。だから本来贈与ではなく圧倒であるが、この圧倒は貴重と思われる富を相手の目の前で平然と破壊してみせることにより強く到達される。p.27.28

 贈与、経済、の暴力性。

総合的に見ると原子力発電なども非常に効率の悪い部類に属する。p.35

 この時点で疑義を持っていた。

富とは行為の過程に出現する〈呪われた部分〉なのである。つまり消尽されるべき過剰物あって、なおかつ物そのものではなく関係の中から生まれ出る。p.39

 経済の源泉にある呪術性。

学問もまた芸術と同じく非生産的労働なのである。有用なものを生産しようとしてはならないのだ。経済学にせよ人類学にせよそれが世俗の生産を目指す応用の策に擬せられた時その本質的生命は終焉する。p.42

 時を超えた学術会議問題への提言

経済体制と一言で言うが実際には社会の日常性と非日常性がせめぎあう構造であり深層に規定されたシステムである。p.88

 ハレとケの繰り返しこそ経済。

貨幣に対する人間の執着を単なる経済的富への欲望としてではなく無意識の問題と考えるならそれ自体全く正しい。/私は資本主義社会すなわち市場社会が全人類史にとって特殊な存在であり、それは突発的な魔のようなものだと言うことを常々述べてきた。/ユングの認識は、社会の本源的定在→普遍的無意識→マナ→交換及び貨幣の発動p.105.236.268

 無意識と経済。精神医学と経済学。

この意見を述べておいたら、この方面の世界的知性で私などは足元にも寄れぬと尊敬する大家、澁澤龍彦先生から賛意を表していただいた(『玩物草子』p.210〜212)。p.118

 澁澤龍彦や種村季弘を参考文献として引用する形は、私も学生の時の卒論で真似していたことに今気づきました。

アメリカは現在社会的弱者を都市に集中させていると言ったが、実はもともとアメリカ自体がヨーロッパの弱者たちが移民して作り上げた国だった。p.204

 大統領選挙での都市と弱者の関係。なぜ都市が民主党に入れたか。

私の大学院時代、我々に近世の文章読みを教えてくれたのは当時気鋭の助教授だった日本経済史の速水融氏。p.219

 日本で唯一発刊されたスペイン風邪の資料『日本を襲ったスペイン・インフルエンザ』の著者。

日本は西ヨーロッパとともに病にかかった国であった。中国や朝鮮は正常で変容と成長の病にはかからなかったのである。p.235

 成長の病。中国もかかったかな。

人がものを書いたり本を出したりするのは一体なぜなのだろう。それは自分の書いたものを通じて顔も知らないどこかの読み手とコミュニケートできると信じるからであるし、その読み手を通じて社会とコミュニケートできると思うからなのであろう。p.307

 30年ぶりに本書を通じてコミュニケーションできました。朝生に出てた時は変なオッサンだと思いましたが、経済人類学ノ卓見は現代にこそ必要だと思いました。

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