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サブカル大蔵経520竹村公太郎『日本史の謎は「地形」で解ける』(PHP文庫)

元官僚の日本各地の地理推理エッセイ。養老&荒俣が帯で絶賛。

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「やっと長良川河口堰が問題になった理由が理解できた。竹村くんの今の30分の説明の中で、〈長良川流域の人々の生命と財産を守る〉と言う言葉が3回も出てきた。そのような『天下の印籠が見えないか』と言う態度がこの事業がこじれている最大の理由と言うことがよく理解できたよ。p.4

 常套句が、信頼を妨げる例。

インフラ屋の私はインフラつまり下部構造を徹底的に説明すればよい。思想・哲学・社会・宗教・文学などの上部構造に手を出さずに自分が得意な地形の分野を表現すれば良い。p.5

 自分の分野を徹底して、生半可に他には触れないことから生まれる信頼感。

信長はその鬼門の逢坂を守る比叡山の僧兵を壊滅させた。結果的に天皇の親衛隊を日本の歴史から抹殺してしまった。これ以降、日本文明では天皇の権威と武士の政治権力と宗教の棲み分けが確立した。p.56

 宮中と寺から軍事が消えた。信長が寺を元に戻してくれたのか。

鎌倉勢は自分たちを幕府とは呼んでいなかった。鎌倉幕府と言う呼び方は江戸時代になってから生まれたのだ。なぜ頼朝が鎌倉に閉じこもったのか。京都は劣悪な衛生状態、不衛生な京都を嫌った。平安京には水道も下水道もなかった。鴨川は下水道どころかゴミ処理場であり遺体放棄場にもなっていた。このスラム化した平安京には疫病が毎年のように蔓延した。天然痘・コレラ・赤痢。鴨川は遺体の山となっていた。鴨長明の『方丈記』でも疫病で42,300人の死者が出たと記されている。20万人規模の都市で4万人の死者というのただごとではない。あの優雅な祇園祭も、もともとは疫病払いから始まった。p.73・74

 まさか、鎌倉より京都が汚くてひどかったとは。

権力と権威の分離、その原点は頼朝であった。安全で衛生的な都市鎌倉に閉じこもった湘南ボーイ頼朝の個人的な資質が世界でも例のない権威と権力の分離と言う日本独自の社会体制のきっかけを作った。p.78

 湘南ボーイ!頼朝の革命。

車文明が空白の日本。なぜ日本人は車文明を構築できなかったのか。なぜ日本の道路整備は遅れたのか。p.82

 牛車のみ。車のない日本。異物としての車。

元寇、モンゴル軍、日本にはぬかるんだ泥が広がっているだけだった。p.88

 最強モンゴル軍を阻む湿地。

新宿通りは尾根道なのだ。江戸城の正門は半蔵門。p.118

 半蔵門という中心

遊郭へ行く客は隅田川を上り、浅草に着くと、日本堤を歩いて、吉原に向かった。日本堤には、物売り小屋も並ぶほど。客が日本堤を踏み固める。p.237

 子供の頃、スケートリンクを作るため、グランドの雪踏みをしたのを思い出しました…。多くの人に踏み固められた日本堤。今はドヤ街の人たちが寝ている。

京都が都になったのは偶然では無い。一見すると現在の京都は内陸部に位置する。しかし京都は日本海側と太平洋側の各地へ船で行けると言う、船運行中の中心地であった。p.292

 京都と海は結びつかなかったけど、日本海と太平洋に等しく近い位置なんですね。

皇居・北の丸公園・上野公園・六義園・小石川後楽園・新宿御苑・代々木公園・日比谷公園・浜野離宮・芝公園・国立自然教育園などの公園のほか、明治神宮・靖国神社・護国寺などの寺社。都民の憩の場のすべての緑地は、かつての権力者たちが作ったものばかりであった。なぜ大阪には緑の空間が少ないのだろう。それは大阪は庶民の街であり、権力者の街ではなかったからだ。庶民の住む空間は狭い。土地が細かく分割されれば当然。歴史の跡や緑の空間は失われていく。p.328・332

 公園と国家。日本最大の不思議、公園。

漂流する人々が最初に上陸する土地が福岡であった。福岡は日本列島の玄関口だったのだ。p.334

 アジア大陸からの視点。玄関口、福岡。

19世紀に石炭と出会うまで日本文明のエネルギーは木であった。住居も橋も船も全て木造であった。奈良の森林伐採は能力を超えていた。水と森が豊かな淀川流域の京都に遷都したのは当然であった。p.367

 木が私たちを育ててくれたのか…。

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