朝マルシェ

【美山】なぜここにこんな魅力的な街があるのか?人がいるのか?そこには必ず歴史という名の理由がある!

どうもこんにちは、美山商店補欠キャプテン 松岡です。
うちの監督ゆーたと新人あっこさんが、めっちゃ頑張ってくれているので
僕も頑張って美山の情報をお届けしようと思いま~す。
※写真と記事の内容は全然違います^^朝マルシェめっちゃ楽しいです!

今日の授業は僕らの街「美山の歴史」でございます。

その前に、「どこの街にも歴史はありますよね。」
ただ、それを住民の中でどれだけの人が知っていて、知らないのか?
これってとても重要なのです。

僕が美山の歴史を本気で学び始めたのには理由がある。

とある商工会の事業で、「美山全国展開事業」というのがあり、
他県から有名な「まちづくりコンサルタント」みたいな人が来て、

コ「これからは若い人たちの時代だ、伝統や格式なんかぶっ壊しましょう」

と勢いよく、僕に言ってきました。

僕「はぁ、ふざけるなよ。(心の声)
じゃあ、あなたはこの町の歴史を先人の方がどうやってつなげてきたか?
知ったうえで今の言葉を言ったのですか?」


コ「いえ、昨日来たばかりで、少ししか知りません。
今から一緒に学びましょう」
との事。

僕「あなたとは無理」
と答えた。

地域の人が地域の歴史を知らなければ、勢いだけの何とかコンサルタントに押され「大事なものを失う」と感じた。

現実的に自分もそうだったように、
若い世代は地域の歴史をちゃんと知らない。知ろうともしない。
だから危ない。
教えてこなかった大人にも責任がある。

どんな人が最初に住んでどんな事があり、どのような産業が生まれ、どのように現在につながってきたのか?

それは一生懸命つなげて来てくれた先人の若い世代へのパス。

それを受け取って、更に次の世代へパスを送る。これが歴史だと思う。

歴史を調べれば調べるだけ、この地に生きた先人の方々を誇りに思う。

そして僕は、この町を守り、つなげる為に「歴史」を学んでいる。

そしてやる気をもらう。

住民全員が知っているのが理想だけど、僕の世代がひとりでも興味をもって、学んでいれば、次の世代に伝えられると信じて。

と真面目に書きすぎて、ごめんなさ~~い('◇')ゞ

第一話 「薩摩焼の里 美山が出来るきっかけ」

​何といっても、この人「豊臣秀吉」さんです。430年ほど前の話
※大の器好き「この茶碗は城一城の価値あり」という言葉を残すほど。
当時の将軍が好き=器を大々的に作らせる。ブームが来る。作る人が増える

そして、この豊臣秀吉さんをたぶらかし、器好きにさせた張本人
千利休さん。
※商売の天才、商品にならなかった器を安く買い、ゆがんだ部分や色の変色を逆手にとり、「わびさび・歪みや色の変色は自然な景色が最高」と言葉巧みに秀吉に高額で販売し、多額の利益を得る。茶の道・器の道を作った人。

そして、わが薩摩藩の藩主「島津義弘」公
※当時の薩摩藩(だけではなく長州~九州全域)は、
陶器ではなく、土器を使っている。
やばい、わが藩には秀吉を喜ばせる陶器を作る職人がおらんではないか!!
なんとかならんかの~

ここからはセリフで
秀吉公「よし、朝鮮をせめるぞ」
朝鮮出兵 別名やきもの戦争
秀吉公「山口県下の九州の大名たちで攻めなさい」
義弘公「よし!がんばるぞ」

朝鮮軍も必死。10年の歳月がかかる。朝鮮に滞在しているうちに、
朝鮮には世界トップクラスの
「陶器製造の技術力」がある事に各藩が気づく。

義弘公「この陶器製造の技術力がわが薩摩藩にあれば・・・」
長州・薩摩・肥後・鍋島など各藩がこぞって焼き物の産地をねらい、
数多くいる朝鮮の陶職人を連れ帰る。
※これが焼き物戦争と言われる由来

後に、朝鮮から連れてこられた移住者たちによって、
佐賀県有田焼・長崎県波佐見焼・山口県萩焼・熊本県上野焼そして
鹿児島県薩摩焼として各藩の財政収入向上・ネームバリュー向上、日本最低土器から世界最高峰の陶器へと変化し、九州・山口の陶器産業を今でも支え続けられている。

第2話 きっかけからのどうしてこの地(美山)に

朝鮮から連れてこられた、陶職人たちは、日置市ではなく、隣町の
いちき串木野市の海岸にたどり着く。そこから藩の手厚い庇護があるかと思いきや、運悪く、この年から天下分け目の関ケ原の戦いが始まり、「陶職人」にかまっている暇も人もいなくなってしまった。
言葉も通じず、知人もいない異国の地に取り残された形になった職人たち。

「どうする??どうしよう??俺たちには陶器を作る事しかない。
周りに邪魔にならない所に窯を作り、器を作ろう。」

現在の美山からおよそ15キロほど離れた場所で、最初の居住地をつくる。
作った陶器を近所の農家でとれる野菜や魚と物々交換しながら、言葉も通じない状態で5年。

第3話 その時事件が起こった。

陶器製造するためには、粘土が必要。その粘土には細かい石や異物が入る事は許されない。その為に粘土成形するための部屋はとてもきれいな状態であった。そこに初めて来る役人が土足でズカズカと入り込み、怒った職人と乱闘騒ぎとなってしまった。その夜、知り合いの漁船を借り、窯も住まいもすべて捨て、海から、日置市の海岸へ逃亡することになる。(43名)

第4話 そして美山へ

逃げてきた43名は途方に暮れるが、知り合いの漁業者に紹介された人に手厚く助けてもらう。1年経ち、「もうこれ以上世話になり続けるわけにはいかない」と海岸近くの場所から、ちょろちょろと流れる水をたどり、山(ジャングルのような誰も入らない土地)をのぼり、だれにも迷惑をかけないで済む場所を必死に探し、山の頂にたどり着いたとき、山頂から見える甑島をわがふるさと朝鮮と勘違いし、現美山のある土地に居住することになり、
川の周りに田畑を作り、最後に窯を作り、細々と暮らしていた。

第5話 殿様、関ケ原の戦いが終わり、朝鮮陶職人の事をやっと思い出す。

義弘公「そういえば、朝鮮から連れ帰った者どもはどこで何をしてる?」
いちき串木野~現美山までの流れの説明を受けると、
義弘公「ぐらしか!(鹿児島弁でかわいそうに)薩摩藩で庇護して、陶器を作る事に集中させてあげよう」「何人たりとも朝鮮陶職人をいじめる事を許してはならんぞ、土地も穀物もちゃんと与えて、しっかり作らせよ」
ここから美山は薩摩焼製造の地として、薩摩藩の比護を受けながら、陶器を作り続ける事になる。

第6話 他地域と違う美山独特の歴史

有田や萩や上野焼など、他藩に行った朝鮮陶職人たちは、みなすぐに日本名を与えられ、日本人として陶器製造に集中した。
しかし、薩摩藩だけは違った。
薩摩藩からの手厚い庇護と朴や沈などの朝鮮性を名乗らせ、朝鮮の文化を残すこと、朝鮮の言葉も残すこと、日本男子を入れず、朝鮮の血を残すことを義務づけした。そこから明治維新まで250年、この地で小さな朝鮮村を残していた。理由の一つは当時の薩摩藩は鎖国時代に密貿易を行っていて、朝鮮との交易も多く行っており、生きた通訳を持ち続ける事が必要と思っていたからと言われている。

第7話 世界に名をとどろかせる薩摩焼

世界最高峰の陶器製造技術は、世界万国博覧会などでいくつもの賞を獲得している。当時の世界では、日本で作られる陶器を「サツマ」と呼び絶賛されていた。しかし、薩摩焼がものすごく売れると知った全国各地の陶器職人がこぞって、偽物の薩摩焼を製造し、粗悪品が出回る事で、衰退してゆくという悲しい現実もある。本物の薩摩焼には薩摩十字は入らないが、偽物には粗末な形で薩摩十字が刻まれていたという。

美山地域のモノづくりの歴史はこうして現在につながっている。

最後に 

美山に関する参考文献はほとんど読んで、擦り切れるほど読みました。そして地域の方々にもたくさんの話を聞いて学びました。

美山はこの先人の方たちがいて、今がある。それだけは紛れもない真実

実はまだまだ歴史はつながりますが、

今日はここらでよかろかい。

最後まで読んでいただきありがとうございました^^

今度皆さんの街の歴史も教えてくださいね~~(^^)/

文 美山商店補欠キャプテン 松岡晃司





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