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マカロニウエスタンに触発されて書く小説の話

ワンス・アポン・ア・タイム・イン・ザ・ウエスト

小説「拷問人の息子シリーズ」はクトゥルー神話小説であると同時に、多くのマカロニウエスタン映画に触発され、同時に強い影響を受けています。いや、松代なりにマカロニウエスタンの世界や雰囲気を小説として描いたと言ってもよいほどです。
ちょうど今日からマカロニウエスタンの傑作とされる「ワンス・アポン・ア・タイム・イン・ザ・ウエスト」が全長版で劇場公開されます。それにちなんで、拷問人の息子シリーズを書くにあたっての、マカロニウエスタンとの関わりについてのエッセイをまとめてみました。

また、今日から劇場公開される「ワンス・アポン・ア・タイム・イン・ザ・ウエスト」全長版ですが、自分は朝日新聞出版から発売されていた「マカロニウエスタン傑作映画DVDコレクション」版を鑑賞しています。いちおう、ノーカット全長版ですが、タイトルは本邦初公開時の「ウエスタン」となっていました。作品内容などについては本稿の主題からずれるので、以下のスタッフブログを参照してください。また、自分は吹替版も鑑賞していますが、テレビの洋画番組でなじんだ声がとても懐かしく、郷愁を感じるという点でも作品世界への没入感を高めてくれたように思います。

マカロニウエスタン傑作映画DVDコレクション「ウエスタン」

さて、拷問人の息子シリーズとマカロニウエスタンとの関わりについてですが、基本的に自分が映画で描かれる世界の雰囲気に惹かれ、好んでおり、それを作劇の土台にしているというところがあります。
その、自分がマカロニウエスタンへ惹きつけられる要素は、まず「虚無感」であり、次に「遠景と近景が交錯する演出」であり、そして最後に「個人へ焦点を当てた作劇でありながら、おぼろげに背景世界の矛盾や葛藤を描いていること」です。そして、自分なりにですが、なんとかこれらの要素を小説へ取り込もうと努めています。

マカロニウエスタンの虚無感

マカロニウエスタンの虚無感と言っても、自分はいくつかの要素があると思います。それは大きく別けて以下の3要素だろうと思っていますし、小説を書く際にはシーンや構成に応じて取り込めるものと取り込めないものを選んでいます。

1:主人公が抱える虚無感
2:物語構造が持つ虚無感
3:急速に流行したことによって制作者から漂う虚無感

まず、主人公が抱える虚無ですが、これはマカロニウエスタンを代表する要素であると同時に、アメリカの西部劇とは決定的に異なる要素とされるものです。アメリカの西部劇との相違はさておき、社会的な承認や個人的愛情関係への無関心、あるいは「それらより主人公の個人的価値観を優先する」キャラクターは、おうおうにして大衆娯楽の人気を博す要素でもあります。しかし、マカロニウエスタンにはさらに踏み込んだ「社会的な承認や個人的愛情関係の拒否、あるいは嫌悪」とか、また社会通念としての良識を積極的に否定するかのようなキャラクターが主人公として登場することもあり、それが作品における虚無感を強め、同時に独特の雰囲気を醸し出しています。
自分は小説に承認や「モノガミー的愛情関係」を求めない、また社会的には決して承認されず、社会通念としての良識から排除されたキャラクターを登場させることで、マカロニウエスタン的な虚無感を取り込もうと考えました。

次に物語構造が持つ虚無感ですが、これは自分がマカロニウエスタンの中でもメキシコ革命を背景にしたものや、残酷な描写の作品を好んでいることが、少なからぬ影響を及ぼしています。マカロニウエスタンにはいくつかのサブジャンルというか、特にコメディタッチの作品は少なくないので、物語構造の虚無感はジャンル全体に共通する特徴とは言い難いところもあるのですが、このへんは個人の感覚ということでご理解ください。

ただ、マカロニウエスタンを代表する作品のひとつである「殺しが静かにやって来る」の物語構造としての虚無感は誰もが認めるところですし、その構造は残酷な描写の作品にも通じるところがあります。
その構造とは「旧来の社会的な承認や個人的愛情関係、また社会通念としての良識」を「作品世界の法則や人々の価値観」によって毀損するというもので、観客にとっては登場人物によって示される虚無感よりも強い印象を受けるかもしれません。
自分は小説において、作品世界の法則や主人公以外の人々が抱く価値観においても、現代社会の読者が重視し、尊ぶであろうものを「当然のように毀損させる」ことで、虚無感を強めようと心がけています。

殺しが静かにやって来る:米版予告

そして、その構造は血みどろの内戦となったメキシコ革命を背景とする作品にも通じるところがなくはないのですが、革命を背景とするがゆえに「旧来の社会的な承認や個人的愛情関係、また社会通念としての良識」を毀損することが「革命のカタルシス」となるため、その点はかなり事情が異なっています。

では、メキシコ革命が背景となる作品における虚無感とは、いかなるものでしょうか?

それは、つまるところ「革命の挫折」にほかなりません。

革命の挫折とは、単にその失敗を意味するのみならず、その過程における変質やいさかい、あるいは成功して権力を得た当事者たちの変節なども含まれます。夢を追い、理想に目覚めた人々が、困難に直面して情熱を失い、また現実との妥協を余儀なくされる有り様は、ほろ苦い虚しさを感じさせるものがあります。
拷問人の息子シリーズでも、革命の挫折がもたらす虚無感を盛り込もうと考えてはいます。ただ、革命という社会的な出来事や言葉につきまとうイメージは大変に重く、強いものがあるため、それに引きずられないよう、作品世界と調和させることにも努めています。

そして、急速に流行したことによって制作者から漂う虚無感ですが、これは映画ジャンルとしての「雰囲気」であり、多くのマカロニウエスタン作品を鑑賞した好事家が感じる部分なので、小説においては考慮に入れていません。
もう少し具体的に説明するなら、マカロニウエスタンが短期間で隆盛を極めた時期に、娯楽作品とは距離をおいていた芸術作品系の監督らがジャンルに参入した結果、映画としては破綻していないものの「なんか違う」作品が生まれたり、あるいは職人肌だが「マカロニウエスタンやアメリカの西部劇に思い入れも憧れも、時には敬意すら欠いた人々」が、いっちょ噛みで制作した作品が持つ虚無感ということです。
流石にこのような虚無感はマニアック過ぎますし、また小説へ盛り込んでも読者の楽しみにはつながらないであろうことが明らかなので、拷問人の息子シリーズでは無視しています。

遠景と近景が交錯する演出

荒野の用心棒(米版予告)

マカロニウエスタンといえば、手前に主人公の後ろ姿をおいて広場に立つ悪漢とその手下を引きのアングルで見せ、表情や拳銃のアップが交互にカット・インする決闘シーンがおなじみですが(引きの画面に主人公がフレーム・インするなどのバリエーションもありますよ)、その他にも主人公と背景の人物とで情景を説明したり、あるいは集団の中心人物をクローズアップしつつ、他の人物を背景に入れた遠近描写など、遠景と近景を交錯させる演出が印象に残ります。
もちろん、遠景と近景をバランス良く描写して調和させることは映画の基本ですし、また「映像的な演出」を文字媒体である小説に応用させるには、かなりの工夫をこらさなければならないのですが、自分としては地の文と内面描写をテンポ良く切り替えることを心がけています。
ただ、近景はキャラクターの外見描写よりも行為や心情を通じて表現したいところがあり、それがどこまで読者の興味をひきつけているか、文章技法としてうまく機能しているかどうかについては、自信があるとは言い難いところがなくはないです。
この点については、後述する「個人へ焦点を当てた作劇でありながら、おぼろげに背景世界の矛盾や葛藤を描いていること」を通じて、時間軸における遠景と近景の要素も描写しつつ、より読者の興味をそそる文章を組み立てたいと考えています。

個人へ焦点を当てた作劇でありながら、おぼろげに背景世界の矛盾や葛藤を描いていること

アントニオ・ダス・モルテス予告

マカロニウエスタンは基本的に個人、あるいは少人数の主人公たちへ焦点を当てた物語で、大きな組織や集団、例えば企業や軍隊に焦点を当てることはほとんどありません。これはメキシコ革命を題材にした作品でも同様で、革命軍と言っても組織としての体をなしていないゲリラ集団の、それも頭目やその周辺という個人を描いています。
そもそも、群像劇か個人劇か否かという問題以前に、マカロニウエスタンの主人公は社会通念どころか法律の外側に位置するようなアウトローで、当然ながら企業や軍隊、国家といった組織と主人公の関係は希薄です。これは、虚無感のところでも説明しましたが、社会的な承認や個人的愛情関係への無関心、あるいは「それらより主人公の個人的価値観を優先する」キャラクターであり、作品世界の社会通念を積極的に否定するかのような言動も少なくありません。しかし、だからといって物語の背景となる作品世界が描かれないのかというと、そんな事はないのです。
閑話休題。作品世界の背景とは別に、ケネディ大統領暗殺事件をモチーフにした「怒りの用心棒(原題:IL PREZZO DEL POTERE 英題:THE PRICE OF POWER 別邦題:復讐のダラス)」のような、現実世界の問題をかなり直接的に反映させたような作品も存在しています。

怒りの用心棒(原題:IL PREZZO DEL POTERE 英題:THE PRICE OF POWER 別邦題:復讐のダラス)予告

話を戻しますと、マカロニウエスタンの登場人物たちはアウトローとして社会的な承認や個人的愛情関係への無関心、あるいは「それらより主人公の個人的価値観を優先する」キャラクターですが、それゆえに仲間内の規範や過去の因縁は重要な意味を持っており、それは作品世界を構成する要素として、おぼろげながらも観客へ提示されます。また、そのことと作品世界の社会通念との差や矛盾、あるいはその社会が抱える問題や葛藤も無視できないところがあります。なぜなら、作品世界における常識は「言語化されざるがゆえに常識として意識され、機能する」ものなので、だからこそ社会通念どころか法律の外側に位置するようなアウトローとしての主人公を通じて、間接的に背景世界の問題や葛藤を描くことも重要な意味を持つのです。

ただ、個人を通じて作品世界の矛盾や葛藤を描くというのは、間接的であるがゆえに作家の手腕が問われるところであり、個性が発揮される側面でもあります。いささか極端な例で、しかもマカロニウエスタンとは言えない作品でもありますが、先に予告編のリンクを貼った「アントニオ・ダス・モルテス(原題:O Dragão da Maldade contra o Santo Guerreiro)」はブラジルの伝説的な匪賊であるランピオン(Lampião:リンク先は葡語wiki)が現地社会で英雄視されていることを背景として、主人公の言動から多層的な作品世界を抽象的に語らせています。というのも、ランピオンの討伐に関わった匪賊殺しのアントニオ・ダス・モルテスを主人公とすることで、神話としてのランピオンが実在していた作品世界を通じた語りが、現実のブラジル社会と重なりつつ観客の葛藤や問題意識を刺激するという、ブラジル社会と文化に疎い観客にはいささか難易度の高い構造となっています。
ただ、マカロニウエスタンには先に述べたように「怒りの用心棒(原題:IL PREZZO DEL POTERE 英題:THE PRICE OF POWER 別邦題:復讐のダラス)」を始めとする同時代の社会を色濃く反映した作品や、あるいは「ジャンルとして成立したマカロニウエスタンの先行作品」を踏まえた作品世界を描く作品も少なくありません。単純明快な痛快娯楽としての体裁を取りつつ、社会問題や矛盾への葛藤を喚起したり、あるいはジャンル内のお遊びを忍ばせるというのは、他の分野でも広く行われている手法ですが、それが多様で同時代性を超える読みを可能としているように感じています。

このような、個人を通じて作品世界の問題や葛藤を語る手法は、小説にも多用されており、拷問人の息子シリーズでも自分の力が及ぶ範囲で取り入れようと試みています。ただ、それがうまく機能しているかどうかについての手応えは、いまだに感じていません。まだまだ試行錯誤を繰り返すかもしれませんが、なんとか自分の文章に活かしたいと考えています。

最後に、これもまたマカロニウエスタンとは言えない作品ですが、ジャンルとしてのマカロニウエスタン構造を借りつつ、監督のやりたいことを盛りに盛った作品を紹介しておきます。

この「エル・トポ(El Topo)」はアレハンドロ・ホドロフスキー監督の出世作にして代表作で、マカロニウエスタンっぽい世界やキャラクター造形に作家のやりたいことをどんどん盛ったら出来上がったのではなかろうかという雰囲気がたまらなく好きなのです。自分の手に余るかどうかは別問題として、最終的にはエル・トポのような小説を組み立てられたらいいなと思っています。

エル・トポ 製作40周年デジタルリマスター版(配給会社による解説)

エル・トポ予告編

『エル・トポ 製作40周年 デジタル・リマスター版』予告編



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