救いようのない人生に寄り添うフライパンにふさわしいのはすき焼き風牛肉炒めか? 卵のせ即席焼きそばか?

画像1 自分が影響を受けた作品を生み出した人々の半分くらいより長く生きてしまい、残り半分がこの世を去った年齢も迫るくらいになると、人生に対する期待値なんかほぼセロに等しい。それでも、のしかかる救いの無さにうつむいてしまう日がある。そんなときに思い出がこびりついたフライパンを持ち出し、気晴らしになりそうな料理をこしらえ、そのまま食べる。そして、汚れとともにやるせなさを洗い流し、空焚きで水を飛ばしたフライパンに油を引いて、ちょっとでも気持ちを切り替える。のはいいけど、年寄りの胃袋にすき焼きは別の意味で重かったかな?
画像2 気晴らしに料理するとき、考えるのはちょっと奮発していいもの、精の着くものをたべるか、あるいはありあわせのなにかを即席袋麺かとあわせて思いっきりお手軽に済ませるかの両極端だったりする。鍵は買い物で、そもそも家を出て食材を買い足すぐらいに元気なら、気晴らしに料理なんかしなくてもだいじょうぶなんだよな。そんなわけで、たいていは即席のなにかにありあわせのなにかを足した、なにかよくわからないなにかをこしらえるのだけど、そんなときも使い込んだフライパンは頼りになる。あの日も袋麺の焼きそば仕立てに卵をのせ微笑んでいた。

¡Muchas gracias por todo! みんな! ほんとにありがとう!