個撮百景 Portfolio of a Dirty Old Man 第1話:手癖と即興のあいだに
第1話:手癖と即興のあいだに
■個撮
個人撮影の略。撮影者とモデルあるいは被写体が、それぞれ個人と個人で行う撮影。
個人撮影には、撮影会において時間を区切り、複数の撮影者が順番に行うものと、撮影者がモデルあるいは被写体と交渉し、個別に日程を調整して行うものがある。
(亀子写写丸 フォトグラファーの口説きテク最新101 民明書房 平成31年)
ポートフォリオサイトへ画像をアップし、更新を告知する。画像のいくつかはソーシャルネットでも新作として告知し、モデルさんや被写体さんを募集する。
基本的に、その繰り返し。
なんらかの反応があれば嬉しいが、とりあえず閲覧や拡散の数はまめに確認し、だいたいの相場というか、自分の中で目安となる値と比較したり、増減傾向は頭にいれておく。ただ、閲覧数やイイねがハネても、それは腹の中におさめて、外には出さない。これは品格の問題じゃなく、方向性や趣味の問題。多分、絶対数とは無関係にハネたと騒ぐ、いや喜ぶ様子をソーシャルメディアで披露したほうがモデルさんや被写体さんへの認知度を高めるのだろうけど、それこそ趣味じゃないのだ。
いまアップした写真は、カメラマン募集掲示板を経由して申し込んだモデルさんを即興的に撮ったストリートポートレートで、公開許可をいただいたカットの全部だ。モデルさんは路上撮影初体験だったらしいが、順応が早くて助かった。最初のうちは通行人を気にしていたが、移動しながら撮っていくうちに「ストリートは人が多いし、野外撮と全然ちがいますね」なんて言いながら、人気がなくなったとみるやさっとポージングしつつ『さぁ、撮って』と言わんばかりの目線を投げるようになっていた。
それはそれで助かるといえなくもなかったが、自分のようにどんくさい上に引き出しの少ない人間はうかうかと乗ってはいけない、危険な誘いでもあった。
ただ単純に『いかにも撮らされてます』的な、記念写真みたいなニコパチポートレートでも作品として成立させられるし、きっちりとモデルの求めるタイミングとシンクロしつつシャッターを切れているなら、むしろそれは作品として十分に強くもなる。だが、互いの同調がずれると、それこそシンクロ不良のストロボ写真のほうがマシじゃないかってぐらい、それはもうひどいお写真になってしまう。
ともあれ、モデルがシャッターを要求している撮影現場で、ぐだぐだ考える余裕なんかどこにもない。ちゅうちょせず、感じるままにシャッターを切るしかないし、最近のカメラは人間の瞳を検出し、自動的にピントをあわせてくれるから、あとはカメラとモデルが命じるママでもなんとかはなる。まぁ、どこぞの大御所先生はコンセプトワーク、つまりテーマと撮影場所、全体のイメージなどを決めたあとはライティングからポージングからほとんどスタッフ任せで、ファインダもろくにみないらしい。その話を聞いたとき、ポートレートでもノーファインダーショットなんて大笑いしたけど、まさか自分もそういうことになるとは思わなかった。
そんなわけで、撮影の後半は移動しながら、いい感じの背景を見つけては相手が決めたポーズに合わせてシャッタを切るの繰り返し。ひごろから路上の光景を撮影している地域なので、だいたいの道筋や雰囲気はもちろん、時間帯ごとの日当たりや明るさも頭に入ってる。
歩いて、周囲を観て、足を止め、撮る。
そういった行為の連なりが心地よい高揚感、それがグルーブなんてちゃちな言葉でも、なんとなくカタカナで表記したくなるような『ノリ』をつくりだしていく。
自分のリズムと、相手のリズムと、あわせられる間はあわせつつ、ずれを感じたら修正しての繰り返し。そして、繰り返しから生まれる心地よさを指先と視線に連動させる。しかし、心地よさに溺れないよう、思考を放棄しないよう、手癖でシャッタを切る快楽に身を委ねないよう、気持ちだけはしっかりと張り詰めている。
それでも、時折、ふっとモデルさんの表情に困惑が走る。
即興が過ぎて独りよがりになったか、緊張が緩んで手癖で撮り始めたか、いずれにしても軌道修正せねばならん。
そういうときはひと休みしたり、思い切って場所を変えたり、とにかく流れを変えて仕切り直す。
やがて、約束の時間が来て、撮影は終わる。あらかじめ打ち合わせていたとおり、撮影しながら最寄り駅へ近づいていたので、モデルさんも道はわかるようだった。いちおう、なかば儀礼的にお茶でもとお誘いしたが、彼女は口元を『ほらきた』と言わんばかりにゆがめつつ、それでも多少は申し訳無さそうな表情をつくりなおし「ご遠慮させていただきますね」とだけ素早く答えると、足早に立ち去っていった。
まぁ、報酬は先渡しだったし、事前のやり取りからも撮影者とべたべたしなさそうだと思っていたから、意外でもなんでもなかったが、それでも逆鱗に触れてしまったのではないかと、かすかな不安は残った。
帰宅するとすぐにデータをパソコンへ吸い出し、同時にバックアップも保存する。期待していなかったとは言っても、いちおう確保していたお茶の時間がまるっと余ってしまったし、そのまま現像処理を始める。即興的な撮影だったし、記憶が新しい間に処理するのは願ったりかなったりじゃないかなんて、そんな慰めともなんともつかない思考は、意識すると自分が惨めになりそうで、浮かんだはしから別れ際にみたモデルさんの表情で上書きしていく。
さておき、現像アプリに表示された画像には、背景と調和したモデルさんの姿と、隠しきれない不信や戸惑い、いらだちのまじった表情の不協和が、自分にとって心地よい世界を作り出していた。
これらの撮影素材をどのように処理するか?
即興演奏、フリージャズの録音を加工する技師は、どんなことを思ったのだろう?
そんなことを思う自分に苦笑しつつ、それでもやはり音楽にたとえるのは腑に落ちやすく、使い勝手が良いとも感じてしまう。
かつて、歴史に名を刻んだ偉大な写真家が撮影ネガを楽譜に、プリントされた作品を演奏になぞらえてからこっち、写真の加工や処理、それに撮影まで音楽になぞらえるカメラマンは佃煮にするほどうじゃうじゃいて、自分もついつい真似してしまうのだ。
それもジャズ。
フリージャズ。
形式にとらわれない音楽が、演奏がモダンでハイソだった。そういう世代の残り香が、自分の思考に染み付いて抜けない。
しかし、写真の各段階を考えなくジャズになぞらえてしまうたび、過去の苦い記憶がよみがえり、俺は自分をあざ笑う。それは、楽器の演奏もこなすモデルさんに指摘された経験で、彼女は「その例えは、なにかすごくおかしいですよ。筋が通っていない、非論理的な感じがします。音楽はもっと論理的でかっちりしているんですよ。あやふやで雰囲気に流されているようでも、根底には厳密な理論があるんです」と言って、また音楽はコード進行の制約を踏まえつつ、その上でいかに曲を成立させるかが大切なんだだと、それは即興演奏でもフリージャズでも同じで、むしろ形式が存在しないからこそ、理論的な基礎がしっかりしていないと音は出ても音楽にはならないのだと、熱心に教えてくれたのだ。
その経験は自分にとってすごく強い印象を残し、折に触れて思い出している。その後、バレエをやってたモデルさんからも、また似たような話を聞かされた。
「決まったステップ、振り付けのないフリーダンス、即興舞踏ほど理論やステップの知識が求められる。それは人間がヒトのカタチをして踊るという制約がある限り、決して逃れられない」
それでも、時として自分は、あえて音楽になぞらえる
自分はもちろん、撮影者の大半は写真への関心が最優先で、音楽については意識がさほど向いていない。
だから、陳腐な決まり文句として即興演奏だのフリージャズを口にしても違和感を覚えないし、それこそ雰囲気でなぞらえているだけだ。
しかし、陳腐な決まり文句にも意味はある。
陳腐な決まり文句は安定していて、伝わる力がある。だから、言葉を選ぶ余裕がないとき、伝えたい相手との思考や文化的接点が乏しいときには、自分も陳腐な決まり文句に頼る。しかし、陳腐な決まり文句に頼ってしまうのは、相手に『私は自分の言葉が伝わらないと判断しました』と、私はあなたを信頼していないのですよと、そんなメッセージにもなり得てしまう。
だから、自分はできるだけ陳腐な決まり文句に頼りたくないと、少なくとも頼らずに言葉をひねり出すのが、相手自身や相手の知性に対する誠実さを示すと思う。
それは写真の処理もおなじ。
即興的な撮影であっても、いやむしろ即興的な撮影だからこそ、処理の段階では手癖や陳腐な決まり文句に頼らない、深くていねいな思考に基づく処理が求められる。だから、自分は撮影したときの記憶を踏まえつつ、慎重に処理する画像を選び出し、それらを写真作品として作り込んでいく。路上撮影でもポートレートだから、ストリートフォトよりはグラビアの文脈に寄せ、されに自分の方向性を探っていく。正直なところ、自分はグラビアがあまり好きではない。実際にグラビアは制約が厳しく、おうおうにして陳腐な決まり文句すれすれの画像づくりがウケたりするのも、自分の好みではなかった。
路上撮影のストリートポートレートだから、あまりグラビアの文脈やお約束を意識しなくても問題ないが、かといって大好きなゴリゴリのハイコントラスト粗粒子表現というわけにもいくまい。それは単なる不協和音に過ぎず、下手すると単なる雑音を芸術と言い張るような、カンチガイ現代音楽になってしまう。
そもそも、自分の大好きなハイコントラスト粗粒子表現だって陳腐な決まり文句だし、撮影するストリート写真も手癖で撮るクリシェの積み重ねにすぎない。ジャンルの異なる陳腐な決まり文句を組み合わせたところで、たかはしれている。
しかし、撮影時の即興性を活かして、ストリートフォトよりの処理をほどこすのは、悪くない考えのように思えた。そこで、ポージングや表情がきっちり決まっていない、いささかズレた、不協和音すれすれだけど、自分の好みにハマっている画像と、モデルさんのポーズや表情、目線などがいかにもポートレートとして決まっている画像を選び、それぞれに調和する処理をほどこして、クラウドのファイル共有サービスへ上げた。
撮影した画像は、モデルさんの許可を得ないとネットなどで公開できないという、事前の取り決めがあったのだ。ただ、公開前チェックをするモデルさんでも、送った写真はたいていほぼ全て公開を許可するので、特になにも考えていなかった。
ところが、モデルさんは半分以上も公開不可としたばかりか、選んだ写真も決まり文句の繰り返しめいたファッションスナップばかり。自分が気に入っていたカットは、ひとつとして選ばれていなかった。
アップロード通知への返信に記された、ひどく短い公開許可写真リストを繰り返し確認しているあいだに、だんだんといろいろななにもかもが、どうでもよくなってくる。やがて、大きく深いため息をひとつ。
つまり、自分の写真は伝える力が強くないと……。
なんだかんだイキっても、結局はクリシェに頼るしかないのか?
とはいえ、陳腐な決まり文句みたいな写真だったら、日本中のカメコが毎日のように撮りまくってる。いまさらお前が撮らなくてもいいだろう。
なぜ撮る?
その問いかけに、自己満足だと開き直る度胸すらない。
それでも、いつの日かクリシェの積み重ねではない、自分のなにかを撮る。
それだけを信じて、そのために撮る。
そう自分に言い聞かせながら、ポートフォリオサイトへ画像をアップし、更新を告知する。画像のいくつかはソーシャルネットでも新作として告知し、モデルさんや被写体さんを募集する。
了
この作品はフィクションです。実在するいかなる団体、人物とも関係ありません。
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