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大人の行為と存在  book review

『あの空の下で』
フランシスコ・ヒメネス・著
千葉 茂樹・訳
小峰書店 2005

 メキシコからの移民労働者家族を描いた物語だ。前作『この道のむこうに』の続編で、主人公の少年パンチートは著者自身でもある。

 パンチート、兄ロベルト、両親の四人家族は、学校もないようなメキシコの小さな村から貧しさを逃れるため、アメリカのカリフォルニアにやってくる。国境警備隊の目を逃れ有刺鉄線をもぐっての不法入国だ。以来、彼らは十年間、作物の収穫の時期に追われるよう移民労働者たちと共にカリフォルニア中を転々と移動しつづけた。国境警備隊につかまることを恐れながら。

 長年に渡る重労働で父は腰を痛め収穫の仕事に出られなくなってしまう。生活は苦しくなる一方だった。通っていた小学校の先生の計らいで、兄のロベルトは小学校の用務員の仕事得る。家族は、収穫のたび訪れていた農場のバラックに腰を落ち着けることになった。

 兄は高校に通いながら用務員の仕事をこなし、パンチートは中学に通いながら放課後や週末にレタス、ニンジン畑で働き、家族を支えていた。ひとつの場所にとどまるのがうれしくてたまらないパンチートだったが、それは危険でもあった。国境警備隊に見つかってしまったとき、前編『この道の向こうに』は幕を閉じた。

 家族がメキシコへ強制送還される場面から、この続編は始まる。再び法的な手続きをとり、一時は家族が離ればなれになりながらも、彼らはカリフォルニアに戻って来る。この地でロベルトは高校を卒業し結婚、子どもにも恵まれる。

 高校卒業後、パンチートは奨学金を受け大学進学のため町を離れる。

 この作品を私が好きな最大の理由は、パンチートと出会う様々な大人たちが魅力的だからだ。彼らは、貧しいパンチートに同情し救いの手を差し伸べるのではない。大人として、そのとき出来ることをあたりまえのように行うだけだ。

 例えばパンチートは、小・中・高校と様々な先生と出会う。収穫の仕事で授業が遅れがちになる彼に、昼休みを返上して教えてくれるレマ先生がいた。

 パンチートは授業中に教室で国境警備隊に連行された。再びクラスに戻った時も先生たちは何もたずねたりはせず、戻ったことだけを喜んでくれる。こんな場面を子どもたちは、日常の中で見ている。そして、身につけながら大人になっていくのだと思う。

 先生だけではない。賃金を払いに来る、農場主のイトウさんもそうだ。彼は小切手を三枚書く。パンチート、ロベルト、父の三人分だ。パンチートとロベルトには1時間85セントの賃金を払ってくれる。メキシコ人季節労働者と同じ賃金だ。そして、父には1時間1ドルと余計に払ってくれる。父が熟練したイチゴの摘み手で、もう何年も働いているからだ。メキシコ人季節労働者と、イトウさんはひとくくりにしない。敬意を払う相手には報酬でも応えている。それは子どもに対しても同じだった。

 ロベルトに路上でいきなり声をかけられた清掃業のマイク・ネヴィル2人に週末だけ仕事をくれる。彼らの真面目な働きぶりに、1ヶ月後には仕事も増やしてくれた。早朝や夜に行うガス会社や組合、事務所などの清掃の仕事だ。仕事先のカギ束も途中からは彼らに預けくれる。

 他にも様々な人たちがいる。オフィスのカウンターの上に、掃除に来るパンチートへとクッキーをおいてくれる人がいる。彼がくるのは、会社が終わった後だ。2人が顔を合わせることはない。おそらくこれは、自分の仕事場をきちんと掃除してくれる人への敬意であり心遣いだろう。

 偶然、事務所の物置で見つけた古いタイプライターを譲ってくれる人もいた。彼らの行為にもし理由があるなら、それは『大人だから』それだけだと思う。

 パンチートにスタインベックの『怒りの葡萄』を手渡したのはベル先生だった。彼女は教師だったけれど、それは教師としての行為ではない。一人の大人としての行為だった私は思う。彼らに出会わなければ、パンチートの今はない。

 子どもより大人の存在が光っていた。時として彼の成長を家族以上に支えてきた。子どもは大人を見ていると痛感した。

同人誌『季節風』掲載

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