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内なるもの

 “コミュニケーション能力”という語句に対して、明るくて、外交的で、話ができるようなイメージを持つのは私だけだろうか。この言葉の語源は、ラテン語のcommunis(共通したもの)といわれる。だから、「何かを共通のものにする」という意味があるので、決して話し上手である必要はない。言葉を発せずとも身振り手振りでもいい。何かを伝えるだけの一方的なものでなく、共通のものにする以上、双方向のやりとりが大切であるため、相手からの情報を聴いてあげることも重要なのである。
 ところで、小学校の英語教育を否定するわけではないが、英語を学んだからといって、コミュニケーション能力が高まるとは限らない。ネイティブがみな外交的でないことから明らか。グループワークで会話をすることも増えたのだが、話すことだけがすべてではない。大切なことは、英語という言葉を習得することが目的なのではなく、自分の内なるものと向き合うために自己対話をしたり、周りの人と対話をしたりすることである。私は対話することも文章表現することも至極苦手であった。今も、か…。でも、色々な人や本に出合うことでご縁が広がり、対話も文章表現も心地よくなってきた。人生、いつ何が起きるかなんて分からないとつくづく思う。
 さて、漫画『BLEACH』をこよなく愛読していた。その中で、“斬魄刀”と対話する場面がある。つまるところ、「道具」との対話である。スポーツでときどき道具を粗雑に扱う人を見かけるけれども、見るに堪えない。確かに、ちょっとした差が結果に結びつく場合があることも分かるが、道具に感情がないと思い、八つ当たりする姿は目に余る。娘に「物を大切にできない人は、友だちも大切にできないよ。スポーツで一番になっても物を大切にできない人は恰好悪い。物を大切にできる人の方が恰好いい」と話をしたことがある。道具を使うのは自分だから、どう動かすかは自分次第である。しかし、自分がどのようにして道具を使えているのかは案外と知らない。道具どころか、自分の身体をどう動かしているかも知り得ない。だからこそ、自分自身とも対話する(自分と向き合う)ことは大切だと思う。
 よく言われることだが、読書も同じである。本には、先人らの言葉が綴られているが、直接会うことは大概できない。だから、読むことによって、先人らと対話することも可能になる。また、先人の経験を擬似的に体験することもできる。こんな素晴らしいことはないと思う。さらには、ただ読むだけではなくて、文章を書いたりすることで自己との対話も深められる。
 喜多川泰さんは『書斎の鍵』の中で、「本を読むことで読む前と読んだ後では“世界観”が変わる」と述べている。まさにそのとおりだ。目に見える形ですぐに効果が現れることに固執してしまいがちだが、積み重ねていくことで形として現れずとも自分の考え方に幅が出てくる。奥行きといってもいい。さらには、「自分のためでなく、大切な人のために読む」という捉え方は何とも素晴らしい。この言葉は本を読む契機であり、私の人生のあり方が変わった一言である。大切な人の仕合せを願い、ずっと寄り添っていくためにも、どんなことが起こりえても受け止められる心の深さを追求したい。

♬M.M. の「哲学対話P4S」コーナー♬

第3回<人はなぜ学び続けるのか。なぜ必要ないことまで勉強しなければならないのか。>
 先週、1年の学力養成講座で「勉強(学問)は何のためにするのか」を問いました。将来のため、大学に入るため、…。どれも納得解です。しかし、“将来”とはあまりにも漠然としています。どのあたりを指しているのでしょう。でも、総じていうと、皆さんの答えがどことなく「自分」のためというように聴こえてしまったのは気のせいでしょうか。でも、斯く言う私は、とある読書会(読書のすすめで初めて参加した“人参畑塾”)にて、「自分を磨くため」と答えていました。さきほど、納得解と書きましたが、皆さんが思い描いているものはどれも答えなのです。勿論、正解と呼べるものはありません。しかし、今、学問は「人のため(人を幸せにするため)」に行なうものだと捉えています。昔の偉人たちは、人々の幸せのために、志を高く持ち、読み書き算盤を必死に勉強していました。ときには、違法でありながらも外国に行くこともありました。脱帽です。その熱意に憧れさえ抱いてしまいます。
 そもそも人間には「知りたい」という本能が備わっています。それゆえに、目まぐるしく新しいものを創造されてきているのではないでしょうか。この半世紀で途轍もない進歩を遂げていると思います。それもすべて学ぶ機会が保証され、日本(世界)の豊かさを願い、学び続けてきた成果と言えます。
 さて、私自身も数学、理科以外は学ぶ必要はないと思って“いた”一人です。でも、今言えるのは、必要だからこそ目の前にある気がします。誰もが認めるほどに本当に必要性がないとしたら、それが残るはずがありません。例えば、芸術を学びたい人にとって、他の教科は不要に思えます。けれども、芸術家レオナルド・ダ・ヴィンチはあらゆる分野で顕著な業績を残しています。絵だけ描ければいいというのではなく、途轍もない感性の持ち主であり、それが絵に凄まじい影響を及ぼしていたに違いありません。『最後の晩餐』という絵は、単なる技法に留まらず、さまざまな想いが込められているのです。
 とどのつまり、何かに没頭できることは素敵ですが、固執して視野を狭めてしまうのではなく、直接的な影響ばかりに目を向けずに、間接的にでも人間的・感性的に感化していることがあることに注目してみる、心のゆとり、そして豊かさがあったら、より魅力的な人生を歩めていけるのではないかと信じてやみません。
 今、勉強していることに必要性を感じないかもしれません。でも、学問があなたにいつ、どのように必要に迫られるか、役に立つかは分かりません。私はどの教科も真剣にやれば良かったなと思っています。ただ後悔はしていません。必要になったら改めてやればいいと思います。いつでも学問はできます。あなたの身近にいる人、出会ったこともない人、これから将来的に出会う人の幸せを願うときに。
 今、本を読むのは、1割は自分を磨くため、9割は身近にいる人、周りの人、これから出会う人のためです。5年前までは、読書はただの知識を得るものか、娯楽だと思い違いをしていました。だからこそ、読書感想文なんて価値が分かりませんでした。教えてもらうこともなく、何を書けばいいのか分からず、文章を書けば蔑ろにされ、苦痛でしかなかったです。でも、今は書くこともまじ楽しいですね。
 “necessary”という言葉の語源は、ラテン語の“necesse(譲歩するな)”であり、退けられないものという意味です。必要性の有無の間で葛藤することがあっても、相手の意見に乱されることなく、流れに身を任せて進んでみるのもいいでしょう。人生は選択の連続に見えますが、なるようにしかなりません。自ずと流れていくのです。起きていることは“すべて”あなたの人生そのもの。恰好いい人生を。

2021.11.12

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