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実家片付け②捨てながら今の自分を知りゆく

先日漫画の処分をきっかけに、実家の元・自室(現・母の部屋)の大掛かりな片付けを始めました。

溢れかえっていた棚がずいぶんすっきりすると、逆に周りのゴミ溜めのように集まってきた過去の異物たちにも、猛烈な違和感が湧いてきました。
そこから2日かけ、母とふたりがかりで要不要の選別・分別・解体・掃除をし、3日目には粗大ゴミと不燃ゴミを車に詰め込み、ゴミセンターへ持っていきました。

ちなみに、そのエリアには兄や姉のものもありましたが、今回捨てたのは母とわたしのもの、あとは本棚など家族共有のもの。片付け始めるとつい他人のものまで捨てたくなってしまいますが、衛生的に問題がある、危険であるなどでない限り、基本的に人のものは勝手に捨てないようにしましょう。
つまり、兄や姉のものはまだそこかしこに残っているということです…!


実家は無駄に大きいのですが、広いだけものは溜まるし、広いので住んでいない家族が平気でものを持ってきたり、置き去りにしています。
それって本当はルール違反ですよね。
今は反省していますが、わたしもしていました。今は住んでいるので「わたしの家」ですが、自分の住んでいない領域を侵すべきではありませんね。
これは、別居の家族だけではなく、自分自身にもよくないのです。

もう10年近く前になりますが、初めて読んだ片付け本、ある意味古典のカレン・キングストン著「ガラクタ捨てれば自分が見える: 風水整理術入門」に、”目の前にないもので、普段は忘れているようなものでも、人は影響を受ける”というような記述があり、強烈に記憶に残りました。
それを今、ありありと実感しています。



また、転職活動中に抱き始めた違和感にも気付きました。
「もうデザインの仕事はいいや」と2020年に思っていましたが、たまたまご縁がありカナダ渡航前まで約3年デザイン関係の仕事をさせていただきました。でも、この後はもういいと思っていたのに、結局また転職サイトでデザイン業を探している。やりたいわけでもないし、技術や能力をアップデートしたいとももう思わない職種なのに。「ここで働きたい」ではなく、「ここならまあいいかなあ」。当然受かるわけがない。

わたしの場合、「これしかできない」のではなく、「周りから望まれている・思われている”と思い込んでいる”自分」のために、デザインの仕事をまた探そうとしていたことに気付きました。

そもそも、わたしは高校から芸術・デザイン関係の勉強をしていました。
高校で、大学で、大学院で、就職後…みんながどんどんそこから去っていく姿を、20年近くずっと見続けてきていました。なんでみんな辞めていっちゃうの、せっかく勉強したのに、と思っていました。
でも、自分だって、その道からアウトしてもよかったのです。
親の「せっかく勉強したんだから、その関係の仕事をして欲しい」なんて言葉にだって、とらわれる必要もなかったのです。

ほこりにまみれた受賞作品を捨てて。乾燥して固まってしまった画材を捨てて。思い出が詰まりすぎた使い切ったクロッキー帳を捨てて。
少しですが、すっきりと、解放されつつある自分を感じています。





ざっくり、2日で捨てたもの。
可燃ゴミ3袋(通常のゴミとして)、不燃ゴミ2箱、本棚、子どもの椅子、パソコン用デスク、大量の紙の資源ごみ。
40年近く前の本も、母がいたのでかなり捨てられました。そしてそれが乗っていた壊れて崩れかかった本棚も解体し、処分。
ものと心の片付けだけでなく、捨てる防災も少しできたかな。

しかし、まだまだ残っています。





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