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実家片付け③空白を埋めるようにものを持つわたしたち

実家はいわゆる二世帯住宅ですが、明治期に建てられた母屋のほか、昭和、平成と建て増しに建て増しを重ねトイレだけで5つあるという謎物件。
だというのに借り暮らしのわたしには「自分の部屋」がなく、実家で快適な場所を探して彷徨っていました。

戦前生まれの祖母(102歳)は頂き物やお土産などの綺麗なものを仕舞い込んで、毛玉のできたセーターを着るタイプなのですが、今はホームに入っており、わたしは祖母の住んでいた母屋で生活しています。とにかく、使っていないものが多い。母に「捨てよう」と持ちかけても、うんと言わない。母は”長男の嫁”ですが、「わたしは相続人ではないから」「捨ててお義姉さんに何か言われたら嫌だから」と、食品や化粧品、チラシのような書類程度しか捨てさせてくれませんでした。

しかし、そこで毎日暮らしているわたしにはストレスでしかない。死蔵しているものが戸棚に入っていても、ガラス扉なので丸見えなのです。
大きいものや一気にあれこれと提案すると、前述のように断られることがわかったため、ゴミの日の前日「ゴミ袋まだ空いてるよ。何か捨てるものある?」と母が聞いてくるタイミングで必ず、捨ててもまあいいか、と母が思えるようなものを処分していっています。例えば薬、古い文房具。

とはいえ、そんな地味な努力では一向にものは減りません。
大物(棚やソファなど)が処分できないので、当然といえば当然。
しかし、ふと気付いたのが、「人のものばかり気にしているけど、自分のものは?」ということ。人のせいばかりにしていましたが、自分のものだって、生活をしている母屋にそれなりの量が流れ込んでいるのです。
そして始めた片付けが、こちらにも繋がりました。


母が、祖母(と先祖代々)のものに手をつけられないのはわかりました。
ですが、前回、前々回のnote記事に書いたように、両親のものや我が家のものだけでも相当なものの量。特に30年近くここだけで暮らしてきた両親にとっては、風景として当たり前になってしまっている”不要品”も山のようにあります。
片付けを一緒にしながら、母本人も「うちだけでもこんなにいらないものがあるのね」と驚いていました。また寝起きする現・母の部屋が片付いたので、喜んでいます。

そこでピンときたのが、この世帯だけのものなら減らせる!ということ。
今使っているものを捨てろ、減らせ、は高レベルなのでいきなりはNGですが、本人も忘れているような古いもの(わたしたちが子どもの時のものや、親の記憶にないもの)なら、手放すことを許可しやすいよう。

最近では、使っていない食器がほとんどの棚から、総数20点程度(カップ、お茶碗、オーブンウェアなど)とお別れ。今回はボランティアで運営されている、近所のリサイクルショップ(週に数日のみオープン)に引き取っていただきました。

実はその前に、こちらに箱入りの新品グラス(といっても、ビールにおまけでついてきたようなもの)を5、6点持っていきました。母がどうしても「新品じゃないものなんか引き取ってくれない」と言い張るので、まずはこれらを持っていき、引き取っていただいた際、「家にまだ持って来れそうなものがたくさんものがあるけど、新品じゃなくても大丈夫か」を確認。
「もちろん大丈夫!」とのことでした。
グラスもとても喜んでいただけ、こんなに歓迎していただけるなら、欠けや割れがない限り、持っていこう。二束三文の買取に出すより、地域で役に立ってもらえる方がいい!と思えますよね、
今回のユーズド製品も、「こんなにいいの?助かる!またお待ちしてます」と言っていただけました。こちらは無料でものが手放せ、ボランティアさんたちは活動の資金になる。素晴らしい循環。NZで暮らしていたときに使わせてもらっていた、"シェアシャック"を思い出しました。


親世代に限ったことではないのですが、人間、自分がそうだと思い込んでいる、あるいは自分の正しいと思っていること以外は違う、と判断しがち。
そして、当然その判断が合っているかどうか確認することは非常に少ない。間違っている、ということは認められない。

わたし自身もやはり、「自分の意見が合っている!」と思い込んでいることは、多々あります。片付けは、ものだけでなくそんな思い込み、考えへの固執を手放す、一種の修行なのだと感じるようになりました。
山寺に籠らなくても、インドへ行かなくても修行ができると考えると、片付けは、"ただものを捨てる"だけではもったいないかもしれませんね。



片付け記事は実例写真があると楽しいので、蛇足ですが…
あちこちに散らばる自分の文房具をかき集め、「お道具箱」を作りました。

箱の外に出しているものは使い切ったら処分すべきか考え中

箱は先に書いた母屋の戸棚から出てきたもので、祖母が文房具を入れていた貼り箱。固まったのりなどいらないものを処分し、鉛筆削りなど使えるものは頂戴しました。きれいな紙を敷き、自分の筆箱からものを移動。
その母屋の戸棚からは山のような数の鉛筆と消しゴムが出てきて、「これはもう一生文房具を買う必要がないな…」と感じました。そして、「高くないし、好きでついつい買ってしまっていたけど、文房具はいらない、と思っておくと"ついつい"買わずに済むかも」とも思いました。

缶ケースには小さくなった鉛筆などを収納。もう一つはクリップとふせん。
先日購入した真鍮の鉛筆補助棒!真鍮のキャップも欲しい


地味な気付きですが、箱の中の大半のものはこの筆箱に入れていました。
変色し、プリントもはげ出して、どう見ても外には持って行けそうにないし、気軽に使えないほどパンパンなのに、なんだか捨てられず。

デザイナーとしても大好きなディックブルーナのデザイン

これは大学の交換留学後にヨーロッパひとり旅をしていた時、オランダで購入した思い出から捨てられなかったのですが…わたしはもう、今の自分が持ち歩くのに最適なサイズの筆箱を持っています。こんな大量のペンが入った筆箱は絶対に持ち歩かない。それはわかっているのに、"思い出"を盾に捨てられなかった。片付けを通して、これもまた"あの頃"に固執していただけだったと気付きました。

今の筆箱はこちら。天然コルクでできた、フィンランド製です。


ものを買い換える・買い足すときは、長く使えるもの、不燃ごみにならない天然素材のもの(今回の記事に出てきたものだと、真鍮、コルク)をなるべく選んでいます。ざっくりいうと「地球環境にいい」のだけど、それはつまりそうすることでこれから所有物も増えにくいし、捨てることも減っていくので、楽に暮らせるようになるはず。
捨てるのにも、お金と時間と体力がとってもいる、と痛感しています。





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