見出し画像

雑感:歴史は良いやねぇ

前回の広島訪問時に、現地の方が貸してくれた『音戸町誌』(平成17年3月ぎょうせい発行)を、ようやく本日読み切った。

その達成感が冷めやらぬうちに、感じたことをまとめておく。簡単に言えば、『やっぱ、歴史は良いやねぇ』ということだ。

※写真は、全て音戸町誌からの転載です。


歴史を紐解くという難事業

画像1

教科の中でも、現代では「歴史」は人気も無く、何の役に立つの?と存在意義を疑う向きもあるんじゃないか、と勝手に思っている。

存在意義への問いは一旦置いておいて、しかし「史実」を紐解くというのは、なかなか難事業なのは確かだ。これを調べて編纂した人たちの、情熱と労力には、頭が下がる。

そりゃあ、資料館にでも行って置いてあるものを貼り付けるだけなら、まだ良いかもしれない。いや、実際にはそれだけでも、相当の苦労だ。複数に分散している資料を集めてきて、時系列に直すとか整理し、前後文脈を解釈して一つのストーリーに落とすんだから、大変なことだ。

ましてや、中世以前ともなると、当然ながら動画も無い。白黒写真すら無い。読み易い現代文の資料も無い。果たして、いつ・誰が・何の目的で書いたのか怪しい古文書や、写実画などが残るのみだ。それも、1つの文献に頼ると、その文献の恣意性に流されるので、同じ時代に書かれた別の文献と照合して、事実や情景や経緯を推測していく。根気とセンスが問われる作業だろうと思う。

歴史を紐解くというものは、そんな骨の折れる作業をやり通すだけの、情熱・根気・想像力やセンス・背景知識が必要となる「アート」だと思う。音戸町誌を編纂された方々には、改めて敬意を表したい。


真偽は謎だが、「どうやらそうらしい」を頑張る

画像2

History is his story.
「歴史は、勝者が語る物語である。」

歴史について、上記のように言われる。これは正しい側面があると思う。ヘゲモニー(覇権)が入れ替わるとき、それ以前に起こったことは、新しい覇者に都合の良い物語にされて伝承されるだろう。

例えば、対米戦争に負けて占領軍の統治下にあったとき。戦前の日本は悪の権化として物語られた。明治維新だってそうだろう。徳川家康が狸オヤジになった。きっと、豊臣政権が倒れて江戸幕府が開府したときも豊臣家や石田三成は実態以上のディスられぶりだっただろうし、鎌倉幕府開府後は平家は散々な扱いだったに違いない。

まだ当時の古文書が残っていれば、何とか紐解くこともできるかと思う。同じ人物の同じ行為に対して、覇権移行の前後で「言われよう」が変わっていたら、ある程度はそれぞれの褒貶(美化したり、貶めたりすること)を推測して削ることもできよう。

ところが往々にして、覇権が移るときには、焚書(資料や書類が焼かれて無くしてしまうこと。証拠隠滅)が起こる。戦乱の世では、落城の際に火災があって焼けたり盗賊が盗んだりして、貴重な戦前の資料が紛失したりする。そうすると、覇権交代後に語られる勝者の物語だけが残ってしまったりする。

そう、我々の知っている「歴史」は、情熱と労力を傾けて掘り起こされたものではあるものの、どこまでも推測で出来たおとぎ話の要素が入っている。


それでも学ぶ。土地と、先祖の魂と近づくために

画像3

そして最後は、いつも以上に気持ち悪い「オッサンのノスタルジー」全開で締める。

もはや、正確な史実なんか分からない。それは理解している。それでも、私は労力と想像力を発揮して、歴史を紐解きたい。

今、私が立っているこの地は、私が作って手に入れたものではない。悠久の時の中で、この地を耕して来た人たちが整えたから、ここに立てている。私のこの身も、私が自分で作った訳ではない。悠久の時を経て、脈々と継がれてきた先祖の人生のカスケードの結果ここにいる。

である以上、地域の歴史も然り、自分のファミリー・ヒストリーも然り、掘り下げる努力をして、この世に今こうして居れてる由縁を知らないといけない。でないと、私は勘違いするだろう。この地・この身が、あたかも自分で創造したものであるかのように。そして、身の程を知らない言動をするようになるだろう。

人間は、ゼロから独力でポンと生まれることはできない。自分の人生も、悠久のカスケードの一部に過ぎない。そのことを思い知るために、私は引き続き歴史を紐解いていきたいと思っている。


この記事が気に入ったらサポートをしてみませんか?