238.不実な2月14日

本稿は、2021年2月13日に掲載した記事の再録です

高校一年生の冬、自宅の電話が鳴って父が出ました。冬の土曜の午後でした。父は私の名を呼んで「同じ高校の人から電話だ」と取り次いでくれました。電話をかわると、初めて聞く名前の男子生徒が緊張した声で、私に「僕とつきあってください」と言ったのです。

聞けば、先日の漢字の追試の時に職員室の廊下で私を見かけ、とても素敵な女性だと思ったのでつきあって欲しいというのです。漢字の追試というのは、毎週月曜日の朝に簡単な漢字テストがあったのですが、その秋に私は右手に怪我をしてしまって三角巾で腕を吊り、試験を受けられなかったことがありました。そこで期末試験の前に職員室の廊下で、追試を受けることになったのです。

かなりいい加減な追試で、私のように事情や欠席で受けられなかった者の他に、落第点を取った者が一列になって、机も椅子もない職員室の廊下の壁に、答案用紙を押しつけて解答するというスタイルでした。しかも伝統的に(?)追試の時には、答えを教えてくれる友だちをひとり連れてくるという暗黙の了解もありました。私も出席番号が隣同士の仲良しの子についてきてもらって、色々とアドバイス、というより横で答えを教えてもらっていました。

その追試の際、違うクラスの落第点の生徒に付き添ってやってきたのが、今回電話をかけてきた男子生徒だというのでした。私はすぐ隣で追試をうけていた落第点で長髪のチャラチャラしていた生徒のことはよく覚えていましたが、付き添いの生徒のことはまったく記憶にありませんでした。

その時、私は彼に「私は追試を受けていた本人であって、あなたが素敵だと思ったのは私に付き添ってきてくれた友人の方だと思います」と確信を持って伝えました。すると彼は「いや、僕が素敵だと思ったのは、追試を受けていた本人で間違いないので、君のことです」というのです。私は「友人は出席番号も隣同士で名前も似てるし、背格好や髪型も似ているので、よく先生方にも間違えられるので、きっと勘違いです」と答えました。

あの頃の私は、自分のことを誰かが好きになるはずがないという確信のようなものがありました。私は美人でもなければおしゃれでもなく、男女交際など別次元のことでした。追試につきあってくれた子は、いつも刺繍のついたハンカチを握りしめているような可愛いらしい子だったので、どう考えても彼は私たち二人を取り違えていると思いました。

いくら「蓼食う虫も好き好き」とは言っても、見かけで私のことを好きになる男子がいるとは思えませんでした。もし私のことを好きになってくれる人がいたとしても、それは興味が一致するとか、話す内容に共感するということがきっかけとなるならわかるけれど、今回のように見かけただけでというのはありえないことでした。

その時は、彼の誤解を一刻も早く解いてあげなくてはと思い「それではこれからお会いして、私が誰だか見て誤解を解いてもらいましょう」とこちらから提案したのでした。するとそのやりとりの電話を側で聞いていた父が、それでは一肌脱ぐかという感じで、待ち合わせした喫茶店まで車で送ってくれたのでした。私がモテないことを、父も追認したことになりました。

高校近くの喫茶店に着き、入り口の白い扉、上の方が丸くなっていて何枚かのガラスがはめ込まれた扉を開けると、私を目にしたひとりの男子生徒が立ち上がり軽く会釈をしてくれました。見たこともない、まったく知らない男子でした。しかし彼は私の予想とは裏腹に、「やっぱり君だった」と言いました。

私は彼の誤解を解いたら、友人の良いところをたくさん教えてあげて「彼女はとても素敵な子だから頑張ってね!」と言ってすぐに帰ろうと思っていましたが、彼の言葉に気が動転して、何を話してよいのかわからなくなり、とりあえず注文したレモンスカッシュのチェリーをストローでつつくことになりました。窓辺のシクラメンが、午後の日差しを浴びて美しく咲いていました。

彼の茶色がかった髪は少しウェーブしていて、大きな瞳で美しい顔立ちをしていました。どうしてこんなハンサムな男子生徒が私に興味を持っているのか不思議でなりませんでした。彼にはもっとふさわしい人がいくらでもいそうでした。

その日、どういう話をしたのかちゃんと覚えていませんが、結局「君で間違いないことがわかった。本当によかった。僕とつきあってください」と言われ、私は理由はともあれ、結果的に自分から呼び出したこともあって、断っては悪いような気もしたし、初めてつきあって欲しいと言われて舞い上ってしまって、まったく知らない人とおつきあいする約束をしてしまいました。

◇ ◇ ◇

月曜日に学校に行ったら、同じクラスの女の子に「土曜日、彼から電話あった?」と聞かれました。部活の人脈を通じて私のことを調べているうちにその友人のところにも話がいったということでした。彼女によれば、彼は成績抜群で、部活でも活躍していて二年生になったらキャプテン候補だということでした。

彼が私のクラスを調べたり、名前や電話番号を調べるために、何人もの人たちの協力があったとも聞かされました。彼は人望があるので、みんな心良く協力してくれたのだそうです。知らないうちに周りの人たちから応援されていることも知り、私は大いに戸惑いました。

彼とおつきあいするといっても、「つきあう」とはどういうことなのかよくわかりませんでした。そもそも私は彼のことをほとんどなにも知らないのでした。周りの子たちに「交換日記をしてみれば?」とアドバイスを受けた頃、ちょうど彼も同じようにアドバイスを受けたらしく、廊下で会った時、一冊の大学ノートを渡されて、交換日記を始めることになりました。

私は交換日記を入れる手作りの可愛い袋を作りました。私なりに女の子らしいところを見せなくてはと思ったのですが、肝心の中身については、何を書いてよいのかさっぱりわかりませんでした。趣味はなんですかと書くのも変だと思い、とりあえず「将来の夢はなんですか?」と書いてみました。すると「外交官を目指しています」と返事が来ました。

ハンサムで、成績が良くて、スポーツ万能で、人望もあって、外交官志望という男子生徒が、一体全体なんで私とつきあおうとしているのか、まったく理解できませんでした。彼のことをよく知らないばかりか、そんな非の打ち所がない彼のどこに魅力を感じていいのかさえわかりませんでした。落第点で追試を受けていた長髪の男子生徒の方がどちらかといえば親しみが持てました。

◇ ◇ ◇

日曜日に彼に映画に誘われました。年末に公開されたばかりのスピルバーグの「ジョーズ」でした。新宿のミラノ座に一緒に観に行きました。中学生の時から仲良しの子に「何を着ていったらいいかな」と相談して、あれこれとファッションショーをして来ていく服を決めました。生まれて初めて男の子と出かけるデートで緊張しました。でも新宿行きの電車の中の沈黙がつらく感じられました。

映画が始まると、ターラッ、ターラッ、タタタタ、タタタタ、タラララ〜!!という怖しい曲が流れて、いつジョーズに襲われるのかと思うと気が気ではなく、怯えていると、いきなり彼が私の手をぎゅっと握りしめました。私は思わず大声を上げそうになりましたが、なんとか声を呑み込みました。

でも、それ以降は映画どころではなくて、彼の手にばかりに気を取られ、あらすじも何も覚えていなくて、一刻も早く映画館を出て家に帰ることしか考えられない状態になっていました。人喰い鮫のジョーズよりずっと怖い思いをしていました。そのあと食事をしたのかお茶を飲んだのか、そんな記憶も吹っ飛びました。

◇ ◇ ◇

二月になって、いよいよバレンタインデーが近づいてきたので、一緒にファッションショーを手伝ってくれた子と、家のオーブンでハート型のクッキーを焼いて、それをチョコレートでコーティングして、ホワイトチョコレートでLOVEなどと文字を描き、サランラップで包んでリボンを結ぶというプレゼントを作りました。

私たちはご丁寧に、前の週末に予行練習をして、翌週の本番に備えました。手作りのプレゼントを渡したいという乙女心でした。予行練習のクッキーは家族に食べてもらって味の太鼓判をもらい、本番のクッキー作りの際はもう少し包装に工夫を凝らしました。

しかし、私にとって大問題だったのは、バレンタインデーにプレゼントを渡したあと、もし彼と二人きりになったら何を話していいのかわからないので、どうしたら二人きりにならないで済むのだろうかということでした。また手でも握られたら大変だと思いました。なんらかの理由が必要でした。

高校一年生の時のバレンタインデーは土曜日でした。土曜日は午後の部活のあとチョコレートを渡す雰囲気になっていました。土曜日なのでいくらでも時間がありそうでした。私は一週間、どういう言い訳をすればプレゼントを渡してすぐに帰れるかばかり考えていたのですが、週の中頃になって同じクラスの男の子が体育の時間に足を骨折して入院したので、お見舞いを口実にすることにしました。

1976年(昭和51年)2月14日、私は、バレンタインデーの当日、彼にハート型のチョコレートコーティングしたクッキーを渡すと「これから同級生を病院にお見舞いに行かなくてはならないので、ごめんなさい」と告げ、実際にクラスメイトの男の子のお見舞いに病院へと向かいました。

病院の入り口にあった花屋さんで小さなブーケを買って、それをお見舞いに持っていきました。そのクラスメイトとは同じ教室にはいたものの、多分一度も話したことはなく、彼も突然やってきた、ただのクラスメイトに驚いたと思います。

病室の窓の外に見える米軍基地に何機も停まっている、太っちょな軍用輸送機を眺めながら、私は自分が秋に腕を怪我した時の話をして、クラスメイトに早く足の骨折が治るといいねと言ってすぐに失礼しました。

◇ ◇ ◇

バレンタインデーが過ぎてしばらく経った頃、日曜に鎌倉に行こうと誘われて、今度はお弁当のメニューやら着ていく洋服に頭を悩ませていたのですが、その頃になってようやく、彼と二人きりになっても話すことはないし、二人きりになりたくないと言う思いが強くなって、そこでようやく彼とはもう会いたくないのだということに気づいたのです。

あの頃の私は、おつきあいしているのだから、彼のために色々してあげたいという気持ちばかりが先行し、結局彼のことは好きではないという自分の気持ちにしばらく気がつきませんでした。「恋に恋する」などという言い回しがありますが、私もいわばそのような状態でした。

結局、私はせっかく告白してくれた男子生徒のことは好きでもないのに、それを正直に言う勇気がなくて、恋愛の真似事をしただけで周囲まで巻き込んで、相手を傷つけてしまいました。ただ正直に言えば、私としては交通事故にあったみたいな感覚で、気がついたら加害者になっていたという感じでした。

鎌倉に行ったかどうか、何度考えても思い出せません。着ていくコートがないと悩んでいたら仲良しがステンカラーのコートを貸してくれたこと、お弁当はさんざん悩んでタマゴと野菜のサンドイッチにすることにしたことは覚えているのに、当日鎌倉へ行ったかどうかはどうしても思い出せないのです。そして鎌倉デートの前後で交換日記は途絶えました。

◇ ◇ ◇

足を骨折していたクラスメイトは無事に退院してきて、お返しに花の種をもらいました。花の種をもらったのは後にも先にも初めてのことで、なんてロマンチックなお返しなんだろうと感激しました。でも、ありがとうと言ったきり、そのクラスメイトとはその後も話すことはありませんでした。その種を植えることもありませんでした。

◇ ◇ ◇

大学生になったある日、学生街の雑踏を歩いていたら「狭山裁判の冤罪をはらせ」「石川青年を救え」という立看板の前で拡声器で演説している学生が大勢いました。ふと目をやるとひとりの学生が私に気づいて「君もこれを読んで、狭山裁判について考えてよ」と一枚のビラを差し出しました。あの日、職員室の廊下で一緒に追試を受けた落第点の彼でした。その日も長髪でした。

彼が言うならと、図書館に行って野間宏の『狭山裁判』を借りて読みました。でも、彼とももう二度と会うことはありませんでした。

狭山裁判は、その後も繰り返し再審請求が行われ、私は狭山裁判の報に触れるたびに高校一年生の時の、不実な自分を思い出し続けています。


<再録にあたって>
友人のFacebookを見ていたら「今年で65歳、定年です。たくさんの義理チョコを買うのもこれが最後です」と山ほどのチョコレートの写真がアップされていました。高校生だった私たちも、もう定年でバレンタインデーも卒業なのかと感慨深く思いました。


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