234.’80再就職活動

本稿は、2021年11月6日に掲載した記事の再録です。

1986年(昭和61年)夏の終わり、私は憧れのフランスから戻ってきて再就職活動を始めました。小学生の頃から夢にみていたフランス滞在は、あっという間の一年間でした。私なりにコツコツと貯めてきたお金は、出来るだけ見聞を広めたいと、フランスでほとんどすべて使い果たしてきました。

この時、私は27歳になったばかりでした。心の底の私の希望は、憧れの出版社でフランス語を使って日仏の書籍や雑誌を編集・出版したいというものでした。

◇ ◇ ◇

帰国して、まずは新卒で就職した会社に帰国の挨拶に行きました。今日では不思議に感じられる行動ですが、あの当時は、色々とお世話になった元の会社に挨拶に行くのは当然のことのように思っていました。

私は社長室秘書課に配属されていたので、秘書課に手土産を持って挨拶に行きました、上司の方々や役員の方々に、元気そうだ、楽しかったのか、それは良かったなどと声をかけていただくうちに、一人の役員から、これからどうするのか、再就職のあてはあるのかねと尋ねられました。

私は、本当はフランス語を使って出版社で働きたいのですと答えると、そういうところには知り合いはいないけれど、新聞社の文化部でならフランス語も使い道があるだろうと仰って、その場で新聞社のお偉いさんに電話をしてくれて、思いがけなく私のアルバイトが決まりました。

大新聞社の文化部で、現在のEUの前身、当時まだECと呼ばれていたEuropean Community の絵画展覧会の日本事務局で働けることとなり、自分はなんてラッキーなのかと心ウキウキしました。出社までの数日間がもどかしいほどでした。

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9月から早速新聞社に出社することになりました。自分の語学力では不足だろうからもっともっと勉強して周囲にご迷惑をかけないようにしっかり勉強しなくてはと気持ちを引き締めて、当時は紙だった厚い辞書を鞄に忍ばせて出社しました。

ところが出社すると、ああ君が今度のバイトさんね。ではあそこのバイト机で宛名書きを頼むよと命じられました。バイト机には5、6人の男女の若者がいて、皆んなペンを片手に封筒に宛名書きをしながらお喋りしていました。ECの絵画展の入場券を販売してもらうために、全国の書店にその入場券を送る宛名書きのアルバイトでした。

軽くショックを受けながらも、私も皆んなの輪に入れてもらって宛名書きを始めました。学生時代にも私は企業内の図書係のアルバイトをやっていて(060. 図書係バイト)、同じようなバイト机で色んな大学の仲間と和気藹々仕事をしていて楽しかったことを思い出しました。

実際、バイト仲間には芸大の学生さんもいて、できたばかりのディズニーランドのシンデレラ城は目に見えない箇所まで綺麗に色を塗るんだよと開業前のアルバイトの様子など話してくれて楽しい職場でした。この時の交友関係は長く続き、芸大の学生さんの個展にも出かけたり、和やかな人間関係に恵まれました。

しかし、部署には一人だけいた女性社員は日々スーツに身を包み忙しそうに駆け回っていました。その年の4月に施行されたばかりの男女雇用機会均等法により総合職として採用された女性社員だということでした。それに引き換え私はといえば、来る日も来る日もバイト机で全国の書店の住所をただ封筒に書き写すだけという宛名書きのアルバイトをやっているのでした。

成り行きで、わーい新聞社だ、ECの絵画展だと浮かれてやってはきたものの、こんなことをしている場合ではない、もう一度足元から自分の人生を見つめ直さなくてはいけないと思いました。

そんなある日、部門長から呼ばれました。用件は二つありました。ひとつ目は絵画展に先立って、近く高階秀爾先生の講演会がプレスセンターで行われるから会場へ受付の手伝いに行くようにということ、そしてもうひとつは、経歴や仕事ぶりを見せてもらったが、あなたはここにいてはいけない、頑張って就職活動をしなさい、全面的に応援しますというものでした。

特に二つ目は、残念だけど新聞社で女性社員を中途採用するという可能性は皆無です。ここでアルバイトをしている最中に自由に抜け出していいから就職活動をしなさい、アルバイト代は支払うから気にしないでどんどん出かけていきなさいという大変有り難いものでした。

そして、プレスセンターでの高階秀爾先生の講演の受付へ行ってみると、受付業務などほんのわずかな時間に過ぎず、講演が始まると同時に会場内へ入るように促され、他の聴衆と共に貴重なお話を聴かせてもらうことができました。明らかに特別扱いをしてくださっているのがわかりました。講演を聴きながら、こんなご厚意に甘えていてはならない、きちんとアルバイトを辞めて自力で就職活動をしようと決意しました。

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9月の末、元いた会社に改めて出かけて行って、新聞社を紹介してくださった役員に事情を説明してアルバイトを辞する旨を伝えました。そして帰ろうと廊下を歩いていたら、今度は別の役員に出逢いました。するとその役員は私の顔を見るなり、おおフランスから帰ってきたのか、元気そうだねと気さくに声をかけてくれました。

そして、そういえば君、ちょうど良かった、今、時間ある? フランス語の通訳をやってくれないかねと言うのです。その時、たまたまフランス人との商談があり、これから先方の待つ応接室へ向かっているところに私とバッタリ出逢ったということでした。

フランス語の通訳がいないから英語でやろうと思っていたんだけど、いい機会だから通訳やってよというのです。それはとんでもない話で、私は通訳の訓練など受けたことはないし、どのような分野かわからない上に、とても私の語学力では無理ですと即座にお断りしました。

けれども、大丈夫、大丈夫、できなかったら予定通り英語でやるまでのことだから、まあとにかくちょっと一緒にいらっしゃいと促され、振り切って帰ってしまうのも失礼に思い、役員に背中を押されるように応接室に一緒に入室しました。

その日の来客は在日期間が長く、ある程度の日本語の聞き取りは理解できるけれども、話す方は片言しかできないということで、彼の話すフランス語を日本語に訳せば良いということでした。ところどころ日本語をフランス語に訳すこともありましたが、大方の通訳は仏→日だけだったのでかろうじて私の貧弱な語学力でもなんとかなりました。

そして、日を改めて今度は夜会食をしながら、具体的な話を進めることとなり、今日の感じでいいから、君も一緒にいらっしゃい、おいしいものでもご馳走しましょうと言われました。先方のフランス人も仕事を探しているのなら、よかったらうちの会社で働きませんかと誘ってくださいました。

人生は思わぬタイミングで思わぬ出来事に遭遇すると思いながら、ホテルオークラの山里でご馳走に囲まれながら、2回目の片側通訳を行うことになりました。しかし、私は慣れない通訳をするのに必死で、箸を持つことさえ叶わず、ひたすらメモを取り、フランス語を日本語に訳し続けました。

お二人の前のお皿がすべて空になった頃、ようやくすべての商談が終わりました。私は冷え切った松茸の土瓶蒸しを一口だけ啜って山里をあとにしました。食べ物の恨みは云々と言いますが、手つかずのご馳走の数々が今も忘れられません。

このような具合で、私はフランス人の会社で働くことになりました。しかしこの仕事も長くは続きませんでした。なぜなら片側通訳をしていた時にも少し違和感を覚えたものでしたが、そのフランス人は誇大妄想ではないかと思うようなことを、時々口にしました。例えばパリコレを日本で開催しようとか、モナリザの展覧会を企画しようなど、どう考えても実現不可能だと思えるようなアイデアが次々に出てきました。

そこで通訳の仕事のきっかけを作ってくださった役員に、せっかくご紹介いただいた仕事だけれど、もう辞したいと相談したところ、確かに君の言っていることはよくわかる。実は彼との商談も今回限りにしようと思っていたところだ。変な仕事を紹介してしまって悪かったなどと逆に謝られてしまったのですが、それで心置きなく辞めることができました。

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帰国してすぐの9月に新聞社の宛名書き、10月に半端な通訳稼業をしたものの、11月は完全失業者として、毎日、新聞の求人広告を眺めながら、せっせと履歴書を書いて過ごしました。もう誰かの紹介ではなく、とにかく実力でなんとか仕事を探したいと思いました。

当時、朝日新聞の日曜日の求人広告は要チェックだと言われていたので、日曜日は朝から朝刊をひとり占めにして端からひとつずつ応募資格をチェックして、ほんの少しでも可能性のある会社をピックアップしては応募書類を書きました。もちろん日々新聞のチェックを怠ることはありませんでした。いわゆる三行広告もつぶさにチェックしていきました。

フランス関係の出版社など夢のまた夢で、秘書業務(実質お茶汲みとコピー取り)の業務経歴しかない私には、応募資格に当てはまるものがそもそもなく、それでもここで働いてみたいと思うような会社には、履歴書の他に熱意が伝わるように手書きで応募動機について長文の手紙を添えました。

もちろん1980年代には、履歴書も手書きでした。あの頃はまだまだ門地による差別は公然の秘密でした。本籍地も都道府県名から番地まですべて手書きで書きました。私の本籍地は父の郷里である九州のとある城下町でした。私自身は小学校3年生の夏休みに家族旅行で数日間行ったことがあるだけの地でした。

馴染みのない地名の漢字も難しく、一々運転免許証を見ながらでないと本籍地が書けませんでした。父に本籍地を現住所に移さないのかと尋ねたら、婚姻以外で本籍地を移すと、本籍地を移さなくてはならない理由があると勘繰られるから移すものではないと言われました。あの頃は、運転免許証にも本籍地は番地まで明記されていました。

不採用通知ばかりが届きました。合格者だけに連絡をするという会社もあり、毎日郵便受けを覗いては溜め息をついていました。会社によっては不採用通知と共に履歴書を返却してくれるところもありました。そういう時は、履歴書に貼ってある自分の写真を丁寧に剥がして新しい履歴書に流用しました。写真代も節約したいという日々でした。

お金もなくなり、仕事もなく家に引き篭もっていたら、伊豆大島の三原山が噴火しました。私はこたつの中で黄色いモヘアのセーターを編みながら、避難を余儀なくされた島民が船で島を離れる様子をテレビ越しに眺めていました。伊豆大島の酪農家が牛に餌をやらないと死んでしまうから私は避難しないと言っているとニュースで聞き、やりがいのある仕事で責任を果たそうとしている人がいるというのに、私はコタツの中で編み物かと自嘲する日々でした。

他にも人伝で、フランス関係ということで、ブランドや化粧品や装飾品の仕事を紹介してくださる方もいましたが、私にはそのようなファッション関係の仕事には向いていそうもないので面接前にお断りしました。

今でも黄色いモヘアのセーターを着ている人を見かけると、三原山の噴火と、あの頃の自分の姿が思い起こされます。

◇ ◇ ◇

そんなある日、片側通訳をした役員が直々に自宅に電話をくださり、この前の就職先は申し訳なかった、そこで罪滅ぼしに別のフランス人を紹介すると言ってくださいました。担当の方にお会いしてみると、これも宛名書きに負けず劣らぬ簡単なアルバイトでしたが、もうお金もないので四の五の言っている場合ではないと、二つ返事でお引き受けしました。

場所は六本木でした。私に与えられた仕事はフランス語の通信教育の中継ぎ作業でした。インターネットのない時代、どっさり送られてくる生徒からの解答用紙の入った封筒を開封して、それを添削してくださる講師別に大きな封筒に入れ換えてご自宅へお送りし、今度は講師から戻ってきた添削済みの解答用紙を生徒宛に個別に発送するというものでした。

1986年12月、今から35年前の冬、私はバブル景気に向かって華やぐ六本木の町の中をアルバイトに通っていました。帰宅する頃には、六本木の交差点付近にワンレンボディコンの、つまりワンレングスのボブカットの髪型にボディ・コンシャスと呼ばれる体の線を強調したミニワンピースの上から毛皮のコートを身にまとった女の子たちと、彼女らを取り巻く大勢の若者が浮かれた様子でたむろしていました。

当時の私の定期券入れの中には、自宅の駅から六本木駅までの1ヶ月の定期券と、緊急事態に備えて折りたたんだ一枚の千円札と、クレジットカードが一枚が入っているだけでした。お昼ご飯は、来る日も来る日もアルバイト先のすぐそばに当時あった、レッドロブスターというファミリーレストランの本日の日替りランチ600円でした。

お金がないのでその600円はクレジットカードで支払っていました。あの当時、千円以下の金額でクレジットカードを使うなどというのは極めて珍しいことでした。店員さんにも毎日600円のランチをクレジットカードで食べているお客として顔を覚えられていました。自宅なので雨露はしのげるとしても、お弁当のおかずの材料費もありませんでした。

私は四つ折り千円札入りの定期券入れと、新刊は買えないので積ん読になっていた文庫本をバッグに入れて、日々煌びやかに着飾った彼らの人波を掻き分けながら真っ直ぐ帰宅していました。毎日通信教育の封筒を開封しながら、それでもここに書かれた例文は全部暗記するんだという自分に言い聞かせていました。昔から「苦労は買ってでもしろ」というのだからと、自分を励まし続けました。

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そんなある日、下手な鉄砲数撃ちゃ当たる方式であちこちに送りまくっていた履歴書のひとつが、小さな出版社の書類選考に通ったとの連絡がありました。フランスとは何の縁もゆかりもない小さな出版社でした。出版社業界で未経験者を雇ってくれるところはほとんどないというのに、熱意で焦げついてしまいそうな添え状が功を奏したのか、社長面接に漕ぎつけました。

社長は女性でした。温かい雰囲気のある方で、誰でも最初は未経験だからと仰ってくださったので、どんなことでも一所懸命やりますと頭を下げて合格通知をいただいたのは、クリスマスイブのことでした。編集者として転職するにしても経験を積むことは大切なことなので、ここで一人前の編集者となれるよう努力しようと思いました。比喩でなく、本当に雑巾がけもする覚悟でした。

新年からの仕事ということでした。急いでアルバイト先や前の会社の役員にご連絡して、本格的に正社員として働くこととなりました。フランス語とは関係ないけれど、憧れの出版社で編集部員として仕事ができるとは本当に嬉しくてたまりませんでした。

年明け、いよいよ初出社し、編集作業のいろはを教えていただくことになりました。まずは印刷の種類から始まって、活字の大きさなど本当に初心者の私にとっては何もかも新しく覚えなくてはならないことばかりでした。通勤の電車内でも、帰宅してからも資料を読み込み一日でも早く仕事を覚えたいと意気込みました。

ところが、そんな決意もつかの間の、お正月気分がようやく抜けた頃、社員ではない「コンサルタント」と名乗る女性がやってきました。その女性は出社すると、我々社員一同に壁に向かって立つように命じ、その場で、あらん限りの声で「おはようございます」「ありがとうございます」と叫べというのでした。

その頃「地獄の特訓」と呼ばれる企業研修が話題になっていました。まさか自分がそのような場面に遭遇するとは思いもよらなかったのですが、壁から30センチほどのところに一列に並んで、壁に向かい、怒鳴り声を張り上げろと言われたことに私はショックを受けました。

これまで熱心に私に編集の工程を教えてくださっていた先輩も、声が小さいと小突かれ、喉から血が出るほど大声で叫ぶよう命じられていました。挨拶ひとつできないようで、働く資格はないと何度も何度も繰り返し叱責されました。さらに今度は「丸の内のOL」になった気分で、背筋を伸ばして腕を前後に振って、壁から壁まで何度も往復せよと命じられました。編集者を目指して就職したのに、目指すのは「丸の内のOL」なのかと落胆しました。

周りの社員は、声を限りに「おはようございます」「ありがとうございます」と100回も200回も叫んでいました。しかし私にはそれができませんでした。あまりに惨めで涙がにじみました。やってられないと心の底から思いました。

社長に直談判に行きました。どんなことでもやりますとは申しましたが、できないことがありましたと述べているうちに、鼻の奥が熱くなり言葉に詰まりました。社長は、評判のいいコンサルタントだからしばらくは彼女のやり方に従うようにと私に告げました。

それが会社の方針ということならば、せっかく採用してくださったのに申し訳ないけれど、本日限りで退職致します。これまでのお給料は当然のことながらいりません。ご迷惑をかけてすみませんでしたとその場で辞表を書き、荷物をまとめて出版社を後にしました。帰り道、涙がこぼれました。

その社長は、お給料を日割りで計算して振り込んでくださるような人物でした。社会保険にもきちんと加入してくれていて、今になって「ねんきん定期便」を見てみると、私の職歴には一ヶ月だけ出版社で勤務していた記録が残っています。

なぜ社長があのコンサルタントに信頼をおいていたのか、その理由は最後までわかりませんでした。それでも親切な社長に対して後足で砂をかけるようにして辞めてしまいました。でも、辞めて良かったと思いました。人の尊厳という言葉が脳裏をよぎりました。心が踏みにじられる思いでした。

9月は新聞社の宛名書き、10月はフランス人の会社、(11月はコタツで三原山の噴火)、12月は通信教育の中継ぎ、年明けの1月は出版社、どれもこれもひと月しか続きませんでした。その上、ポストを開けると不採用通知ばかりが届くのでした。

そもそも四年生大学を卒業する時から、当時の女子学生には就職先などないも同然だったのですが、再就職はそれに輪をかけて難しいことがわかってきました。しかし実感としては、社会的な問題というよりは、私自身が社会の落伍者であるという個人的な問題としてしか捉えることができませんでした。私という人間は誰にも求められることのない、社会の役立たずと烙印を押されている気分でした。

1980年代半ば、日本社会は終身雇用制度を見直すべきではないかという議論が始まったとはいえ、圧倒的な数の会社、特に給与や福利厚生が整っているような大企業に中途採用の道というのは、ごく稀な例外を除いて「ない」と言い切ってよいほどでした。転職をするということ自体、労働条件が下がることを意味していました。ましてそのような会社が女子社員を中途採用することはありませんでした。

しかし私は誰もが羨むような大企業に就職したいというわけではなく、好きなフランス語に携わりながら、自分が好きなことをして食べていければ良いと思っていたのですが、実はそれは途方もない贅沢な高望みであったことが次第にわかってきました。

◇ ◇ ◇

仲の良い前の会社の同僚に出版社も辞めたことを話したら、そんなの辞めて正解よ! バカらしくてやってられないじゃない、本当に辞めて良かったねと私の気持ちを代弁してくれました。

この際だからとことん自分を見直すことにして能登半島にでも言って日本海の冷たいしぶきでも浴びてくると言ったら、じゃ、付き合うわよとも言ってくれて、二人で上野駅から夜行列車に乗り込みました。商人宿や民宿に泊まりながら通信教育の袋詰めと出版社で貰ったお給料を全額使い果たしました。

ただ1987年の2月は、昭和四十年代以来の暖冬だったということで、雪の兼六園はただの土の兼六園で、能登の冬の風物詩と言われる「波の花」も見ることはできませんでした。それでも自分の中で、少しずつ気持ちが整理されていきました。友情に感謝した冬の旅でした。

◇ ◇ ◇

3月になってすぐ気持ちを切り替えて、私は派遣会社に登録に行きました。もう誰にも頼らず、自分で新聞広告をチェックしながら就職活動を続けるために、当面の生活費を稼ごうと決意したのでした。

派遣会社に行こうと決意するまでの半年間で、私の手元には38通の不採用通知が届いていました。のちに大学生の就職活動で「お祈りメール」が話題になった時、私も38社からお祈りされたと懐かしく思ったものでした。

しかもあの頃は、履歴書から添え状まですべて手書きで、一枚一枚心を込めて書いたものに対し、ことごとくダメ出しされたように感じていました。心を込めれば込めるほど、不採用通知は心にこたえました。ようやく熱意が通ったと思ったら地獄の特訓まがいの会社だったという現実に、これまでの人生を全否定されたように感じていきました。

後になって自分が採用する立場になった時、熱意よりも即戦力としての経験重視をせざるを得ないことが多く、手書きで書かれた応募書類を手にし、他業界でこれまで素晴らしい業績を積んでこられた方々を書類選考で落とすことになり、心が痛み、できることならそのような事情を直接お会いしてお伝えしたいと思うことも数知れずありました。今回はたまたまご縁がなかっただけで、貴殿にはその経歴と熱意を評価してくれる適所が必ずあります、と。

しかしながら、自分が応募者だったときには、ただただ世間から拒絶され、何をしても報われず、どんどんぬかるみに足を取られて、これまでの人生も経験も人格も何もかもを否定されていく思いしかありませんでした。自信がすっかりなくなっていくのが自分でもよくわかりました。

転職活動、特に女性の中途採用の道のりは困難なものであることが身に染みてわかり、絶望的な思いにも何度も襲われました。それでも、いつか努力が身を結ぶと私は信じようとしていました。それはまだ日本経済に明るさがあったからだったのかも知れません。

派遣会社に履歴書を提出すると、その担当者は、このような経歴の方が我が社にご登録いただけるとは大変光栄ですと言ってくれました。それまで私は自分のことを社会の落伍者だ、クズだというように感じていたので、その言葉を聞いて、励まされる思いにかられました。

ちょうどその時、担当者の後ろに置いてあったFAXが音を立てて、情報が出てきました。ちょっと失礼と言いながらそのFAXを手に取った担当者は、まぁと声を上げながら、ちょうどあなたにぴったりの案件が参りました。米国の金融機関でのお仕事です。語学も堪能でいらっしゃるので是非こちらはいかがでしょうかと紹介してくれたのです。

私は、フランス語ならともかく、英語はまったくできませんので無理ですと一旦は断ろうとしましたが、私のことを評価してくれた担当者に少しでも喜んでもらいたいという思いが頭をもたげました。

担当者は、この派遣会社にはタイプライティングや基礎英会話の講座もありますから、ここでお仕事をなさりながら、色々な技能を身につけていかれればと良いと思いますと言われるので、私はその仕事をお引き受けすることにしました。

まさか自分が、米国の金融機関で仕事をすることになろうとは、夢にも思ってはいませんでしたが、それでも現実問題としてフランス関係の仕事を見つけようとしても、実際の業務は英語で行われていることがほとんどで、とにかく英語を身につけなければ、一生このまま一ヶ月ごとに職を転々とすることになると思いました。

そして仕事が終わった後、連日休むことなく派遣会社に通い、タイプライティングの練習をしました。あの頃はまだワープロではなく、昔ながらのガシャガシャ音を立てるタイプライターで練習しました。ちょうどその頃コレクションテープがついている新式の電動タイプライターが登場して、一旦打った文字を訂正できるようになり、間違えても最初から打ち直さなくても良いのかと感激した覚えがあります。

そして、基礎英会話のクラスにも欠かさず出席しました。当時はジャパンタイムスという英字新聞の月曜日の求人欄が充実していると聞き、毎週月曜日に駅の売店でジャパンタイムスを買って、くまなくチェックして、また履歴書を送ることにしました。

米国の金融機関は、私の肌には合わないことがよくわかりました。しかし辞めることはせず、心を閉ざして仕事をし、タイプライティングと英会話をひたすら学び、一日も早く実用レベルに近づけるよう努力しました。周囲には米国人が大勢いましたから、耳に飛び込んでくる英語をポストイットに書き留めて机の前に貼って、一つずつ暗記していきました。

この会社で初めて、私は「メール」という概念を知りました。1987年3月のことです。朝出社したらメールボックスにNYからのメールが届いていて、そのメールを読むことから一日の業務が始まりました。その頃はメールアカウントやパスワードは各部署単位でグループで共有していました。まだ、WindowsやExcelやWordといった概念はありませんでした。Macintoshは一部に熱狂的なファンがいましたが、一般企業では導入されていませんでした。

ここに来て、ようやく私は外資系企業に絞って転職活動をしていくことにしました。英文の履歴書の書き方も学びました。すると驚いたことに、日本企業と違って、誰もがその名を知っているような世界的な企業の多くが、かなりの求人募集をしていることを知りました。

そして派遣先の米国の金融機関で働く人々と色々と話をしていたら、日本人スタッフは男女問わず、ほとんどみんな日本の金融機関からの転職組みだということがわかってきました。

私はそれを知って、情けなく悲しく腹立たしい思いが心の奥底から湧き上がってくるのを感じました。私たちは高校や大学を卒業して日本企業に就職し、それこそ挨拶の仕方から電話応対の仕方、名刺交換などの社会人としての一般常識を上司や先輩方から学びます。

そして金融業や航空業やホテル業など、その業界に必要な用語や対応方法を学び、なんとか自分で一本立ちが出来るようになったところで、外資系の会社に転職してしまうのです。当時は、官僚や企業留学生がMBAを取得した後外資系に転職してしまうということが問題視されるようになっていました。誓約書を書かせて数年間は転職できないようにする企業も出てきていました。

しかし、その逆はないのです。外資系の会社で身につけたノウハウを日本企業に生かすという道は、ほぼ皆無といってよいほどありませんでした。まるで外資系企業のために、日本企業は社員を無料でトレーニングして送り出しているようなものだと感じました。日本社会全体で現状を変えていかないともったいないと感じました。

しかもそのような状況を改革するつもりもなければ、それを問題視することすらないように感じられました。帰国して最初にアルバイトに行った新聞社の部門長も、女子社員の中途採用の可能性は皆無だと断言していました。あの時、私を厚遇してくださった部門長は、ご自分の出来る範囲内で私に配慮してくださいましたが、制度改革を提案するなどということは思いもよらないようでした。

このままでは、向上心のある社員はどんどん外資系に流れていってしまうという危機感のようなものを強く感じました。こんなことでは近い将来、日本企業は国際競争力を失ってしまうのではないかと思いました。しかし、私はこの問題提起をどこにしたら良いのかわかりませんでした。一人の日本人として、歯がゆい思いでただその現状を見つめていただけでした。

27歳の私にとって、少なくとも日本の大企業には履歴書を送る先は皆無だけれど、世界的企業の日本支社ならばいくらでも求人があるということ、そしてやる気があれば女性でも中途採用してもらえて、責任のある仕事をさせてもらえるということがわかりました。

私は業務で使う予定の英語よりも日本語の方がずっとずっと堪能なのに、日本の会社には応募すらできないということが不思議で悲しく思えました。私は外資系に行きたかったわけではありませんでしたが、職務内容、給与や福利厚生など総合的に考えた時、外資系しか選択肢がありませんでした。

◇ ◇ ◇

フランスから帰国してちょうど一年後の夏の終わりに、私は子どもの頃から憧れていた欧州系の会社に再就職が決まりました。フランス語を使って仕事をするという夢も、出版社で編集職に就くという夢はどちらも叶いませんでしたが、それでもこの会社で働きたいと強く願った会社でした。

実際に、転職して何年か働いたのち、私は中間管理職として60名以上のスタッフの部門長として責任ある仕事を任せてもらうことになりました。同じように日本の会社から転職してきた大勢のやる気のあるスタッフと手を携えて、世界中の仲間と共に本当にがむしゃらに働きました。仕事はとても楽しかったし、やりがいもありました。

現在は三つ目の仕事をしていますが、長く勤めた二番目の会社には数多くの思い出があり、私の人生において大切な存在であり続けています。

外資系の会社に勤務している間、頻繁にヘッドハンターから連絡があり、様々な転職先を紹介をしてくれました。しかしその中に日本企業が入っていたことはありませんでした。

1986年(昭和61年)9月からのほぼ一年間の転職活動を振り返ると、あの頃はまだまだ日本企業は家族的な雰囲気が大いに残っていて、役員が辞めた社員の就職を心配して、実際にまるで親戚の娘の就職の世話をするように尽力してくださったことが懐かしく、そして有難く感じられます。本当にお世話になりました。正社員への仕事には結びつきませんでしたが、今も心の中で感謝しています。

そして、当時の日本企業の閉鎖性に改めて悲しみと情けなさを覚えました。私が再就職を果たしたのは1987年(昭和62年)10月のことでしたが、その後の日本が失われた十年、二十年という暗黒の時代に入っていったのは、あの頃の閉鎖性にも大きな原因があったように私は感じてきました。

フランスに行って帰国して、一年間あれこれ手探りでもがいた再就職活動でしたが、この間、ただの一度も会社を辞めてフランスに行ったことを後悔したことはありませんでした。結果的には残念ながらフランス企業とはご縁がなく、フランス語を活かして仕事をすることはできませんでしたが、それでもフランスに行って良かったと思いました。

三十五年の月日が流れ、雇用形態もすっかり変わりました。昨今では新卒で外資系に就職するのは少しも珍しくなくなりました。また日本企業も中途採用を積極的に採用するようになってきました。男女雇用機会均等法も1986年に施行以来、1999年、2007年、2017年、2020年と改正を重ね、男女差別、セクハラ、マタハラ、パワハラなどが法律で禁止されていきました。

今日では在宅勤務も増え労働環境は日々変化しています。1980年代半ば、昭和60年代の転職活動は遠い昔のこととなりましたが、転職活動をする若者の思いは、今も昔も変わらないような気がします。


<再録にあたって>
1987年2月、出版社を辞めて、傷心の旅に出た私の気持ちを癒してくれたのは能登半島の美しい自然と、温かくもてなしてくださった地元の方々でした。

40年近く経った今も、民宿で出してくださった、こたつ机に乗り切らず畳の上にまで並んだ朝食の品々が今も目に浮かびます。ほうれん草の胡麻和えひとつとっても、どうやって味つけたのかと思うほどのおいしさでした。私は今もほうれん草の胡麻和えを作る時には、あの能登の民宿の味を目標にしています。

丁寧に手入れされた千枚棚も、おばさんたちの笑顔が忘れられない輪島の朝市も、迫力のある御陣乗太鼓も、忘れることのできない思い出がたくさんあります。今の私には、わずかばかりの募金をすることしかできませんが、一日も早く、被災地に心安らかな日々が戻ってくることを祈っています。


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