048.ラジオ体操と月着陸

昭和44年(1969年)7月21日、月曜日の朝6時過ぎ、大急ぎで着替えて顔を洗うと、私は弟と共に公園へ駆け出して行きました。その日は夏休みの初日で、いよいよラジオ体操が始まるからでした。

いつもの近くの公園ではなく、子どもの足で十分程の少し離れた中央公園でラジオ体操は行われました。学校の校庭くらいありそうな大きな公園には、すでに大勢の子どもが集まっていました。

この年、私は小学四年生でした。三つ離れた弟も一年生になったので、今年から一緒に参加することになりました。公園に着いて最初にすることは、白いテントの下の受付に行って、ラジオ体操のカードに朱色のハンコを押してもらうことでした。毎日通うたびにハンコがひとつずつ増えて行くのはとても楽しみでした。

私は幼稚園の頃から、登園ノートに出席シールを貼ってもらうのが楽しみな子どもで、休まずに通うと金色や銀色のお星様のシールが貰えて、とても嬉しかった記憶があります。ラジオ体操の「ハンコ」というのは、ちょっと大人っぽくてさらに大きな楽しみになっていました。

カードは初日にテントで配られたように思うので、21日は少し早めに行ってカードに名前を書き込んだりしたのかもしれません。皆勤賞だとカードのマスが全部ハンコでいっぱいになるのですが、夏休みには大阪の祖父母の家に旅行に行ったり、熱を出して寝込んだりしていたので、残念ながら私のカードが朱色のハンコで埋まることは一度もありませんでした。

受付で貰ったカードの上部には一箇所パンチの穴があいていて、そこにヒモを通せば首から吊るせるようになっていました。私の家では、毎年プレゼントの包装にかかっていたピンクのリボンを母が通してくれていました。真ん中に金色の筋の入っているリボンではふわふわしてしまって体操の時に邪魔になるので、目の詰まったピンクのリボンを箱から探して通してもらいました。私の家に限らず、あの頃は綺麗な包装紙やリボンはきちんと畳んだり結んだりして戸棚の中の箱にしまっておいたものでした。

ラジオ体操が始まる6時半前には、広い公園に体操をする場所を確保するのが難しいほど大勢の人が集まってきました。子どもだけではなくて大人の人もいました。それでも仲良しを見つけて近くで並んで場所取りをしました。

6時半ちょうどになると、ラジオ体操の歌の前奏が始まります。♪ターンターカタン、タカタカ、ターンターカタン…と曲が始まると、みんな揃ってリズムに合わせてカカトを上げ下げして体操が始まるのを待ちました。私にはこのカカトの上げ下げが可笑しくて、毎朝笑いをこらえていたものです。

還暦ともなると、腰やら膝やらあちこちに問題が出てきて、楽々とラジオ体操をこなすというわけにもいかなくなりましたが、子どもの頃はこんな何でもない体操をするのにどんな意味があるのだろうかと思っていました。

私なりの解釈では、体操そのものには意味はないけれど、夏休みに子どもたちがだらだらと朝寝坊をしないように、学校や親たちが話し合って、子どもたちを朝から集めているのだろうなどと考えていました。

いよいよ体操が始まると、朝会の時に先生方がよく乗っているような台の上に、白い上下の体操服を着た男の人が立って、見本のような美しい体操をしてくれました。第一体操はいきなり足をガニ股に開くように指示されて、女の子は恥ずかしがって膝はくっつけたままという子も多く、マイクで注意されることもありました。

実は私のお気に入りは第二体操で、少し飛び跳ねたらいきなりサビの部分から入るような導入で、ジャイアントロボのようなポーズを出だしで数回行ったあと、両腕を前から横、横から前そして真下、それからグルリと回すという一連の動作の独特のリズムにすっかり魅せられてしまいました。そこの部分は私の中で、なぜかラジオ体操の「セブンスコード」と位置付けられています。

◇ ◇ ◇

さて、ラジオ体操を終えた私と弟が家に着くと、その時、つまり1969年7月21日日本時間午前7時頃のことですが、私の両親はテレビにかじりついていました。今まさに、これからいよいよ人類が月面に第一歩を踏み出すという場面でした。

あの日、父は白いランニングシャツにステテコ、母はお手製の白地に青い花のアッパッパを着ていたことまでよく覚えています。当時はエアコンもなく、大抵の家では大人たちは皆んなこんな格好をしていました。

いつも両親は私たち子どもには、目が悪くなるといけないからテレビは離れて見るようにと口癖のように言っていたのに、あの日の二人は、テレビ画面の中に入り込むような勢いでテレビ画面を見つめていました。あの頃の我が家のテレビはまだ白黒で、四本の足がはえていました。私は両親が固唾を飲んで見つめるその姿を見て、月着陸ってすごいことなんだと改めて感じました。

アポロ11号は、1969年7月16日にフロリダのケネディ宇宙センターからサターンV型ロケットで打ち上げられ、打ち上げられたロケットは燃料部分を何度か切り離しながら、月面の「静かな海」と呼ばれる着陸地点の上空で月着陸船と司令船に分離して、私がラジオ体操に出かける1時間くらい前の日本時間7月21日の朝5時17分40秒に月着陸船が月面に着陸しました。

その時間、私はまだ眠っていて、起きてすぐは大慌てで支度をして出かけてしまったので、着陸の瞬間は完全に見逃していました。その時、両親がどうしていたかの記憶はありません。月着陸船の記憶が始まるのはラジオ体操から帰ってきてからのことです。それにしても宇宙を飛ぶ乗り物を「船」と表現するのには不思議でなりませんでした。

アポロ11号には三名の宇宙飛行士が乗り込んでいました。ニール・アームストロング船長、バズ・オルドリン操縦士が月着陸船に乗り込み、マイケル・コリンズ操縦士が司令船に残りました。

アームストロング船長が月面に一歩を踏み出すまで、私にとってはかなり長い時間が過ぎました。その間、NASAの管制室が「こちらヒューストン、アポロ11号、応答せよ」と何度か呼びかけました。この表現は翻訳を字幕で見たのか、あるいは通訳を耳で聞いたのかは覚えていませんが、その後子どもたちの間で流行語にもなりました。

あの頃、コンピュータはまだ「電子計算機」と呼ばれており、この巨大な計算機で月までの軌道を計算したとは子ども心に驚きでしたが、子どもの頃よりも大人になってからの方が、あの時代の技術で月着陸を成し遂げたのかと思い、より大きな驚きとなっています。

長いこと待って、ようやく月着陸船のハッチがあき、ものすごく大きなランドセルのようなものを背負い、宇宙服に身を包んだアームストロング船長が月着陸船のハシゴをゆっくりと降り、ふわりふわりと月面を歩いた時、私は本当に感激しました。あの時の映像は今もしっかり目に焼き付いています。

アームストロング船長の「これは一人の人間にとっては小さな一歩だが、人類にとっては偉大な一歩である」という名言も感動を持って受け止めました。

続いてオルドリン操縦士が降りてきて、二人でふわりふわりと月面を歩いていました。アームストロング船長が月面に降り立ったのが、日本時間7月21日 午前11時56分だとのことなので、5時間位家族全員でテレビにかじりついていたのでした。この時のNHKの視聴率は68%に達していたのだそうです。あの日の我が家のお昼は、確か冷や麦でした。

その後、二人はゴーカートに似た車で月面を走ったり、星条旗を立てたりしていました。あの旗は、今も月に立ったままなのでしょうか。

◇ ◇ ◇

アポロ月着陸は、私たち世代に多大な影響を与えたと思います。翌1970年の大阪万博のアメリカのパビリオンには、月の石を一目見ようと連日大行列ができました。私を含む多くの子どもたちは、二十一世紀には月に住んだり、火星や金星にも住むようになると信じていました。宇宙時代の幕開けだと胸を躍らせていました。

それまでは宇宙といえばソ連のお家芸というような感じで、宇宙犬ライカを始め、「地球は青かった」のユーリ・ガガーリンや、「私はかもめ」のワレンチナ・テレシコワが有名でしたが、月面着陸という快挙を成し遂げたお陰で米ソの宇宙開発における地位は完全に逆転しました。

アームストロング船長は英雄で、確か、翌年の学研の「科学と学習」の「学習」の付録に、ニール・アームストロングの伝記があったように思います。うろ覚えですが、少年時代のニールとお母さんとの心温まる内容でした。

私も当時の多くの少年少女のように、その後もずっと月着陸や宇宙飛行士への憧れを持ち続けていました。就職した年に出版された立花隆著の『宇宙からの帰還』を読んだ時には、そこに描かれた宇宙飛行士の体験に震えるような興奮を覚えたものでした。

ところが、すっかり大人になったある日、「徹子の部屋」を見るともなしに見ていたら、その日のゲストは女優の森光子さん(1920-2012)でした。色々な話をしたあと、どういうわけかアポロ11号の月面着陸の話になり、森光子さんは「お月様になど、行って欲しくはなかった」と言いました。

「月はうさぎが餅をついていたり、かぐや姫が帰って行くところなのだからそっとしておいていただきたかった」というのを聞いて、私は大変驚きました。あの時代、そのように思っていた人もいたのか、私には思いも寄らない考えだったと不意打ちに遭ったような気持ちになりました。

◇ ◇ ◇

ラジオ体操を一番、二番を続けておこなうと、息の上がる年齢になりました。宇宙開発計画も、子どもの頃思い描いていたのとはまるで違う展開になっていきました。それでも、夏休みが始まるこの季節になると、きまってラジオ体操とアポロ月着陸がセットになって蘇ってきます。


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