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一段、一段。 ひとつ、ひとつ。

⑤掃除の重要性
~アマテラスときどき瀬織津姫~


こんばんわ。
今日も引き続き、お掃除やお片付けの心がけお話をしようと思います。

掃除や片付けが苦手な人はいますか?

「はーい🙋」(以前の私)

何から手をつけていいかわからなくなって、放置・後回し的な?

今ではかなり上手になり、コンスタントに流れるようにできるようになりましたが、ちょっと旅行や帰省で家を開けると、大量の買い物や、溜まった家事で一気にやることが増えちゃいます。

山登りや、山の上にあるような神社・お寺めぐりするようになってから、目の前にやらなければならないことが「山のように」積みあがってしまった時、私はひとつひとつの動作を階段を、一段一段登ることをイメージするようになりました。

鞍馬寺のお堂に辿り着くまでの階段(写真の100倍はあったかな)

山の頂上や、お参りする神社やお寺のお堂に辿り着くまで、私たちは一歩ずつしか前に進むことができません。

なのに、家の雑用になると、いきなりスキップや二段飛ばしをしようとしてしまいがちです。

いかに楽をして(手を抜いて)、目的を達成しよう試みてしまうのです。

二つのことをいっぺんにしようとしたり、両手に2種類以上の物を持って、一度に終わらせようとしてみたり。
若い時は確かに、時間もなかったし、運動神経も脳ミソも上手く働いてくれてできていたことが、若い時と同じようなスピードと効率でやろうとすると、必ずと言っていいほど(私の場合ですが)、無駄に、やらかします。

例えば、水をひっくり返してみたり、粉をまき散らしてみたり、落としてダメにしてしまったり…。
結局、仕事を増やしてしまうことになることが往々にしてあります。

そんな中、茶道を習っている友人の口から出た「所作」という言葉を思い出していたタイミングで、ちょうど、SHOGENさんのブンジュ村の村長さんに聞いたお話の中でもおっしゃっていた、ひとつひとつの動作を

「所作を(として)、愛おしみながら行う」

ということを、実践しておりました。

特に私は、早く目的に辿り着きたい傾向が強かったので、「丁寧さ」を心掛けてやらないと、本当によく失敗をしてしまうのです。
指差し確認(指差して、「〇〇、ヨーシ!」っていうやつ)でもいいのですが、山登りや階段上り(?)をするようになって、脚は使ってなくても、手作業も、一歩一歩だなぁ、と思うようになりました。

片付けもそう、掃除もそう。勉強もそう、仕事もそう。
今日のタイトル画像「始まりも終わりも必ずある」という言葉のとおり、全てのことは、一旦始めて、歩さえ進めていれば、どんなノロマな亀でも、必ず到達します。
最近は、早く効率良くできることより、目の前の一瞬一瞬の動作を、丁寧に所作として行うことをずいぶん楽しめるようになりました。

私はカメラマンだった父親の影響もあって、被写体を見る時、被写体(人)が対象としている「モノ」ではなく、手であったり、眼差しであったり、そういうところに惹かれます。
人が真剣に何かに取り組んだり、愛情を持って何かをしている瞬間って、本当に美しいんですよね。

被写体はその瞬間、対象物しか目に入っていません。
目の前のことに集中しています。その姿は、誰かに良く見られたいとか、評価されたいとか、そういう欲が一切無い状態です。

そして、さらに素敵なのは、その行為を心から喜んで楽しんでいる表情。
誰かを喜ばせようと一生懸命な姿。
勝利に向かってただ、突き進む姿。
今までやってきた努力を、全部出し切ろうとする姿。
勝ち負けよりも、その無垢な姿が、本当に素敵だと感じるのです。

少し引いたカメラのアングルで、自分の視線の先や手先と物が触れることに集中して、自分でも「美しい所作だなぁ」と思うくらい、丁寧に目の前の動作に取り組むんです。

そうしたら、SHOGENさんが仰っていた、「縄文時代の日本人は、顔を洗う時に水を汲み上げる手の形にさえ、喜びを感じていたんだよ。」という村長さんの言葉のように、洗濯物を畳むというたった一つの動作も、洗ったお皿を拭くという動作も、トイレ掃除も、目の前のことに集中して取り組めるようになります。
他のことは考えません。

私の場合はさらに、私の人生の中に、私が選んで一緒に暮らしている家の中のモノひとつひとつに「ありがとう」と心の中で言いながら、することもあります。
特に自分の波長が落ちている時ほど、それをするようにしています。

言われ尽くした言葉ですが、どんなに高い山も最初の一歩から
そして、歩み出したら、一段、一段、一歩、一歩です。
疲れたら、休めばいいんです。
そして、また歩きだせばいいんです。
そしたら、必ず「終わり」があります。
そして、ひとつ終わったごとに、「気持ちの良さ」というご褒美があるんです。「ここまで進めたね」というご褒美があるんです。

今日は、ここまでしかできなかったかもしれない。
でも、やり続けたら、必ず到達します。
お給料をいただく仕事もそう。家事もそう。なんでもそう。
それを、❝ いやいや ❞ やるのではなく、喜んでやる人に、神様は「達成感」という喜びを報酬として与えてくれます
そして、喜びの連続の向こうに、願望実現や幸せがあるように、この世は造られています。(それが法則ですよね?)

そうなんです。
全ては日々の生活の中に、幸せの芽があるのです。
目の前のことに集中して、ただ、丁寧に取り組む。
感謝ができればなお良いけれど、疲れてたり感謝の気持ちまで持てなくても、対象物を自分が扱われたい丁寧さで扱う。
モノも全て波動でできているので、そうやっていたら、必ず自分の波動も上がってきます。必ずです。

そしたら、いつしか自然に感謝の気持ちを持てる自分に戻ってきます。

まず、一歩。 そして、一歩ずつ。

それしか、目的地に辿り着く方法はないし、
どんなに大変な仕事でも、着実に一歩ずつ感謝しながら歩を進めていたら、必ずゴールに到達できます。
「達成感」「自己肯定感」「自分を自分で褒めてあげたい」という気持ちというご褒美が待っています。

できない日。・・・もちろんあっていい。
「明日こそがんばろう」と思っても、がんばれなくてもいい。
わたしの魂は、今日を精一杯生きたのです。
と自分で自分を褒めること。

置物かと思ったくらい動かなかった本物の亀。

↑ 彼らは何をしているのでしょう?
神様は素早く動けない亀にだって、同じように愛を降り注いでくれています。

みんな毎日確実に「死」という終わりに近づいています。
でも、みんな確実に等しく「成長する」という選択肢は与えられています。
みんな確実に等しく「幸せを感じる」という選択肢は与えられています。
どの道を選択するかは、自分次第です。
今日が亀のようなあゆみの一日でも、自分だけは自分のことを好きでいてあげましょう。
それが、自分のため、回りまわって人の為になります。
人の為になったことは、また回りまわって、自分に良きこととして戻ってくるように

この世はできています。

って、もう、何千年も前から自分らより、死ぬほど修行して、悟り開いてブッダ(仏陀)になった人や神様や、世の中のマスターというマスターがそのように言ってますからね。信じましょうね(笑)。

今日も最後まで読んでいただき、ありがとうございました。

ほな、またね。  ~祗是未在~











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