スワローズ、神宮球場でのスコアレスドローを振り返る

5月12日、神宮球場でのヤクルト対広島戦は投手戦となった。

ヤクルト先発は田口麗斗、広島先発は森下暢仁。
互いに7回まで投げ、田口は95球、被安打5、5奪三振、一方の森下は自己ワーストの6四球ながら、被安打3、5奪三振と踏ん張り、127球の熱投。特に7回は2死二、三塁と最大のピンチを招いたが、なんとか切り抜けた。
結局、田口と森下はそれぞれ無失点で抑えると、ブルペン勝負となった。

8回、ヤクルトはマクガフ、広島は塹江敦哉が無失点に抑える。
9回はクローザーの石山泰稚が四球を出したが、ゼロに抑えると、その裏、広島は新人クローザーの栗林良吏がマウンドに上がり、二死から四球を与えたものの、アウトすべてを三振に取り、ゲームセット。栗林はデビュー以来、16試合連続で無失点というNPBタイ記録(阪神/ピアーズ・ジョンソン、2019年)を樹立した。
(広島の攻撃陣5月8日の中日戦(バンテリンドーム)8回の攻撃から3試合に跨って20イニング連続無得点を更新中)

そして、この瞬間、この試合はNPBで今季3度目のスコアレスドローとなった。
3月28日の広島対中日(マツダスタジアム)、4月20日のDeNA対中日(横浜スタジアム)に次いで、3か月連続である。

ただし、神宮球場では久々のスコアレスドローとなった。

2011年5月23日、ヤクルト対ソフトバンク戦で、0-0の5回降雨コールドゲームを除くと、実に20年ぶりである。

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2001年8月16日 ヤクルト対横浜戦

2001年8月16日、神宮球場でのヤクルト対横浜戦は、ヤクルトが左腕の山部太、横浜はプロ10年目のエース・三浦大輔が先発マウンドに上がった。山部は7回途中、三浦は7回までをゼロに抑え、後続の投手に託した。

ヤクルトは、7回2死から、五十嵐亮太、8回から山本樹、9回から河端龍が2イニング、そして、11回からは守護神の高津臣吾がマウンドに上がり、2イニングを投げ、いずれも無失点。

横浜も、8回に木塚敦志、9回に竹下慎太郎、10回から守護神・齋藤隆が2イニングを無失点に抑え、12回には中野渡進が上がった。12回1死からは6番手の杉山賢人が登板し、最後は3番・稲葉篤紀を退け、サヨナラのピンチをなんとかしのいだ。

尚、この年、三浦大輔は11勝を挙げ、自身4度目の二桁勝利をマーク、防御率2.88はリーグ3位、高津臣吾はこの年、37セーブで自身3度目の最優秀救援投手のタイトルを獲得している。

1976年8月5日 ヤクルト対巨人戦

それ以前となると、さらに25年前、1976年8月5日のヤクルト対巨人戦に遡る。5位に低迷するヤクルトの先発は会田照夫、一方、首位を独走する巨人の先発は左腕の新浦寿夫で始まったが、実はヤクルトは6連勝中で、首位・巨人にも2連勝して、臨んだ3連戦の最後の試合だった。
会田、新浦の両投手とも失点を許さず、試合は9回を終わっても0-0のまま、延長戦に突入した。

アンダースロー右腕の会田照夫はこの年、プロ6年目、29歳を迎えていた。開幕直後に、救援で好投したことから、シーズン途中、松岡弘、安田猛の両エースに次いで、先発ローテーション入りした。この試合まで3勝4敗、防御率4点台の成績であったが、この日は首位・巨人につけいるスキを与えず、1番・柴田勲、3番・張本勲、4番・王貞治、7番・吉田孝司、そして投手の新浦寿夫にそれぞれシングルヒットを計5本、許しただけで、四球も2個だけ。延長12回を一人で投げ切り、最後は6番のデイビー・ジョンソンを打ち取って、味方の最後の反撃を待った。

一方の新浦寿夫は前年1975年は、先発・リリーフで37試合を投げ、防御率3.33ながら2勝11敗と勝ちに見放されていたが、この年はここまで、先発とリリーフで8勝3セーブを挙げており、防御率も2点台。
この試合も、ヤクルト打線相手にゼロを重ね、巨人の勝ちがなくなった最終回の延長12回にもマウンドへ。二死から代打・角富士夫に二塁打を浴び、一打サヨナラのピンチを招いたが、代打・八重樫幸雄から、この日、9個目となる三振を奪い、ゲームセット。被安打わずか4。
そして、神宮では10年ぶりのスコアレスドローとなった。

ヤクルト先発の会田は12回を被安打5、無失点に抑えながら、ルーキー以来となるプロ2度目の完封勝利を逃した。だが、これが自信につながったのか、同じ月の8月25日の中日戦(神宮)では、被安打6、四球1で、今度こそ、自身2度目の完封勝利を収めた。そして、10月11日の草薙球場での大洋戦で先発、これまた5安打散発、無四球の完封勝利で、プロ6年目にして自身初の二桁勝利をマークした。ルーキー以来、久々に規定投球回にも達し、防御率3.61もリーグ8位。
ヤクルトはシーズン途中から広岡達郎が指揮を執り、リーグ5位に終わったが、投手陣の中で、会田の開花は朗報といえた。

一方の新浦寿夫も、この年、チームトップの50試合に登板(うち先発25試合)、自身初の二桁勝利(11勝)を挙げ、小林繁(18勝)、加藤初(15勝)、堀内恒夫(14勝)に次いで、先発4本柱の一角に食い込んだ。
そして、長嶋茂雄が初めて指揮を執って2年目の巨人は前年の最下位から、一気にリーグ優勝を収めた。

新浦はその後、4年連続でシーズン二桁勝利をマーク、2年連続で最優秀防御率のタイトルを獲得するなど、第1期の長嶋巨人に欠かせない左腕エースに成長したのに対し、一方の会田は、翌年9勝どまりで2年連続の二桁勝利を逃すと、1978年、広岡達郎監督の下、ヤクルトが初のリーグ優勝・日本一を果たしたにもかかわらず、シーズン3勝どまりと貢献できず、1979年、1980年は一軍で未勝利に終わり、通算29勝でオフに引退した。

その後、会田の三男である有志(現・巨人投手兼トレーニング統括コーチ)が2005年に中央大学から巨人に入団、2007年4月26日の横浜戦(東京ドーム)で、プロ初勝利を挙げた。会田照夫・有志の親子は、NPB史上初の父子による一軍での勝利投手となった(有志は実働2年、通算3勝で引退)。

父の照夫は、今年2月22日に73歳で亡くなっている。

新浦寿夫は1980年以降、成績が低迷し、チーム内で若い江川卓、西本聖、定岡正二らの台頭の前に登板機会が減少したため、両親の故郷である韓国の球界に活動の場を求め、巨人を退団した。1984年、三星ライオンズに移籍すると、糖尿病と戦いながら、最多勝を獲得した。その実績をひっさげて、1987年に35歳で日本球界に復帰、大洋に入団すると、いきなりカムバック賞を受賞、5年間で2度の二桁勝利、通算35勝を挙げた。

新浦は41歳で迎えた1992年のシーズン、ダイエーに移籍したが、精彩を欠くと、シーズン途中で野村克也監督に請われてヤクルトへと渡り歩き、そのオフに、野村克也監督初のリーグ優勝という美酒を手に現役を引退した。
8月16日、神宮球場での巨人戦、新浦は、巨人エースの齋藤雅樹に投げ勝って勝利投手になったのが、現役最後の勝利(NPB通算116勝目)となった。

この日も、新浦が16年前にスコアレスドローの快投を演じたあのときと同じ、真夏の神宮球場であった。

その午後、阪神甲子園球場では、夏の甲子園大会の2回戦が行われており、星稜高校の松井秀喜が5打席連続敬遠という、これまた甲子園の歴史に残る「事件」の渦中にいた。








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