【追悼】野球人の物故者(2021年1-3月)

2021年も数々の野球人が鬼籍に入られた。
生前の野球界への貢献を称え、その功績を記しておきたい。

2021年は東京ヤクルトスワローズが20年ぶりに日本一を奪取したが、前身である国鉄スワローズの創設期と、1978年の球団創設初のリーグ優勝・日本一のメンバーの逝去が目立った。

1月に田所善治郎さん、2月に箱田淳さん、安田猛さん、会田照夫さんと立て続けに訃報が舞い込み、12月にも倉田誠さんが亡くなった。

特に安田猛さんにとって、高津臣吾監督は自身の背番号「22」の後継者で、投手コーチとして現役時代の高津監督を指導したこともある。

田所さん、箱田さん、安田さん、会田さんはスワローズの20年ぶりの日本一を見届けることは叶わなかったが、草葉の蔭で喜んでいらっしゃることだろう。


田所善治郎(1934年7月17日生まれ-2021年1月6日没)享年86
投手 国鉄スワローズ(1953-1964)



https://2689web.com/ind/1953058.html


静岡県焼津市出身。
静岡県立静岡商で4番で右腕エースとして1952年のセンバツ大会に出場。
センバツ大会史上3人目となる4試合連続完封勝利を挙げ、初優勝をもたらした。
当時、中京商・野口二郎(東京セネタース・翼軍→大洋軍・西鉄軍→阪急軍・阪急ブレーブス)、岐阜商・大島信雄(松竹ロビンス→名古屋・中日ドラゴンズ)に次ぐ、快挙であった。
1953年、国鉄スワローズに入団。
翌年1954年、高校時代にバッテリーを組んだ後輩捕手の阿井利治も入団すると、1956年7月14日と15日、甲子園での阪神タイガース戦で、田所ー阿井の静岡商センバツ優勝バッテリーによる先発バッテリーが2試合連続で実現した。
入団5年目の1957年に開幕投手を務めると、先発・救援で300イニング超を投げ、金田正一(国鉄スワローズ→読売ジャイアンツ)に次いで、チーム2位の15勝を挙げるなど、2度のシーズン二桁勝利をマーク。
1964年オフに通算56勝の成績を残し、現役引退。
引退後、国鉄・サンケイアトムズでコーチを務めた。

ポール・ホイタック(1930年11月16日生まれ-2021年1月23日没)
投手 中日ドラゴンズ(1965)



https://2689web.com/ind/1965060.html


米国ペンシルベニア州出身。
1953年にデトロイト・タイガースでメジャーデビューすると、4年連続シーズン二桁勝利を挙げるなど、6度のシーズン二桁勝利、MLB通算86勝をマーク。
1965年に中日ドラゴンズに入団したが、わずか2勝に終わり、オフに現役引退した。
当時、中日の投手コーチだった近藤貞雄(のちに中日監督)に、米国の「投手分業」を教えたともいわれる。

高橋里志(1948年5月17日生まれ-2021年1月31日没)享年72
投手 南海ホークス(1968-1972)→広島カープ(1974-1980)→日本ハムファイターズ(1981-1984)→近鉄バファローズ(1985-1986)




https://2689web.com/ind/1968035.html


福井県敦賀市出身。
地元・敦賀工業から電電北陸に進み、1967年に南海ホークスからドラフト4位指名を受けて入団するが、わずか1勝のみで1972年オフに自由契約に。
その後、地元で浪人生活を送っていたが、南海でチームメートだった広島カープコーチの古葉竹識に請われて広島と打撃投手として契約し、1974年シーズン途中で投手として現役復帰した。
その後、1975年から監督に就任した古葉監督の下、1977年には終盤、大車輪の活躍でシーズン20勝を挙げて最多勝を獲得、翌1978年にも2年連続でシーズン二桁勝利を挙げた。
1981年から日本ハムファイターズに移籍、広島時代には登板できなかった日本シリーズで中継ぎとして3試合に登板した。
1982年には先発・救援で防御率1.84をマークし、最優秀防御率のタイトルを獲得。
近鉄バファローズに移籍後、1986年オフに通算309試合登板、61勝の成績と共に現役引退した。


スタンリー・パリス(1930年5月1日生まれ - 2021年2月8日没)
外野手/内野手 東京オリオンズ(1964-1967)



https://2689web.com/ind/1964062.html


米国ペンシルベニア州出身。
1953年にフィラデルフィア・フィリーズで外野手としてメジャーデビュー。
シンシナティ・レッズに移籍し、MLB実働4年で通算10本塁打。
マイナーリーグを経て、1964年に東京オリオンズ(現在の千葉ロッテマリーンズ)に入団。
1964年の開幕戦、「3番・レフト」で先発し、9回に同点となる来日初ホームランを放つ。
3番・4番でほぼ全試合に出場すると、打率.283、17本塁打という成績を残す。
翌1965年は序盤、左足のケガで2か月近く離脱したが、6月に復帰すると主に4番を打ち、104試合の出場で、リーグ4位となる25本塁打を放つなど、右の中距離打者として榎本喜八らとクリーンアップを形成した。
1966年も4番で18本塁打を放ち、来日3年で60本塁打を放ったが、1967年、右肩のケガの影響で長打力が鳴りを潜め、1967年オフに退団した。
NPB4年間での成績は446試合、打率.275、66本塁打、253打点。

箱田 淳(1932年2月1日生まれ-2021年2月18日没)享年89
投手/内野手 国鉄スワローズ(1951-1960)→大洋ホエールズ(1961-1964)



https://2689web.com/ind/1951036.html


広島県福山市出身。
盈進商業(現・盈進高校)から1951年に国鉄スワローズに投手として入団。
当時のスワローズは選手不足のため、内野手としても出場、プロ初勝利よりプロ初安打のほうが早かった。
入団4年目の1954年から野手に専念して背番号「3」をつけると、開幕から二塁手でレギュラーを獲得、9本塁打、打率.323でスワローズ野手初のシーズン打率3割を記録。
スワローズで初めてセ・リーグのベストナインに選出された。
その後、箱田弘志から淳に改名、1956年から3年連続でオールスターに選出され、俊足巧打ながら四番を打つなど、2度の全試合出場、3度の二桁本塁打をマークした。
1960年オフにA級10年選手制度の権利を行使して大洋ホエールズに移籍すると、主に代打の切り札として、在籍3年で満塁本塁打2本を含む代打本塁打6本を放った。
1964年オフに通算1279試合、打率.261、933安打、80本塁打の成績を残し、現役引退。
引退後、野球解説者を務める傍ら、スワローズOB会の統一(2002年)に尽力した。

安田 猛(1947年4月25日生まれ-2021年2月20日没)
投手 ヤクルトアトムズ/ヤクルトスワローズ (1972 - 1981)



https://2689web.com/ind/1972071.html


福岡県築上郡椎田町(現・築上町)出身。
県立小倉高校では小柄ながら左腕エースとして3年春にセンバツ甲子園(1965年春)に出場したが1回戦で敗退。
早稲田大学教育学部に進学、谷沢健一(中日ドラゴンズ)らと東京六大学リーグ優勝(1968年秋)を果たした。
社会人の大昭和製紙に進み、1970年の都市対抗野球でチームを優勝に導く投球で橋戸賞を受賞。
1971年のドラフトでヤクルトアトムズから6位指名を受け、「長嶋茂雄・王貞治と一度でいいから対戦したい」と周囲の反対を押し切り入団、背番号「22」を着ける。
入団1年目の1972年、左腕のサイドスローから繰り出す変化球を武器に、リーグトップの50試合に登板、7勝5敗、防御率2.08で最優秀防御率投手のタイトルと新人王を獲得した。

翌年1973年、7月17日の阪神戦から9月9日の阪神戦まで、81イニング連続無四死球でNPB記録を大きく更新すると、53試合に登板して、防御率2,02で、稲尾和久(西鉄ライオンズ)に次ぎNPB史上2人目となる新人から2年連続最優秀防御率のタイトルを獲得した。
その後も、無類の度胸と制球力で「王キラー」ぶりを発揮(王貞治との対戦被打率.254、被本塁打10)、左膝痛と闘いながら、1975年から4年連続2桁勝利をマークした。
1978年には広岡達郎監督から開幕投手に指名され、15勝を挙げると、球団史上初のリーグ優勝に大きく貢献。
阪急ブレーブスとの日本シリーズでは、第1戦・第4戦の先発として登板し、日本一も味わった。

1981年オフ、358試合登板、通算89勝、防御率3.26という成績を残し、現役引退した。
引退後は、一軍投手コーチ、先乗りスコアラー、編成部長などを歴任。
特に野村克也監督の下では投手コーチ、スコアラー両方で日本一に貢献。
JR東日本の臨時コーチを務めた際は、同じ左腕の田嶋大樹(現オリックス・バファローズ)を指導している。
漫画家・いしいひさいちの漫画「がんばれ!!タブチくん!!」では、準主役級の「ヤスダ」投手のモデルとなり、テレビアニメ化・映画化されるなど人気を博した。


会田 照夫(1947年6月5日生まれ-2021年 2月22日没)
投手 ヤクルトアトムズ/ヤクルトスワローズ (1971 - 1980)



https://2689web.com/ind/1971001.html


埼玉県春日部市出身。
野本喜一郎(西鉄ライオンズなどで投手)が監督を務めた県立上尾高校で右腕アンダースローとして活躍(甲子園出場はなし)。
野本が東洋大学の野球部監督に移ると一緒に進み、東都大学野球リーグで1年生でノーヒットノーランを達成、二部優勝、一部昇格に貢献するなど、通算21勝を挙げた。
社会人野球の三協精機では都市対抗野球で補強選手として敢闘賞を受賞。
1970年ドラフトでヤクルトアトムズから7位指名を受けて入団。
背番号「18」を背負い、入団1年目の1971年、神宮で初先発・初完投勝利を挙げるなど規定投球回に達し、6勝を挙げた。
1976年、唯一のシーズン二桁勝利となる10勝を挙げ、1978年の球団初のリーグ優勝にも貢献。
プロ10年で273試合に登板し、防御率4.34、通算29勝を挙げた。

三男の会田有志も父と同様、アンダースローの投手として2006年、読売ジャイアンツに入団し、2007年4月1日にプロ初登板、同年4月26日、プロ初勝利を挙げ、NPB史上初、父子による一軍での登板・勝利投手となった。

アトムズ/スワローズで同僚の安田猛とは同学年で、安田の没後、後を追うように2日後に逝去した。


渡部 弘(1924年2月14日生まれ - 2021年2月25日没)
内野手 東京巨人軍(1944、1946)



https://2689web.com/ind/1944025.html


東京都出身。旧制・荏原中学(現・日本体育大学荏原高校)から1944年に東京巨人軍(現在の読売ジャイアンツ)に入団、背番号「9」をつける。
大平洋戦争が激化し、中島治康監督や主力メンバーが兵役で離脱する中、戦前最後のシーズン開幕戦に、「7番・セカンド」で先発出場し、プロ初安打を放つなど、24試合に出場。
戦後初のシーズンとなった1946年に1試合だけ出場し、現役引退した。

三宅 秀史(1934年4月5日生まれ- 2021年3月3日没)
内野手 大阪タイガース/阪神タイガース(1953-1967)



https://2689web.com/ind/1953085.html

岡山県倉敷市出身。
県立南海高校(現・倉敷鷲羽高校)から高卒で1953年に大阪タイガースに二塁手として入団。
「ミスター・タイガース」こと藤村冨美男が引退した後、入団3年目の1955年からタイガースの三塁手のレギュラーとして定着、1957年には打率リーグ7位でセ・リーグのベストナインの三塁手部門に選出された。
守備では「三塁・三宅、遊撃・吉田義男、二塁・鎌田実」という「鉄壁の内野陣」を形成。
シーズン打率3割こそないが、打率リーグ10位以内を3度、中距離打者として、三振を恐れぬフルスイングで、5年連続シーズン二桁本塁打を記録、さらに球団歴代3位となる通算199盗塁を記録するなど、走攻守に優れた。
1959年6月25日の後楽園球場での読売ジャイアンツ戦、天覧試合では6回、昭和天皇の眼前で、巨人・先発の藤田元司から追撃となるタイムリー二塁打を放った。

1956年4月11日の大洋ホエールズ戦(川崎)から連続試合出場が始まり、1957年7月15日の広島カープ戦(甲子園)からは毎試合、フルイニング出場を続け、1962年9月5日、大洋戦(川崎)で前人未到の700試合連続フルイニング出場を果たした。
だが、その翌日、試合前の練習中に、左眼にボールが直撃、負傷。
連続試合出場も882試合(当時、NPB歴代3位の記録)でストップ、シーズンの残り試合を欠場した。
さらに左眼は失明をまぬかれたものの、視力0.1にまで低下、その年、タイガースは二リーグ分立後、初のリーグ優勝を果たしたが、東映フライヤーズとの日本シリーズにも出場できなかった。
翌年1963年6月、一軍に復帰するも、視力低下の影響で出場機会は激減し、1964年9月1日、甲子園球場での巨人戦で、NPB39人目となる100号本塁打を放ったのが、現役最後のホームランとなった。
1964年の南海ホークスとの日本シリーズ、「御堂筋シリーズ」では第7戦、9回裏2死に打席が廻り、ジョー・スタンカの前に空振り三振で最後の打者となった。
1967年オフに現役引退。
プロ通算1219試合で、打率.252、983安打、100本塁打、376打点という成績をのこした。
引退後はタイガースでコーチ、同学年で同期入団の吉田義男が監督として率いた野球フランス代表のコーチも務めた。

1979年にドラフト1位で入団した岡田彰布は三宅に憧れて、背番号16を着けた。
2014年8月1日、甲子園での巨人戦で後輩の金本知憲が701試合連続フルイニング出場を決めて三宅の記録を更新した試合に駆け付け、金本に花束を贈呈した。

川藤 龍之輔(1947年8月17日生まれ - 2021年3月21日没)
投手 東京オリオンズ/ロッテオリオンズ(1966-1969)→読売ジャイアンツ(1970-1972)→太平洋クラブ・ライオンズ(1973)



https://2689web.com/ind/1967027.html

福井県美浜町出身。
若狭高校で1年時に夏の甲子園出場を果たすが、登板は逃す。
2年生から左腕エースとして活躍、1965年に東京オリオンズからドラフト9位指名を受け、入団。
入団3年目の1968年に、プロ初先発となった近鉄バファローズ戦で同学年の鈴木啓示と投げ合い、2安打完封でプロ初勝利を挙げるなど、防御率2.41で3勝を挙げる。
1970年に読売ジャイアンツへ移籍。
阪神タイガース戦に先発し、江夏豊と投げ合い、移籍後、初勝利を挙げた。
2歳下の実弟の川藤幸三が阪神タイガースに入団していたが、巨人在籍3年間で「兄弟対決」は実現しないまま、巨人を退団。
1972年に太平洋クラブ・ライオンズへ移籍し、3年ぶりに一軍で登板するが、その年オフに現役引退。
引退後は、地元に近い敦賀市でスポーツ用品店を営む傍ら、社会人野球チームの監督も務めた。

(「野球人の物故者【2021年4-6月】」につづく)

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