1982年の佐野元春と吉井理人



千葉ロッテマリーンズの吉井理人監督は多趣味で知られる。

このオフにも、競馬中継のラジオ番組にゲスト出演していた。
さらに、2月1日の春季キャンプ直前、1月29日の今夜、ZOZOマリンスタジアムにほど近い幕張のFMラジオ局・BAY FMで音楽番組に生出演するという。



吉井さんは野球界きっての音楽通のようだ。
和歌山に生まれた吉井さんは中学時代からバンドでの演奏を始めて、箕島高校時代も、強豪の野球部で汗を流す傍ら、バンド活動を続けていたようだ。
しかも、複数のバンドを掛け持ちして、ギター、ベース、ドラムを担当していたというから、かなりの腕前だったのだろう。






吉井さんは高校1年生の時に、佐野元春さんの”SOMEDAY"を聴いてファンになったという。あるバンドで、ドラムで佐野元春さんの曲をコピーしていたそうだ。
1965年生まれの吉井さんが高校1年生ということは1981年であり、"SOMEDAY"はその年の6月25日に発売されている。

だが、いまでこそ"SOMEDAY"は佐野元春さんの代表曲であるばかりか、80年代のアンセムとなっているが、リリースされた当時はまったくヒットしていない。
"SOMEDAY"が世間で話題になったのは、1982年の同名のアルバムに収録されてからである。

佐野元春さんのレコードデビューは1980年3月で、シングル「アンジェリーナ」をリリースするが、その後、2枚目のシングル「ガラスのジェネレーション」と併せて、のちに名曲として評価されているものの、当時は一部のロックファンにしか受け入れられていなかった。
だが、佐野さんはNHK-FMの「サウンドストリート」のDJとして、音楽ファンから人気を博しつつあった。

吉井さんの記憶が正しいとすると、吉井さんは"SOMEDAY"をリアルタイムで評価していたことになり、かなり感度の高い高校生だったのではないだろうか。

1982年3月、16歳の吉井理人、初めて甲子園のマウンドに

1982年が明けて、佐野元春が3枚目のアルバムをセルフプロデュースでリリースする準備をしていた頃、尾藤公監督率いる和歌山・箕島高校は第54回センバツ大会に出場した。
4月から2年生になる吉井理人も控え投手として背番号「11」を着け、ベンチ入りを果たした。

和歌山県立箕島高校野球部は、1960年代後半から尾藤公監督の下、高校野球の強豪校として全国的に知られる存在となっていた。
尾藤は1966年に箕島高校野球部監督に就任すると、監督3年目の1968年、第40回センバツ大会で、東尾修(のちのライオンズ)を擁して初の甲子園出場を果たし、1970年のセンバツで初優勝を遂げた。

箕島は1979年にもセンバツ大会で優勝、夏の大会では史上3校目、しかも公立高校としては史上初となる甲子園春夏連覇を達成した。この後、甲子園大会で春夏連覇を達成した公立校はなく、箕島が史上唯一である。
とりわけ、箕島が春夏連覇を果たした1979年夏、3回戦の対星稜高校戦での延長18回に及ぶ試合は語り草となっている。
箕島は吉井が入部するまでに全国制覇は春3回・夏1回の計4回を数えていた。

1982年の春、箕島は1回戦の上尾高校を6-2、2回戦の明徳高校(現・明徳義塾高校)戦では延長14回の末、4-3で勝利し、準々決勝にコマを進めた。

箕島がベスト4を懸けた準々決勝はPL学園と対戦となった。
しかし、箕島は今大会屈指の好投手、右腕の榎田健一郎(のちの阪急ブレーブス)の前にヒット3本に抑えられ、1点も奪えず、試合は終盤へ。

0-1で迎えた8回、満を持して吉井理人が甲子園のマウンドに初めて上がった。




吉井は昨年秋の近畿大会で、PL学園戦に先発し、完投勝利を挙げていた。
吉井はPLの1番の佐藤をセカンドゴロ、2番の清水をショートゴロ、3番の久保田を空振り三振に斬って取り、三者凡退に抑えた。

箕島は0-1のまま、9回表の攻撃を迎えた。
先頭、1番の江川がカウント0-2まで追い込まれて、ショートゴロに倒れたが、2番の杉山がカウント1-2から榎田のストレートをコンパクトにとらえ、センター前にはじき返した。

1死一塁。尾藤監督はワンチャンスに懸けた。
続く3番のショート岩田にバントを命じたのである。
カウント2-1から岩田は投手前にきっちりバントを決めると、PLのバッテリーに隙が生まれた。

ピッチャー榎田とキャッチャー森がマウンド前で捕球を譲り合い、榎田が慌てて一塁に投じたがこれが悪送球となり、ライトのファウルグラウンドまで転々としたのである。
箕島は、1死二、三塁と大きなチャンスとなった。
一死ながら2、3塁の場面で、打席には4番・ライト南村。
南村はベンチを見るが、尾藤監督からバントのサインはなく、強行策のようだった。
南村はカウント2-1から1球ファウルで粘り、カウント2-2。
榎田はここまですべてストレートで押してきた。
5球目、南村は一転、バントの構えを見せた。
ところが、榎田の変化球に合わず、南村のバットはかすっただけで打球はキャッチャー森の右に転がった。
状況は2死二、三塁に変わった。

続く箕島の5番・泉は前日の明徳戦では殊勲の同点打を放っていた。
泉はカウント1-0から2球目を叩いたが、力ないピッチャーゴロ。
箕島は万事休した。
PL学園を率いた中村順司監督は、1979年の春、準決勝で尾藤監督率いる箕島に敗れ、夏春連覇を阻止され、箕島の優勝を許したが、甲子園では3年越しの再戦で土をつけた。

こうして、16歳の吉井理人にとって、初めての甲子園は終わった。

26歳の佐野元春、1982年にアルバム”SOMEDAY"が大ヒット

1982年のセンバツがPL学園の優勝に終わって約1か月半後、26歳の佐野元春は5月21日に、”SOMEDAY"という3枚目のアルバムをリリースした。
佐野はのちのインタビューで「このアルバムが売れなければ、音楽活動をやめようと思っていた」と語っており、アーティスト生命を懸けた勝負の1枚だった。
"SOMEDAY"はオリコンのアルバムチャートで最高4位を記録するヒットとなった。

佐野はアルバムのヒットをひっさげ、全国40か所を廻るライブツアーを敢行し、ロックミュージシャンとして大成功を収める。
しかし、1983年3月18日、ツアー最終公演となった中野サンプラザで、突如、ニューヨーク行きを公表する。
そして、5月、佐野は単身、ニューヨークへと乗り込んで行った。

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一方、吉井は1983年、高校3年の夏、再び甲子園のマウンドに立った。
1回戦の吉田高校戦、2回戦の駒大岩見沢高校戦を突破し、迎えた3回戦はエース津野浩(のちの日本ハム)を擁する高知商と激突したが、2-8で敗れ、吉井の高校野球は終わった。

佐野がニューヨークのマンハッタンのアパートで生活を始めて半年が経った1983年11月22日、ドラフト会議で吉井は近鉄バファローズから2位指名を受け、入団を果たす。

その後、佐野はニューヨーク生活で体感したサウンドを自らの音楽にとり入れ、1984年4月にアルバム”VISITORS”を発表する。
このアルバムは発売されるや否や、オリコンチャートで1位を記録した。
しかし、ニューヨーク帰りの佐野を待っていたのは、音楽評論家やファンからの酷評だった。
当時、ニューヨークで出会ったヒップホップやラップを取り入れたが、「ガラスのジェネレーション」「SOMEDAY」のようなサウンドを期待していた佐野のファンには当初、受け入れられなかったのだ。

一方、吉井もプロ入りして3年は一軍での登板がわずか4試合と、雌伏の時を経ていた。

吉井が4年目の1987年8月18日、対南海ホークス14回戦(藤井寺球場)、リリーフとして登板、6回1/3を3失点に抑え、プロ初勝利を挙げた。
翌1988年、リリーバーとして50試合に登板、防御率2.69、10勝24セーブを挙げて、最優秀救援投手のタイトルを獲得して大ブレイクを果たすが、チームは、あの「10・19」で優勝を逃した。
しかし、吉井は1989年も、5勝5敗20セーブ、防御率2.99の成績で、近鉄のリーグ優勝に貢献する。


佐野元春と吉井理人の出会い

吉井理人が投手として成長を遂げる間、佐野元春もロックミュージシャンとしての地歩と人気を固めていた。

吉井が佐野に会ったのは1990年、大阪城ホールのコンサートで、終演後に当時、近鉄のチームメイトだった野茂英雄、佐野慈紀とともに佐野の楽屋を訪ねたという。

佐野と野茂は1992年にラジオ番組で共演を果たしており、1995年、ロサンゼルス・ドジャースに移籍した野茂英雄が登場するTVCMのために、佐野は「経験の唄」という曲を書き下ろしているが、もともと野茂に佐野元春の音楽を紹介したのは吉井である。

吉井はトレードでヤクルトスワローズに移った後、1997年オフ、NPB史上初のFA権行使によるMLB移籍を果たし、ニューヨーク・メッツと契約する。

佐野元春に遅れること15年、吉井理人もニューヨーカーの一員となるのである。
吉井はニューヨークの地で聴いた"VISITORS"は最高だった、と述懐している。

2000年、大阪のテレビ局・朝日放送(ABC)の新春特番で、吉井は野茂と共に佐野元春と鼎談した。
吉井は佐野からプレゼントされたギターで、ビートルズの「ブラックバード」を弾いたという。

佐野は今年5月に68歳を迎えるが、いまだ精力的に音楽活動を続けている。
一方の吉井も今年4月で59歳を迎えるが、指揮官として2年目を迎える今季、マリーンズ優勝という"SOMEDAY"を信じるファンの期待に応えることはできるだろうか。


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