【1959年4月26日】王貞治にプロ1号ホームランを献上したのは誰だ?


いまから62年前の今日、1959年4月26日は、王貞治がプロ1号ホームランを放った日である。

1978年9月3日に王が756号ホームランを放った時の映像は繰り返し、繰り返し、流されたこともあり、打った相手は、ヤクルトスワローズの鈴木康二朗であることはあまりにも有名である。

では、王貞治がプロに入って最初のホームランを放った投手は誰だったのか?


王貞治、センバツ優勝投手も、3年夏に5季連続甲子園出場を逃し、プロ入りを決意

王貞治は、春のセンバツ甲子園の優勝投手という勲章を引っさげ、1958年オフの10月に、巨人軍に入団した。
その2か月前、高校3年生の夏、王は神宮球場のマウンドで茫然と立ち尽くしていた。8月3日、神宮球場で行われた東京都予選の決勝戦、早稲田実業対明治戦は延長11回を終えて、1-1の同点。早実の主将兼「背番号1」のエース・王貞治はここまで一人で投げていた。
そして、延長12回表、早実は4点を奪い、王にとって5季連続となる甲子園行きまであとアウト3つまで来た。

だが、ここから王と早実の命運は暗転した。
王は明治打線の驚異的な粘りにあい、一挙、5点を奪われ、サヨナラ負け。
最後の夏に甲子園行きを逃したことで、王の運命は変わった。

王は1年生夏から4季連続甲子園出場、特に2年生のセンバツでは利き腕の中指の爪を割りながら決勝戦まで4試合連続完投、うち3試合連続完封で優勝投手になり、夏には初戦の寝屋川戦で延長11回を一人で投げ切り、ノーヒットノーランを記録した。早実は春夏連覇こそ逃したものの、王は甲子園のスターになっていた。

王はそれまで、高校卒業後は早稲田大学への進学を予定していたが、一転、プロ入りを考えた。数球団が王の獲得をもくろみ、特に読売ジャイアンツと大阪タイガースが激しい争奪戦を繰り広げたが、最終的に、巨人が王を射止めた。契約金1800万円、年俸144万円、背番号は「1」。1957年に40歳で現役引退した南村不可止が背負っていた番号で、空き番号になっていたこともあるが、王への大きな期待を表すものであった。

打者転向、開幕スタメンも金田正一に2三振


甲子園優勝投手の王だが、一方で大いに不安があった。実は、王の投手としての実力は、甲子園で優勝した2年生でピークを迎えていた。最後の夏の東京都予選でも、先発したのは、サヨナラ負けを喫した最後の決勝の試合だけだった。王は投手としてはプロで通用しないという評価を早々に下されたが、一方で打撃については首脳陣から高い評価を得た。王は高校3年生のセンバツではエースの傍ら、2試合連続ホームラン、そして、高校最後の夏の予選、4番打者として25打数16安打、打率6割4分という成績を残していた。
「打撃の神様」こと川上哲治がオフに現役引退し、ファーストの守備位置が空いていたが、王は当初、オープン戦では外野手として起用された。王は早速、その片鱗を見せ、5本の本塁打を放った(一方、外野手としては難があるとして、ファーストに廻ることになった)
4月11日、後楽園球場で行われた国鉄スワローズとの開幕戦に、「7番・ファースト」で先発出場を果たした。18歳にして、栄光の巨人軍の開幕スタメンの座を掴んだのである。
(今年、ドラフト5位の高卒新人、秋広優人が開幕一軍、スタメンかと騒がれたが、実現していれば、王以来の快挙であった)
対する国鉄の先発は、左腕の金田正一。すでに10年目を迎え、弱小スワローズを支える、球界を代表するエースである。
前年、金田はゴールデンルーキーの長嶋茂雄と開幕戦で対戦し、4打席4三振を奪ったことはあまりに有名だが、王のプロ初対戦の投手も、金田であった。
王は金田との初対戦、2打数2三振を喫した。1四球を選ぶのがやっとであった。

そこから王の試練の道が始まった。
オープン戦では打球がスタンドインしていたにもかかわらず、シーズンが開幕すると、来る日も来る日も、王のバットは空を切った。先発したすべての試合でノーヒットが続き、いつしか、ファンからは「王、王、三振王!」とやじられるようになったという。

1959年4月26日、対国鉄戦、「因縁の相手」・村田元一と対戦


ついに、10試合、24打席ノーヒットで4月26日を迎えた。
その日の対戦は開幕戦を戦った国鉄とのダブルヘッダーだった。
その第2試合、国鉄の先発は、村田元一、プロ3年目の右腕である。
村田は前年、高卒2年目ながら、エースの金田を凌ぐ62試合、41試合に先発し、15勝22敗、防御率2.92という成績を挙げていた。
そして、この村田は王と少なからぬ因縁があった。

王貞治は早稲田実業に入学してわずか2か月で「5番・レフト」でレギュラーを掴み、夏の東京都予選に出場した。
早実は順調に勝ち進み、準決勝で明治高校と対戦した。この明治高校のエースこそが、3年生の村田元一であった。
この大事な一戦、早実・宮井勝成監督は3年生エースの大井孝夫ではなく、1年生の王を抜擢した。王は期待に応え、2回に1点を失ったものの、それ以降、失点を許さず、先輩の大井のリリーフを仰いだが、2-1で勝利した。村田は1回、2回に1点づつ失った以降、早実打線をゼロに抑えたが、あと1点が遠かった。村田は、甲子園への夢を断たれた。
一方の王は1年生ながら甲子園のマウンドを踏んだ(結果は2回戦で敗戦)。

その後、村田は国鉄に入団した。その後を追うようにプロ入りしたのが王であった。

開幕から26打席ノーヒット、水原監督の決断は

村田はその日、好投を続けていた。巨人打線を6回まで無失点に抑えていた。だが、味方打線も、巨人先発の伊藤芳明に無得点に抑えられていた。
巨人は7回、6番の坂崎一彦がショートゴロエラーで出塁し、二死一塁で、8番の王に打席が廻った。王はここまで2打数ノーヒット、開幕からは26打席でノーヒットが続いていた。水原茂監督の脳裏には、王に代打を出す選択肢もよぎった。だが、そのまま、打席に王を送った。
村田と王は、3年の月日、18.44mの距離を挟んで、再び対峙することになった。
王は村田に1ボール、2ストライクと追い込まれた。4球目、村田は内角低めに変化球を投じた。王はそのボールを捉えると、打球はライトにグングン伸び、スタンドの最前列に飛び込んだ。
王が呪縛から解き放たれ、プロとしての一歩をようやく踏み出した瞬間だった。
その瞬間を誰よりも喜び、王が三塁ベースを廻る時、三塁コーチボックスでいちばん最初に出迎えてくれたのは、王を辛抱強く起用し続けた水原茂監督その人だった。その試合、王の一発で、巨人は2-0で勝利した。
一方、それまで好投してきた村田は、伏兵の王の一撃に沈んだ。

高卒新人・王貞治、打率.161、7本塁打、25打点、72三振でシーズン終了

しかし、その後、王は「三振王」に逆戻りし、5月6日を最後にスタメンを外されてしまう。王が再び、先発ラインアップに戻るのはそれから1か月後、6月4日の広島戦(札幌)からであった。
その翌日6月5日の国鉄戦(後楽園)、王は再び、先発の村田と対戦し、2号ホームランを放った(その8年後、王に通算300号ホームランを献上したのも村田である)。そして、6月25日、天覧試合となった阪神戦(後楽園)で、長嶋茂雄の劇的なサヨナラホームランの前に、王も小山正明から同点となるホームラン(4号)を打っている(これが初のONアベックホームラン)。
だが、それ以外は特に目立った活躍もなく、結局、王のプロ1年目のシーズンは、打率.161、7本塁打、25打点に終わった。222打席に立ち、三振は72に上った。実に3打席に1つは三振を喫していたことになる。


王が、打撃コーチの荒川博と二人三脚で「一本足打法」に取り組み、38本塁打を放って、セ・リーグのホームラン王の座を掴むのはプロ4年目、22歳のシーズンであった。

王貞治にプロ1号を献上した村田元一はスワローズ史上4位の118勝

一方、村田元一は、金田正一に次ぐエースとして「江戸っ子ゲンちゃん」というあだ名と共に人気を博した。1969年のオフ、31歳の若さで引退したが、13年の現役生活で6度の二桁勝利、通算118勝140敗、防御率3.05という成績であった。村田が積み重ねた勝利数は、スワローズ(アトムズを含む)の歴史にあって、金田正一(353勝)、松岡弘(191勝)、石川雅規(173勝)に次いで堂々、歴代4位である。


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