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捨ててこそ空也  梓澤要著 その三

二の続き

七月夏安居という行を終えて山を下りた。弟子たちも道場に来る在家も、変わらずにいたが、凶作で飢えた民が京に流入し、都大路で昼日中追剝に襲われる。この市堂に難民をどれだけ受け入れられるのか、考えると見通しがたたない、天変地異、飢饉、疫病、民の苦しみは絶えない、仏の慈悲をとき、心の安寧を教えても、今は役に立たない、何が必要か、何を求められているか人々は、空也は懸命に模索して、十一面観音像と守護諸尊像の造立、大般若経六百巻の書写、いずれも大事業を自分に課した。市堂はすでに手狭で、入りきれない信徒たちが溢れている。道場がもう一つ造る。これといった土地が見つからなかった。不意に脳裏に閃く、庶民の骸を野棄にする鴨川の東側辺り、人家はほとんどなかった。草ぼうぼうの寂しい原っぱ、人呼んで髑髏原。なぜ今まで思いつかなかったか、考えれば死者の菩提を弔い、生きとし生ける者を救わんとする所、これほどふさわしい場所はない。発願から一年の秋、念願の十一面観音像が完成された、併せて髑髏原の道場も何とか出来た。まだ大般若経がまだまだこれからだ、翌々年の春に宮中では、盛大な催し物が行われたが、宮中を一歩出れば異変や怪異が起こっている。夏から秋にかけて雨が少なく、雨乞いの祈禱をしているが効果なく、内裏から火の手が上がった、紫宸殿や清涼殿などの御殿がことごとく、焼け落ちたが幸いにも帝や后方は無事であった。初めての御所焼失に朝廷も民も動揺し、将門の子がやってくるという噂が、広まったりした。次に何かが起これば、今度は道真の怨霊のしわざにされる。大般若経の書写が十年たったのに遅々として進まづ、周りがうみ始めている。空也は昼は勧進のために貴家の邸を尋ね歩き、市に立って喜捨を求める。筆を持つのは雨の日か夜。見かねた周りが書写は上人様一人でなさらなければいけないのですか、書写も皆で分け合ってしてはいけないのですか、そのほうが皆の滅罪と功徳を積むことになりましょうか。言われて空也は一人でやることに意味があると考えていたが、それは一人よがりの我執と気が付いた。そして書ける者に書いてもらい、発願の意味が皆の中にはっきりとした、こうして書写は終わりました。応和三年完成供養会を開くことができる。準備に追われる中、宮中へ頭中将藤原これただを訪ねた。群衆が集まる大がかりな催しをする場合は前に許可がいる。すでに申請して許可は下りたが、公卿たちの列席は問題ないのか、確認と当日の資金の勧進だ、参内が、叶ったのは天台宗の僧の肩書と、左大臣実頼の口添えが大きかった。父醍醐帝の崩御を聞き、葬儀の場に我を忘れて乗り込んだ時以来、足を踏み入れたことはない。宮廷から追い出され存在さえ闇に葬られ、自ら失踪した廃れ皇子の空也、実頼の勧める帝の前に出るのは毅然と謝絶した。これただに対面した。大般若経教養会は帝のお耳に入っており、格別の思し召しがおありのようじゃと、尊大な口調でいい、内裏の再建で費用がかさんでと、これただは暗に喜捨の依頼を拒否している。しかし、数日後宮中内給所から銭十貫文が届いた。ここの銭は帝の私的な行事の財源、管轄するのはこれただ、あの時これただはひどく不満げだったのは、帝自身の意思でこれただに、命じたのだろうと受け取った。供養会の日は朝から晴れた、会場の鴨川河川敷には、群衆が集まって来て、それぞれに好きなところに陣取っている。この日のために、釈尊が大般若経を説いた最後のところとされる竹林精舎に見立てて宝殿を建て、横には白い幄舎が並び、中にはすでに上郷達が着席して法会の開始を待っている。左大臣実頼以下、三公九郷の半数以上が宮中の法華十講を欠席してやっきた。宝殿の後方には多くの牛車が並び、御簾の下から、色とりどりの衣を出して貴家の女人の方々が姸をきそっている、加茂祭や斎王行列を見物のために、出る以上の牛車が集まっていた。管弦の音色とともに、美しく飾り立てられた龍頭鶏首の船が一艘上流と下流から、経巻を納めた櫃を乗せて進んできた。数多の屍が打ち捨てられる、川原、髑髏原に、浄土さながらの、美しく厳かな光景を表したい、空也の願ったとおりの光景が目前にあった。船には楽人たちが乗り込んで雅楽を奏でる、その中を浄衣に身をんだ弟子たちが、船から櫃を運び宝殿に運んだ。経典の山の前に三善道統が進んで、空也の文案をもとに起草した格調い、供養願文を読み上げた。かの人は市堂の頃からの空也の良き理解者、いずれ大学頭に任じられる文人。終わると大般若経が僧たちに配られた、六百人の僧たちは畿内の寺々から集まって来てくれた。祇園八坂寺の高僧も、一斉に読誦が始まった。六百人の唱える声が混じり合うと、一つになり.大きなうねりとなり、響き広がっていった。この大般若経の功徳により、すべての生者の罪が消えて、苦しみが除かれ、死者の魂を鎮め、皆ともに仏の世界へ、読経の力でこの国を浄め鎮めるために、空也は心から念じて聞いていた。読経が終ると空也は宝殿の端に出て、聴衆にはなしかけた。説法が終ると、遅い中食川原で大量の飯を炊き込き、青菜の漬物を添えてふるまった。民や僧侶や乞食もみんな、一緒に列に並んでお椀を受け取り、思い思いの場所に座り、川風を身に受けながら食していた。日が落ちて薄暗くなると、火のついた蠟燭を手にして、参集者が皆列をなして宝殿に進み、仏前に献じた。川原に設けた燭台にも火がともされ、法会の終わりをかざる万燈会、死者供養の意味、誰もが平等に仏を供養するのを、示したはじめての催しだ。幾多の光が揺らめき一つになり、光の帯が川面を照らす、人々は初めて見る幻想的な光景に息を吞み見つめて、南無阿弥陀仏と夜が更けるまで唱えた。数百のうねる声、皆高揚した顔で大声で唱えている。そのうちに一人二人と立ち上がり[なーむ阿弥陀、なーんまいだ]と足を上げ、手を挙げて謳うように、唱え始めた。それにつられて女子供が立ち上がり、見る見るうちに大きな輪になり、顔を見交わし笑いさざめき踊っている。男も女も年寄皆、たがいに腕をくんで笑いあう。無心にその一瞬を生き命を燃やす、無数の揺らめく蠟燭の光の中で、空也も踊りの中に入っていった。それまでは貴族のためだけの仏教だと、財物を寺に寄進すれば救われると、思われていた。そうではなく空也は、難しいことではなく、ただ、南無阿弥陀仏と言って、口で称えるだけで、どんな者にも、救いの手が差し伸べられる、だからこそ南無阿弥陀仏と称えて、悲しみ苦しんでいる時、おすがりしたらよい、と説いた。高貴な身分を捨て、葛藤を乗り越え、貧しい人々と共に生きた。親鸞聖人や一遍上人の先駆者。[捨ててこそ空也]この歴史小説に、魅入られてしまい、長々と本文を引用してまで書いていました。機会がございましたら、お読みになってはいかが、面白く中身の濃い物語でした。空也にえにしがあり、そして生きた時代の帝方、五十九代宇多祖父、醍醐父、朱雀弟、村上弟、冷泉、円融。空也上人没後二百五十年後に、鎌倉時代六波羅蜜寺の依頼により、仏師運慶の四男康勝が、伝承により、念仏を唱えて市中を歩む上人の姿を表現した。

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