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241:大森荘蔵『新視覚新論』を読みながら考える07──6章 過去透視と脳透視

脳が予測に基づいて外界を認知・行為していくことを前提にして,大森荘蔵『新視覚新論』を読み進めていきながら,ヒト以上の存在として情報を考え,インターフェイスのことなどを考えいきたい.

このテキストは,大森の『新視覚新論』の読解ではなく,この本を手掛かりにして,今の自分の考えをまとめていきたいと考えている.なので,私の考えが先で,その後ろに,その考えを書くことになった大森の文章という順番になっている.

引用の出典がないものは全て,大森荘蔵『新視覚新論』Kindle版からである.


6章 過去透視と脳透視

脳が時間差をうまく辻褄合わせをしているように感じられる.脳に全てを任せすぎのような気もするけれど,脳という人類としては仕様が同じで,個別にカスタマイズされている器官をうまく使って,ヒトの視界における時間はコントロールされている.というか,網膜に入力されるデータには時間に関する情報も含まれているのではないだろうか.しかし,そのように考えてしまうのと,私が生まれる前,人類が誕生する前の情報を受け取っているということにもなってしまう.しかし,それは私にとっての問題であって,脳や情報にとっては関係ないのかもしれない.

しかし私はここでも「実物」解釈が可能であると考える.昨夜見えた閃光は一年遅れの「像」ではなく,一年前の爆発そのものである,と解釈しうるというのである.われわれには過去が文字通り直接に見えているのだ,と.われわれの視覚風景の空間的奥行きは,同時に時間的奥行きでもある,と.このことを光行差の現象を手掛かりにして示すことを試みる.p. 153

予測モデルによる視界の生成と同じことが言われていると考えられるだろうか.私という視点を含んだ予測モデルが私の視野で切り取られて,世界テクスチャの情報とともに視界が生成されていく.この考えを大森の言葉で言い換えると,私は予測モデルを視野で透してみて視界を見るということになるだろうか.網膜からの情報の流れと脳=予測モデルからの情報の流れが合流して,視界が生じる.視界を透して世界を見ている.「透視」と「投射」との違いはこれから書かれることになるが,「透視」だと透し見ている視点が必要になってきて,「投射」だと視点が必要ないというか,視点から投射されているという感じがある.「視点→透し見られる脳→視界→世界」と「投射する脳→視界→世界」という違いだろうか.プロジェクション・サイエンスとの関係を考えてみてもいいかもしれない.投射と透視は言葉の違いだけかもしれない.

次に,こんどは視覚風景が眼球の内側,視神経から大脳にまで延びていると解釈しうることを示すことを試みる.簡単に言えば,正常な脳や視神経は眼球と同様に(視覚風景では)「透明」なのであり,私にはそれらを「透して」外の風景が見えている,というのである.したがって,脳や視神経に異常が生じれば,白内障その他の眼球異常の場合と同じく,それを「透して」見えている外部風景にも異常が生じる.もしこの解釈が正しければ,脳変化が外部知覚を変化させる方式を,「投射」と呼ばれる不可解な因果作用だとする必要はなくなる.手前のものを透して向うが見えるとき,手前のものが例えば白濁すれば,それがとりもなおさず向う側が白濁することである,という同一関係であると解しうるからである.見える,とは外部から眼を通って脳へ,という因果系列を逆方向に「[[透視]]」することなのである.p. 154

予測モデルを透して過去を見る.予測モデルには過去の利益が詰まっているというか,過去のデータしかないので,予測モデルを透して世界を見るということは予測モデルを透して過去を見ることになって,その過去に現在の世界テクスチャのデータが適用されて,予測モデルが更新されていくプロセスにおいて,私は世界を認知して,行為をしていく.

こうして,「像」解釈を拒否して「実物」解釈をとるとき,脳を透して過去を見る,という図柄が浮びでてくる.そしてこの図柄が,脳変化がいかにして外部知覚の変化を生じるのか,という生理学年来の疑問に今までとは全く違った答を与えることを願うのである.p. 154

1 石はどこから落ち始めたか

この節はいくら読んでもわからなかった.過去の私は次のようなメモを残している.「ディスプレイのXY座標は「時刻とは独立に空間位置を指定できない」の例として捉えることができる.時刻が空間に残っている.その座標は最後の行為が起こった時刻を保持している.」このメモはカーソルを前提にして書かれている.行為を終えた座標にカーソルが残り続けることと,大森が書いていることをどうにか結びつけたいと思っていたのだろう.しかし,カーソルの座標系と私が存在している座標系は一緒ではない.カーソルの座標系と私の座標系とを連動させるためには何が必要だろうかということを考える必要があるのではないだろうか.いや二つの座標系を持ってはいけなくて,一つの座標系にならないといけない.しかし,カーソルの座標と私の座標と外れている.カーソルの視点と私の視点とはズレている.

それゆえ,石が落ちて後,石はどこから落ちたかという問に,「座標内同一」位置をもって答えないとすれば,ただ「石の落下開始時刻」の位置を指示する他はない.この時刻指定抜きにはその位置指定は不可能なのである.その位置指定をそれと「同一」な後刻の位置をもってすることは再び「座標内同一」に舞い戻ることである.結局,空間的位置の指定には時刻の指定が不可欠なのである.その意味で空間は時間と独立ではないのである.このことは相対性理論での,「[[同時性]]」が空間座標系に依存するということとは関連はあるが別のことである.それは相対論以前のより根本的な時空の関係なのである.時刻とは独立に空間位置を指定できない,ということなのである.p. 159

過去から現在が決まるではなくて,現在を通して過去を決めるということが興味深い.現在から過去を決めるというのは,実感としてはあっている気がする.後から振り返ればということで意味を決定していくという感じ.私という視点は現在世界点 Q( x, y, z, t 0)にあり続けるのは確かだと考えられる.現在世界点 Q( x, y, z, t 0)から生成される視界に現われているどれかの現われに注意を向けると,その現われに関する過去世界点 P( x, y, z, t)が予測される.過去を予測するというのは変だ.注意を向けた現われは注意を向ける前から,視界に現われとして生成されたときに既に過去世界点 P( x, y, z, t)を含めて予測された状態で現われている.視界の現われから考えると現われは過去とともにあるとされるが,予測モデルから考えると現われは予測された未来である.私は予測モデルにはアクセスできず,視界にはアクセスできるから,現われは過去世界点 P( x, y, z, t)とともにあるが,それは私と世界との相互作用によって形成された予測モデルが少し前に予測した現われでもある.私の視界に少し前に予測されたデータに基づいた現れが生成され続けている.世界と現われとの間にはほんの少しのズレがあるが,そのズレは生まれてから死ぬまで意識することはできない.私は生まれてから死ぬまで,ずっと「現在世界点 Q( x, y, z, t 0)を通して過去世界点 P( x, y, z, t)を指示」し続けているが,このこともまた意識されない.それは,「現在世界点 Q( x, y, z, t 0)」というものが「過去世界点 P( x, y, z, t)」から予測されたものだからである.しかし,このことは現在世界点 Q( x, y, z, t 0)を特権視するように設計された意識から隠蔽されている.いや,現在世界点 Q( x, y, z, t 0)で得た世界テクスチャデータと,予測モデルが過去世界点 P( x, y, z, t)から予測したデータによって視界が生成されているとすると,現在世界点 Q( x, y, z, t 0)と過去世界点 P( x, y, z, t)との調整する場所が視界ということにならないだろうか.視界という高精細な視覚データを生成して,それで意識を覆ってし待って,それが現在データと過去からの予測データから生成された「現在」からほんの少しズレていることを隠しているのではないだろうか.

こうして,石の落下位置を指示するということは,現在世界点 Q( x, y, z, t 0)を通して過去世界点 P( x, y, z, t)を指示することなのである.石はどこから落ち始めたか?  他でもない,あそこに見える筒先が tにおいてあった場所からである.このときもちろんどの電車の筒先を用いてもよい.すべてが同一の世界点を指示するからである.p. 161

2 光行差の「実物」解釈

虚像が意識収容所に虚住させられるというのが面白い.宇宙で起きた爆発で発せられた光子を地球上の私の網膜が受け取る.時間的にズレているが,私の網膜が光子が受けとって,はじめて,私の認知プロセスが起動して,閃光と爆発とが生成される.宇宙の知識を持つ前から,ヒトはそのように星を認知してきたはずである.予測モデルと網膜からのデートとから生成されたものが「実物」であり,それは生成されたときにその位置が同定されるとすると,そこには像が現われる余地はないのではないだろうか.科学的に世界を見るということは,自分の視界を超えて,世界を見るということになってくるのではないだろうか.それは視界の実物を超えて,世界を虚像的に見る.あるいは,世界を情報として見るということなのかもしれない.世界の実物は私のあなたの視界にのみ現われるものであると考えてみたい.

こうして通常解釈は好むと好まざるとにかかわらず,「像」解釈にならざるをえないのである.そしてこの「像」解釈が,前章に検討した様々な光学的虚像においての「像」解釈と同根であることは見てとりやすい.そこではプリズムやレンズ,あるいはコップの中の水や砂漠の熱気や陽炎,等々を透して見える風物,そして鏡の中の鏡像,それらが「実物」(全く常識的な意味での事物)と「位置」を異にする,ということから「像」解釈が生じてきたのである.それと平行的にここでは爆発と閃光とが世界点を異にする,ということから「像」解釈に導かれざるをえなくなったのである.そして光学的虚像に対していわば時間的虚像,それが閃光の身分なのである.そしてこの二種類の虚像はともに,虚像という身分からして「実」世界に住むことができず,意識収容所に虚住させられることになる.p. 164

「「同一の爆発」を「同一の閃光」として見た」ということはわかるが,「その閃光の世界点もまた唯一つの世界点,すなわち複数ではなく単数の世界点なのである」というのがわからない.私とあなたとがいる座標は異なる.しかし,「同一の閃光」を見たときには,私とあなたの座標は同一となり,単数の世界点となっている.こんなふうに考えられるだろうか.私が閃光を見るとき,私は閃光の方を向いている.頭だけ向ける時もあれば,身体をしっかりと閃光に向けている時もある.閃光に対して,私の網膜はほぼ正対している.この意味で「同一の閃光」をほぼ正対した網膜で捉えるということで,私とあなたの座標は単数の世界点になる.「同一の閃光」の視界のほぼ真ん中で生成されるという点で,私とあなたの世界点は同一のものになる.視界に現われるものを「実物」と考えるならば,視界における「同一の閃光」の位置が世界点となるのではないだろうか.地球中のすべての人が視界の真ん中に現われている「同一の閃光」を見ているとき,すべての人は同一の世界点にいる.予測モデルはおそらくそのような状況を体験したことがないので,このことを想像するのは難しいのかもしれない.地球上のどこで見ていようが,視界の真ん中にそれが見えているとき,それは「同一の実物」なのである.

上述の通常解釈すなわち「像」解釈では,各観測者に見えた閃光を,それが見えた時刻 t0での,それぞれの筒先が在る世界点に同定する.だが閃光が見えたその時点では筒先はバラバラの位置にある.だからそれらは観測者の数だけ異なる複数の世界点である.しかし一方,彼らはすべて「同一の爆発」を見たのである.その唯一つの爆発の多数の閃光「像」がバラバラの位置に見える,というのである.それに対して「実物」解釈は,そのような「像」をすべて抹殺し消去する.爆発とは知覚的には閃光そのものに他ならない,と考えるからである.すなわち,閃光は爆発そのものである,と.だから観測者はすべて「同一の爆発」を「同一の閃光」として見たのである.したがって,その閃光の世界点もまた唯一つの世界点,すなわち複数ではなく単数の世界点なのである.p. 165

3 視覚風景の時空透視構造

「「今現在見えている」というのはわれわれ熟知の,というより,一刻といえどもそれから離れることのできないわれわれの知覚体験の表現なのである」と書かれるのが当然のように感じられてくるし,私も大森のように考える.私の視界に「今現在見えている」のは,私と世界との相互作用で常にアップデートされ続ける予測モデルと網膜が今現在捉えた世界テクスチャとを組み合わせた現われの集合体である.視界に現われている何かがいつ生じたのかはわからないが,そこから発した光が網膜に届いたのはまさに今であり,その今の情報は,私と世界との相互作用の「過去」そのものとも言える予測モデルとの相互作用によって,はじめて視界をつくる.視界には今と過去とが重なり合っている.視界は過去のデータも今のデータも関係なく使われて,生成されている.予測モデルは過去のデータから視界に現われているものを「実物」にしていくし,網膜からの世界テクスチャデータもまた視界に現われているものをより「実物」としていくために使われる.ミリセカンドという単位で「実物」は実物からはズレているかもしれないが,それは問題にならない.ヒトはそのズレを認知することはできないのだから.だとすると,「実物」はミリセカンドズレた「像」となるのか.しかし,そのズレは生まれてから死ぬまで認知することができないし,行為にも問題がないのだから,ズレを抱えていようと,ヒトにとっては視界に現われるものの集合が常に「実物」として認知されて,行為の対象となっていくのである.

この時間的虚像という「像」解釈は一見不可避な結論のごとくにみえる.しかしそうではない.光学的虚像の場合と同様に,ここでも「実物」解釈が可能なのである.ただそれには「像」解釈の前提となった,「現在見えているものはすべて現在の何ものかである」という思い込みを打ち破らなければならない.そこで注意深く,「過去の事件が今現在見えている」ということを検討してみるならば,そこに何らの論理的矛盾も語義矛盾も見出すことはできないのに気付くだろう.それは,「過去の事件を今現在想起している」ということに何らの矛盾がないのと同様なのである.「今現在見えている」というのはわれわれ熟知の,というより,一刻といえどもそれから離れることのできないわれわれの知覚体験の表現なのである.覚めている限り,(瞼の裏を含めて)何かが見えている,その現在体験である.この視覚体験は,これまた今現在の体験である想起,予期,想像,といった体験とはその体験様式を異にする.その相違もまたわれわれ熟知の端的な相違である.しかし,この体験様式で体験されている事件の「時刻」が,現在か過去か未来かということは,この体験様式だけによっては決定されてはいないのである.この「時刻」はまだ,いわば開かれており,それはわれわれの経験全体の整合的な時刻配列によって,したがって当然,各時期文化における科学的知識によって決定されるのである.この時刻配列の中で,(視覚をはじめとする)知覚体験において知覚され,想起体験において想起され,予期(また願望)体験において予期される事件の時刻が決定されるのである.p. 170

「現在見えているものは過去」が視界を形成している.それはミリセカンド,秒,分,時,年単位の過去の光が網膜に届けられるのであり,様々な過去の光と予測モデルという過去の履歴の集合体とを組み合わせて,視界は形成される.網膜には過去の光が届き,過去の光はさらに過去のデータ=予測モデルを透して,視界としてレンダリングされていく.網膜に今届いた光がすでに過去の集合体であり,その過去の光が予測モデルと合流することで,現在の視界をつくり出す.だから,視界は光が網膜に届いた瞬間からほんの少し遅れて生成されている.同時に,視界は予測モデルによってほんの少し先が予測されてもいる.過去の方向にも未来の方向にもズレて視界は生成されてるが,私は問題なく世界を認知し行為している.だから,私は私の視界を現在だと確信して認知し,行為

しかしそれとともに「現在見えているものは過去」というのもまた可能な一つの時刻配列なのである.過去の事件が今現在,視覚という様式で体験される,ということに何らの矛盾もないからである.そしてそれは,過去が「想起」様式で体験されるのとは様式を全く異にする体験なのである.p. 171

「見透し(see through)」と「遮蔽」とで世界を考えると,Photoshopなどが持つレイヤー構造はヒトが世界を見透かしている方法を意識することを可能にしたものと言えるではないだろうか.無色透明のレイヤーを操作して,現われを変化させていくということは,コンピュータがはじめて可能にしたのではなく,ヒトが世界を見ているときに世界の側で起きていたことであり,その世界に重ねられる予測モデルというかたちでヒトの認知プロセスでも起こっていたことなのではないだろうか.私を覆い続ける高精細な視界は無数のレイヤーを通過した様々な過去の光が世界テクスチャのレイヤーとしてあり,そこに私と世界との相互作用とで更新され続ける予測モデルがつくる視界形成のためのレイヤーが重ね合わされて形成される.

視覚風景の根本的性質として空間的奥行きの見透しがあることには誰も異存がないであろう.透明な空気,濁った水,霧や煙,色ガラスや着色セロファン,こうした透明,半透明な事物を「透して」向うのものが見える.一方,不透明な事物はその裏側を「遮蔽」する.この「見透し(see through)」と「遮蔽」こそ三次元連続性及び視点をもつ,ということと共にわれわれの視覚風景の根本的特性である.

そして「実物」解釈はそれがまた時間的見透しでもあるというのである.空間的奥行きはまた時間的奥行きでもある,と.光差 1時間のところで 1時間前に爆発が起きた.それから私の眼に向う光の旅程の半ばのところ,光差 30分のところで 30分前に一瞬宇宙霧が発生した.そして私は今,爆発の閃光を宇宙霧を「透して」見る.私は 30分前の過去(宇宙霧)を「透して」 1時間前の過去(爆発)を見ているのである.この「見透し線」は一つの方角の歴史を見透しているのだから「歴史透視線」と呼ぶことも異様ではない.また視覚風景野の全体についていうならば,それは時空的に無限におよぶ四次元世界風景なのである.われわれは常時,四次元世界を見ているのである.ただし或る方向の歴史透視線上に不透明体があれば,それ以遠(時空的以遠)は見えない.その透視線はそこで行きどまる.p. 176

 4 脳透視

以前読んだとき,私は「瞼はその「向う側」を「遮蔽」する」という記述に全く関心がなかった.けれど,今の私は視界の情報をコントロールするのに瞼という物理的要素がとても重要だと考えているので,大森の瞼に関する記述が刺激的である.「視覚風景の透視構造において瞼は外部風景よりも手前にある」,ここも考えてみれば不思議な感じがする.瞼は感覚的には外部風景の一部であり,かつ,私の身体の一部であるという感じで視覚風景に現われている.けれど,大森は瞼は外部風景の一部ではなく,それよりも手前にあるものだとする.瞼は外部風景の縁にあるといえるとともに,外部風景そのものを遮蔽できる存在である.世界からの情報を遮蔽する最後の存在として瞼がある.瞼を閉じると,世界からの情報は単調なものに変換されて,網膜に届く.瞼は世界=向こう側の情報を遮蔽するわけで白,変換器として機能している.瞼は世界そのものを変化させないが,視界を変化させる変換器である.その意味で,世界の最前面にあり,大森が脳透視と呼ぶプロセスの最背面にあるといえる.このように考えていくと,大森が最後に指摘するように「私」という存在があやふやになってくる感じがある.このテキストを書いているときに,あやふやな感じを強く感じたのだが,今はその感じがなくなってしまった.私=人ということがなくても,脳からの脳透視と世界からの透視というかフィルター=レイヤーの重なりという一連の直線的プロセスにおいて,私というのはどこにいるのであろうか.瞼にかすかに私が残っている感じがしなくもない.

視覚風景の根本的性格が「見透し」,時間空間的見透し,であることは眼球の外の外部風景にとどまるものではない.瞼の内側もまたこの見透し風景の一部である.瞼を半ば閉じれば瞼の裏が見え,時にまつ毛が見えるだろう.それが如何にボンヤリと見えようとそれは問題ではない.瞼はその「向う側」を「遮蔽」する.すなわちそれは「向う側」の外部風景よりも内側の手前にある.つまり視覚風景の透視構造において瞼は外部風景よりも手前にあるのである.だが瞼が透視風景の手前側の底であるのではない.水晶体が白濁する白内障にあっては外部風景(瞼を含めて)が霞んで見える.明らかに,われわれは水晶体を「見透し」てその向うをみているのである.ただ健康な眼ではそれは清澄な空気と同じく「透明」なのである.だが水晶体が底なのではない.その背後にある硝子体をもまたわれわれは「見透」している.硝子体の異常は外部風景の異常を伴うからである.自分の眼は見ることができない,とよく言われるがそれは大間違いである.私は常時私の眼のど真中を見透しているのである.p. 180

「誰も何ものも「見透して」いはしない.そうではなく,ただ私の視覚風景の構造が,…… →脳 →視神経 →網膜 →眼球 →近景 →中景 →遠景 →……,という「見透し」になっているという,ただそのことなのである」,ここを読むと頭がくらくらしてくる.私という存在の基盤がぐらぐらと揺らいでいく感じがある.私は世界の一部であって,そのことだけをもって,「見透し」を行っている.「見透し」をしているから,世界の一部であるとも言える.世界があり,見透かしがあり,私がいる.世界から私がいる場への情報の流れがあって,私がいる場から世界への見透しの流れがある.私と世界との相互作用で生成され,更新を続ける予測モデルの制御を私はできない.「…… →脳 →視神経 →網膜 →眼球 →」あたりは予測モデルの一部であり,「近景 →中景 →遠景 →……」は世界の一部である.私はどこにもいない.

ここで,視神経や大脳を「見透す」といっても,誰かが,例えば脳内の小人が「見透し」ているのではない.誰も何ものも「見透して」いはしない.そうではなく,ただ私の視覚風景の構造が,…… →脳 →視神経 →網膜 →眼球 →近景 →中景 →遠景 →……,という「見透し」になっているという,ただそのことなのである.そしてこの矢印が「見透し線」の概略の遠近順序を示している.その「見透し線」は天文学的遠方では「直線」ではなく螺線であることを前節で示した.だが日常的地上風景にあっては実際的には「直線」とみなしうる(ただし前章に検討した光学的異常を除いて).だが眼球に達すれば周知の如くに屈折するのだからもちろん「直線」ではない.更にそれが視神経に至れば視神経の形状に沿って曲がり,大脳に至っては分岐や膨張を起こすであろう(その状況は私などの知りうるところではない).だがこの直線でないことと,大脳や視神経をも貫く見透し線が「見透し的にまっすぐ」であることとの間に何の矛盾もないことは,前節および前章の検討によって明らかであると思う.p. 183

脳は因果系列を逆方向に予測=透視している.脳は予測モデルを透して世界を見て,体験していく.脳の一部が予測モデルを形成し,脳は自らが生成する予測モデルを透して,世界を体験していく.脳はモデルをつくり,世界を体験し,モデルを更新していく.私はそこでの変化に通常は気づくことがない.昨日のように今日が来て,明日が来るように,予測が大きく外れない限りは,何か変化が起こっているということに気づかない.予測通りに世界を体験していくし,予測のように世界を変えていく.脳が損傷した場合は,予測モデルにも欠損が生じるが,それがその時点の予測モデルであり,私は世界を欠損した視界で体験する.

この赤メガネを視神経や脳の視覚領野におきかえても事情は全く同じであることはもはや明らかであろう.ただ赤メガネの場合と違うのは,脳や神経の如何なる変化がすなわち,外部風景の如何なる変化であるのか,それをわれわれは殆ど知らない,ということだけである.正常時には空気と同様に透明な脳が,異常時には何色に見え,どのように歪んで見えるのか(例えば歪んだメガネのように),われわれはあまりにも経験不足なのである.しかし,脳に異常が生じ,それが透明でなくなるとき,それを「透して」見る外部風景に変化が生じることは赤メガネの場合と全く同様,「すなわち」の関係によってである.もはや透明でない脳という前景,それはすなわち,透明な前景の場合とは異なった遠景が見えるということなのである.そして赤メガネの場合と同様にその遠景もまた「像」ではなくて「実物」なのである.脳変化は外部風景変化の原因であるが因果的原因ではない.私はそれを前景因と呼びたい.p. 184

脳は予測モデルを透して,世界を透視する.「爆発 →光の進行 →眼球 →網膜 →視神経 →脳」は予測モデルに組み込まれていて,爆発の情報がそこにあるとき,予測モデルはその矢印を逆にした「爆発 ←光の進行 ←眼球 ←網膜 ←視神経 ←脳」で爆発を含んだ視界の情報を網膜に送っているし,運動組織にも送っている.世界からの情報と脳からの情報が予測モデルをアップデートし続ける.予測モデルが世界と脳とを媒介し続ける.爆発のような何かの出来事が起こって,それが視界に現れるとき,視界にはそれ以外の出来事が現われている.その全てが予測モデルを媒介にしてリンクされた世界からの情報と脳からの情報とで生成されている.予測モデルが「私」と言えなくないもが,私がアクセスできない情報も予測モデルは保持していると考えられるので,それは「私」をはみ出している.

この前景因,「すなわち」の関係,は因果系列を逆方向に「透視」したものだとみることができる.例えば,爆発 →光の進行 →眼球 →網膜 →視神経 →脳,という因果系列を,今現在という一瞬に「逆透視」したのが今現在の視覚風景である.それゆえ,その系列の一部の変化はすなわち,それより以遠,以前,の系列部分の変化なのである.それゆえ,上の爆発を発端とする因果系列の最後尾の脳変化に更に続けて,……脳 →爆発閃光の知覚,とする必要はないのである.もしそうしたならば,付加された矢印の意味付けに困惑して,身心因果とか投射とかと意味不明の言葉を口走るはめになる.そうしないでただこの系列を逆に「透]」しさえすればいいのである.その遠景に爆発閃光がちゃんと見えているからである.ただその閃光を前節で述べたように過去の爆発そのものだとする「実物」解釈をとらねばならない.因果系列での結果に先行する過去原因を,結果を「透して」この一瞬に見ているのである.p. 185

見透かしを予測理論から考え,その先の風景にまで延長する.延長された風景は,脳が見透かした予測モデルと一致するになっていると考えてみたらどうだろうか.脳が見透かした,予測した予測モデルがそのまま外界と誤差が最小な状態で一致する.一致すると言ってもコピーのように一致するということではない.予測モデルを世界の特徴を保持した情報をアドレス=座標で整理したものだと考えると,今現在の私の視野が捉える世界の特徴を示す世界テクスチャと予測モデル内のアドレスで誤差が最小となるもの同士をリンクさせて,視界を生成していく.予測モデル内のアドレスには視界を形成するオブジェクトのモデルが格納されていて,予測によって活性化しているという変だが,重みづけがされていて,網膜が得たテクスチャがそのリンクされやすくなっていて,そのモデルに適応されやすくなっている.モデルとテクスチャとがリンクしていき,高精細な視界が形成される.予測モデルと世界テクスチャという内外の情報の組み合わせが視界のあり方を決め,それがすなわち私のあり方に他ならないのであり,その視界を「知覚する私」といった余分の私などがあるのではないのである.私は余りものではなく,情報のリンクが次々に成立していく場なのである.

こうしてわれわれの日常の知覚風景の全体は,その時その時の現在に,遙かな星から,街の雑踏から,あるいは皮膚や歯や内臓から,脳に至る因果系列を,逆に脳を透し,神経を透し,あるいは更に空気や霧や真空を透して知覚した風景なのである.それは全宇宙から私に今現在到達した光や空気振動や神経パルスの全行程を逆方向に一瞬に知覚した透知覚風景なのである.
だが透視,透聴,透痛するのは「私」ではない.また他の誰でもなく,また主観とか精神といったものでもない.そのようなものはどこにもありはしないのである.ただそのような世界風景があることそのことがすなわち,私がここにおり,私が生きていることなのである.世界の知覚風景のあり方,それがすなわち私のあり方に他ならない.その知覚風景を「知覚する私」といった余分の私などがあるのではないのである.私は余りものではない.p. 187


カバー画像は「透視」として検索して出てきたものだけれど,図を「こちら」に出っ張っているように見るのではなく,二つの台形が合わさっている平面的な図として見て,重なり合っている長辺の部分を世界から網膜が得るテクスチの線と脳が予測モデルを透視する線と合わさってできる「視界」と考えてみるといいのではないかと思った.


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