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095:「奥行き感」が削がれて,「向こう側」がやってくる

木の一部が金網で輪切りされているのだが,どこか浮遊しているように見える.金網と緑のシートという二つの「レイヤー」によって,物理空間にありながら,ディスプレイに展開されるレイヤーの重なりを表現しているようであった.

実際は金網を超えて伸びた木の枝の前後が切り落とされて,残された部分が金輪網に食い込んでいるだけである.なので,残された木の部分は金網というレイヤーの前後に存在している.この光景を考えていると,「レイヤーの裏側は存在するのか」という疑問を抱いた.この木の場合は,金網の向こう側にいけば,この画像に対して「裏側」から見ることができる.そのとき,木の形は同じだが,違う見え方になる.では,ディスプレイ上のレイヤーだとどうだだろうか.理念上はレイヤーを裏側から見ることはできるし,計算上表現可能である.しかし,実際の視点は常にディスプレイのこちら側にある.この意味では,ディスプレイの向こう側にいけないので,裏側を見ることはできないとも言える.

「裏側」ではなく,「向こう側」に行けるかどうか,「向こう側」を想像できるかと問題なのだろうか.この画像の木は「向こう側」を突如として切り落とされているように見えるが,それは「奥行き」を切り落とした結果,「向こう側」が現れたから,「向こう側」を感じて,「向こう側」という言葉を,私は使うようになり,それゆえに,この光景を興味深いと思ったのだろう.こちら側の視点から突如「奥行き」が削がれて,「向こう側」がやってくる.しかし,実際にはこちら側にある金網に食い込んだ木しかない.でも,こちら側にあった「奥行き」が突如なくなるという感覚が視覚に入り込むことで「向こう側」が生まれ,木はこちら側と向こう側とのあいだにあるように見え出すのではないだろうか.

 「晩年のモネ」はまさにこのレイヤー(「厳密に視覚的な三次元性」)を描き続けた.人が見るものは水面に映った空や雲や木々と,睡蓮だけであるが,両者のあいだに水鏡=レイヤーが出現する.それはデュシャン流に言えば,脳内知覚(「グレイ・マター」)であって「網膜的」ではない.グリーンバーグの純粋視覚的平面とは脳内で生じる,不可視の平面なのだ.「こうして,枠に張られただけのキャンバスでもすでにして1枚の絵として存在する─必ずしも成功した絵ではないが(*2)」.絵画の本質はレイヤーにあるが,それは脳内知覚であるから,見ようと思えば(「感性の高まり」)どこにでも,白いキャンバスにも,見ることができる.ただし,それは観者の脳に100%依存する絵であるから,成功した絵画とは言えない,と.

*2──Clement Greenberg “After Abstract Expressionism” The Collected Essays and Criticism Vol.4 (The University of Chicago Press, 1993), pp.131-132.

このことを考えていたときに清水穰さんのレビューを思い出してので,最後に引用して,次に考えるときのメモとしたい.

というところまで書いて,さらに思いついたことをメモ.私たちの脳内に「レイヤー」を発生させる回路があるとすれば,私たちは「平面」から逃れられない.だとすれば,平面をサーフェイスとその奥のバルクとして捉えることで,これまでとは異なる平面の捉え方ができるのではないだろうか.レイヤーには厚みがあり,それはモノであり,そこには「奥行き」ではなく手前と奥という感じで「向こう側」がある.多分,これが私の今の連載「サーフェイスから透かし見る👓👀🤳」なんだと思う.

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「向こう側」と「奥行き」については以下のnoteを参照.




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