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081:「人間」という人類史レベルと「私」という個人史レベルで「思い出」を振り返る🧐

『我々は人間なのか?』という本に次のように書かれています.

人間であるとは外在化をするということであり,それは脳の中にある思想のように内部にもともと存在するものに由来する行為ではない.外在化をするとは,内部に新たな感覚を作り出す行為なのである.p.56

「外在化」と難しい言葉が使われていますが,これは「道具」に置き換えてみるといいでしょう.私たちは鉛筆やキーボードで文字を書き,電話で遠い場所にいる誰かと話し,Instagramで画像を共有しているように,私たちは多くの「道具」を使って誰かに何かを伝えてきました.そのとき同時に,私たちのなかにあたらしい感覚が生まれています.

今回のレクチャーでは,「人間」という人類史レベルと「私」という個人史レベルでこの当時はあたらしかった感覚を思い返しつつ,そこにある「思い出」を掘り返していきたいと思っています.

ということを,学園の100周年企画関連のレクチャーの導入文として書いた.レクチャーでは文字の誕生からタイプライターの誕生に行って,文字の霊性がどんどんと失われていったという話をしつつ,それに伴って,私たちの「思い出」は変化しただろうかということを問いかけてみたい.「手書き=暖かい」,「タイプライターの延長にあるスマホ=冷たい」という図式があるような感じだけれど,そこで「思い出」に変化はあるのだろうか.

漢字の霊性が失われて平仮名が生まれていき,手書きからキーを押すだけで文字が入力できるようになり,変換を使うことで漢字や絵文字を使うようになっている現代のテキストには全く霊性が残っていないのだろうか? それとも文字入力の記号がつくるあたらしい「霊性」が生まれているのだろうか?

文字を「書く」から「入力」に変化するあいだに「電話で話す」という,身体から声の離脱するという「オカルト」的な出来事があることも考えないといけない.電話で話すという経験があったらこそ,絵文字やLINEのスタンプといった「おしゃべりな」記号が生まれたのではないだろうか.身体から声が離脱し,声にすらならない記号が生まれて,高速にやり取りされる.

レクチャーのタイトルは「声にしないで。文字で伝えて。」なのだけれど,これはポケベルの広告のキャッチコピーからとってきた.身体から離脱して自由に話されていた/放されていた声が失われ,再び,暗号といった「霊性」「魔術」的な要素を持つ文字でのメッセージが生まれた.ポケベルの数字の暗号のコミュニケーションから何が思い出されるのだろうか.そして,ポケベルの数字の暗号に比べると,現在の絵文字やスタンプの方がわかりやすいコミュニケーションになっているのだろうか.

インターネットはあらゆることを共有していくインフラだから,そこではコミュニケーションというよりは「感情の共有」というこれまでとは異なる位相にあるやり取りが生まれているのかもしれない.全人類が絵文字やスタンプで感情を共有していくというユートピアのような,ディストピアのようなことが現在進行形で起こっているのかもしれない.



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