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240:大森荘蔵『新視覚新論』を読みながら考える06──5章 鏡像論

脳が予測に基づいて外界を認知・行為していくことを前提にして,大森荘蔵『新視覚新論』を読み進めていきながら,ヒト以上の存在として情報を考え,インターフェイスのことなどを考えいきたい.

このテキストは,大森の『新視覚新論』の読解ではなく,この本を手掛かりにして,今の自分の考えをまとめていきたいと考えている.なので,私の考えが先で,その後ろに,その考えを書くことになった大森の文章という順番になっている.

引用の出典がないものは全て,大森荘蔵『新視覚新論』Kindle版からである.



5章 鏡像論

「折れた視線」という考え方で,眼の前に映る自分を見ている.視線が反射されて,私の網膜に入ってくる.ここで考えないといけないのは,見るということがどこで生じるのかということかもしれない.私は大森のテキストを読みながら,網膜に光が入ってきたときに見るではなくて,予測モデルからの予測と網膜からの低解像度世界テクスチャとが統合されて,はじめて見るを生じさせる視界が生成されると考えてきた.視線が私から出ているという考えはここにはないが,私から世界へということでは予測モデルからの予測というものがある.これは視線ではないが,私という視点から世界に向けて投射されるものである.この予測モデルとしての視覚世界が世界に投射され,それが鏡で折れて,私の網膜に入ってくる.脳が生成する視覚世界が世界に投射されて,私の網膜に光として入ってくるという考えは興味深い.私が見ているのが網膜からはいる光の情報だけではないということを前提にして,世界に対して,私もまた情報を投射していると考えると「折れた視線」という考え方を受け入れて,見るということを別の観点から考えられるかもしれない.

ところで一方,鏡の中の太陽は眼を灼き物を暖めるのではないか.多くの鏡を用意し,多くの太陽像を集めれば,水を蒸気に変えて発電することもできる.つまり,太陽の「鏡像」は物理作用をもつものなのである.いや,と直ちに異議があるだろう.物を暖め水を沸騰させるのは太陽の「鏡像」ではなく,鏡からの反射光線なのだ,と.その通りである.しかしまさにその反射光線によって鏡の中に太陽の「像」が見えるのである.そこで,それならば,私はその反射光線の経路を視線として,つまり鏡面で折れた山型の視線で,太陽そのものを見ているのだ,ということができはしないか.鏡像は「像」ではなく,折れた視線で(しかも真正面に)見える実物なのである,と.これがこの章で私が述べたい結論なのである.私が鏡をのぞくとき,私はこの実物の私を鏡面で折り返す視線で見ているのだ,と.だから鏡の中の私は実物の私として内臓もあれば血も涙もある,と.シャツの下には裸の体がある,と.p. 107

私が考えている視覚世界と世界との関係は「物質世界とその大脳像という生理学的二元論」にあたるのだろうか.視覚世界から生物学的視野で切り取られてできる視界こそが,私が生きる「世界」であって,それは像ではない.そこで認知と行為が行われる.では,そのときの世界とは,視覚世界とは何かというようと,視界を形成する二つの情報源ということになるだろう.二つの情報源は,私の視界を媒介にして,相互リンクされる.視界の現れは二つの情報源を相互リンクすることで生まれる.世界が変われば,視覚世界も変わる.その逆もまた然り.同時に,視界も二つの情報源の状態遷移に応じて,変化する.このように書いてみると,視界が像ではないとは強く主張できない気もしてきた.ただ私は私の視界しか体験できないのであって,そこが私の生活する世界だと言い切ってしまえば,視界は像ではないと言える気もする.少なくとも視界は視覚世界の写しではなく,視覚世界を切り取ったものであり,視界は世界の写しではなく,広大な世界から低解像度の世界テクスチャを切り取ったものである.しかし,この考え方はカメラを連想させ,視界がコピーであるという感じを強くする.視野で視覚世界を切り取った予測モデルを世界に投射して,世界テクスチャを入手して,高精細な視界そのものを生成していくとすると,視界が世界のそのままの写しではないという感じが出てくる.

これら光学的虚像を「像」として解することはすなわち「実物と像」の概念を認めることであり,それが「世界と,(意識の中の)世界像」という典型的な二元論の構図へ誘引する端緒となることはみてとり易いであろう.その二元論が,物質世界とその大脳像という生理学的二元論であれ,より一般的な二元論であれ,光学的虚像は「歪んだ第一性質」(あるいは,虚なる第一性質)として,色,熱さ,その他の第二性質(による観念)と共に二元論に至る踏み固められた道であったし,今なおそうである.したがって,それらから「像」の概念を追放することは,二元論に通じる大道の一つを遮断することになる.それが私の主目的である.p. 108

1 プリズム眼鏡

私が考えてきた「視覚世界ー視野ー視界」で世界を見るということだと,プリズム眼鏡はどのように考えられるだろうか.視覚世界は意識に立ち現れているので,プリズム眼鏡あるなしで変わるものではない.視野がプリズム眼鏡でズレて,世界テクスチャの情報がズレ,視界がズレて構築されるということになるだろうか.この流れだと,私の考えは「像」解釈になるだろう.そうだろうか.視覚世界に立ち現れるドアノブと世界のドアノブの座標が同じであれば良いとすると,視界という表象はオマケということにならないだろうか.視界はヒトが世界を見ているという感じをつくるということが最重要課題で,世界に対する認知と行為のほとんどは視覚世界と世界との座標を同期させることでできているとすると考えてみると,私の考えは「実物」解釈となるのかもしれない.しかし,その場合,視界は余分なものになってしまう.視界があれば見ているという感じが生まれているけれど,それだけ.ズレの表象が視界に展開していても,徐々に視覚世界と世界との座標が合ってくれば,私と世界との認知と行為とのサイクルは通常通り行われる.プリズム眼鏡が世界に対しても,視覚世界に対しても視野が移動しているので,視界に惑わされなければ,視界と視覚世界・世界とのズレを修正すれば,認知と行為とが行えるようになる.

そしてこの感じと行動を支える解釈があるのである.それは「像」解釈に対して「実物」解釈,あるいはバークリィ解釈とも呼べるであろう.それは,ドアも手も右に振れて見えているのではない,ただ私の視野が左に動いたのだ,という解釈である.視野を簡単のため横に長い楕円だとすると,事物は動かずにただその楕円枠が 左に動いた,と解釈するのである.当然,以前にはその楕円の中央に見えていたドアと手は,左へ動いた楕円ではその右端寄りに見えることになる(図 1).この視野枠の移動はプリズム眼鏡などがなくともまことに安直平凡な操作でも可能である.正視のまま顔をα°左に廻わす,あるいはもっと不精に,顔を動かさないでただ 左に横眼を使えばいい. α°が地平線回転 180度の場合は(さかさ眼鏡)少し体操が必要となる.股のぞきをするか,倒立ちするか,鉄棒でさかさまにぶら下らなければならない.しかしとにかく視野の移動は日常茶飯事なのである.p. 112

「プリズム眼鏡はこの視野の移動を,姿勢を少しも変えないで(眼も動かさないで)ひきおこす仕掛け」というところから,私と世界との相互作用からできている視覚世界は,視覚以外の情報を使いながら,世界と同期し,リンクしていると考えることができる.逆に言えば,視覚情報のみに関する視野がズレて,それゆえにそこから生成される高精細な視界もズレるということで,世界に対する予測に対して,視覚情報のみがズレて処理されていくということになるのだろう.となると,普段は視覚世界と視界と世界とが同期しているで,実物を難なく認知して,行為することできる.しかし,プリズム眼鏡をかけると,視界だけがズレて,私が見ているものが視覚世界と世界との関係から生成された表象であることがバレてしまう.しかし,この表象はズレていたとしても,視覚以外の情報から視覚世界と世界とは同期されていて,リンクしているので,いずれズレを見ながらも世界を認知して,そこで行為をしていけるということになる.

プリズム眼鏡はこの視野の移動を,姿勢を少しも変えないで(眼も動かさないで)ひきおこす仕掛けなのである.だから雛鳥や蛙を途方にくれさせ,そして人間をも当惑させるのである.それは,胴体,頭,首,眼球,の姿勢と視野の位置との間にあるわれわれが馴れ親んできた関係を突然に変えるからである.われわれはこの人工的斜視や逆転視に多大の努力の末に「順応」するが,鳥や蛙には幸か不幸かその能力がないのである.この「実物」解釈の下では,鳥や蛙も「像」を見ているのではない.われわれと同じく「実物」を見ているのであるが,ただその「実物」と自分の姿勢,したがって自分の運動計画との新しい位置関係を誤認しているのである.p. 112

プリズム眼鏡のあるなしで,視覚世界と世界におけるドアの位置は変わりはしない.た,視界のドアの位置だけがズレている.しかし,ズレた視界を見ているという意識を持ちながらも,視界を「私とプリズム眼鏡と世界」とが生成していく表象だと意識できれば,視覚世界と世界との同期を優先して処理できるようになっていく.視覚情報のみだけが変化するので,私と世界との視覚的インターフェイスである視界のみが変化するだけで,視界を生成する視覚世界と世界とは変化しない.このように考えると,視覚世界と言ってきたものは,視覚以外の感覚の情報を得て構成されているわけだから,予測モデルとしか言えないものとした方がいい.予測モデルは感覚に分かれて構成されるわけではなく,それらを統合して構成されて,世界を予測していくモデルとして存在している.なので,世界を見るということは,予測モデルを視野が切り取り,モデルのデータと網膜から得られる低解像度の世界テクスチャとのデータとの誤差を最小化するように処理していき,高精細な視界が生成されるということになる.

さてここで上の二つの解釈を「位置同定」という観点から眺めてみよう.「像」解釈と「実物」解釈との違いは「位置同定」の違いであるといえるからである.すなわち,「像」解釈は,プリズム眼鏡をかける前とかけた後では「見えている」ドアや手の位置が異なる, α°の方位の違いがある,という解釈であるといえる.それに対し「実物」解釈は眼鏡のかけはずしの前後を通じてその二つが同位置であるというのである.そしてこれから検討する様々な光学的虚像にあってもこのプリズム眼鏡の場合と同様に,位置同定,如何に位置を同定するか,が核心なのである.それは虚像の虚像たる由縁は何よりもまずそれが「実物」と位置を異にするという点にあることからも当然であろう.したがって,他の場合を検討する前に位置同定の問題を一般的に眺めておくことが望ましい.p. 113

2 位置同定

大地座標を選び,一つの座標を選ぶ.座標系を選ぶというのはとても大切な感じがする.一つの視点が大地座標系の世界の一つの座標に与えられて,世界を見ることになる.ここでの座標は物理的には私の視野から見える範囲というか,視界の中心となるのだろうか.座標は大地にあるのではなく,私の場合は1m55cmくらいに浮いている感じであろうか.座標は一つの点でしかないかもしれないが,予測モデルは複数の座標と対応している感じがある.視界で見えている範囲は一つの座標として処理されるのではないだろうか.ここから見た風景のところへ行ったときに,あそこから見たなと想像できるとき,視界とリンクした予測モデルはこことあそことがあって,それらはこことあそこの座標とリンクしている.「土地カン」というのは,複数の座標とリンクした予測モデルが持つものではないだろうか.予測モデルと視界とがある程度の座標とリンクして,ある座標から見た視界に別の座標から見た視界が重なり合うということが重なり合うほど,土地勘が増していく.

幾何学への寄り道から本題に戻ろう.われわれはまず任意に一つの座標系を撰ばねばならない.そうでなければ位置の異同を云々することは無意味であるからである.さて,自明の理由でわれわれは日常生活においては大地座標を撰ぶ.だがそのときわれわれは既に異時,異視点,の視覚風景の間での「位置同定」の骨格,いや肉付けの大半をなしとげているのである.大地の特定の場所,例えば三角測量標準点はほぼ「通時的同一位置」なのであり,他の事物の位置の標準となる.見知らぬ街の風景もそれをどう定位すればよいかをわれわれは知っている.その巧拙は「土地カン」の問題でしかない.p. 116

予測モデルと視界とのあいだにズレが生じていなければ,視界は「像」として現れない.視界は予測モデルと世界テクスチャとがつくる高精細表象ではあるが,予測モデルと一致していれば,それは実物としてしか現れない.プリズム眼鏡のように予測モデルと視界との位置がズレると,高精細表象が像として現れる.そして,通常は通常の状態しか考えなくてよい.異常な状態というのは思考実験や脳や身体の損傷で起こるのであって,例外な状態であって,そのときは予測モデルそのものの大幅な組み換えが必要になってくる.予測モデルの再構築が済めば,位置のズレが最小化されて,像設定がなくなり,実物が現れる.

特に自宅の近所とか,自分の家の中,といった小領域での「位置同定」は三歳の童子もよくなすところである.だがしかし,である.それは光学的異常のない場合である.これから検討する光学的虚像とは,その光学的異常のケースなのである.これらの場合はまさに,三歳の童子ももつ通念,正常な通念,が破れる場合なのである.それにもかかわらずその通念を押し通そうとするとき,ほとんど必ずそこに「像」概念が現われるのである.光学的異常を光学的正常に合せて測るとき,そのズレが「位置のズレ」であり,その位置のズレが「像」の設定となるのである.p. 116

3 光路の曲がり

「視覚風景」が異なると実物の現われは異なるが,位置は同じところになるということか.一つのメモリアドレスにある色情報をを二つのピクセルが共有しているということや,あるいは解像度の変化によって,実物は複数の異なりで現れるということを思い出した.虫メガネという装置によって光路が変化するだけで,実物の位置は変わらないことは理解できるし,拡大された実物が像ではないことも理解できる.実物から得られる視覚データが異なるだけであって,データからレンダリングされるものはどれも実物に基づいたデータから得られているのだから,像ではないと言い換えることができるのかもしれない.実物をモノとして考えるから面倒なのであって,実物の現われをつくる情報源だと考えればいい.そして,情報源からえら得れるデータから予測モデルが予測し,網膜が世界テクスチャを得て,一つの現われが私に対して現われる.それが私にとっての実物なのである.

この「実物」解釈と「像」解釈との相違は,「位置同定」の相違である.「像」解釈は虫メガネの向うに見える釘の頭の位置を,「実物」の釘の頭の位置とは「異なる」とする.それに対して「実物」解釈はその二つを「同位置」とするのである.この二通りの「位置同定」は,二つの「異なる視覚風景」の間での二通りの位置同定方式なのである.すなわち,虫メガネの正面から見る視覚風景と,その側面(上面,背面,その他でもよい)からの虫メガネを通さないで釘を見る視覚風景,この二つの視覚風景の間の位置同定なのである(後者は想像された風景であってもよし,また,虫メガネをとっぱらっての正面からの風景であってもいい).p. 121

「釘を「実物」ではなく「情報」と捉えた方が,この解釈ははっきりするような気がする.状況が異なれば,情報の処理プロセスが変わる.でも,大森は情報処理から認識するということを否定しているから,釘を「実物」として捉えないといけない」と,かつての私はメモしている.釘をモノではなく情報と捉えるのは,今も変わっていないし,世界を複数の解像度で見るということを考えた今では,かつての私以上に今の私は世界を情報源としてみたいという思いが強くなっている.幾何光学には像が現われるが,大森や私の視界には実物しか現われない.「位置同定」という情報への重みづけが強いために,実物を像としてみてしまうということは言えないだろうか.異なる位置で現われている釘もまた実物であると認知してしまえばいいのだが,それができないほどに「位置同定」は強い.虫メガネなどの光学装置を使うことで,予測モデルに入力されるデータが変化して,現われが変化するのを受け入れる.「私-虫メガネ-世界」で生成される現われは「私-世界」で生成される現われとは異なり,位置が異なるように現われているが,それは異なる条件から現われが生成されているからそれでいいと受け入れて,実物の釘の位置は変化してないし,実物の釘を動かせば,同じように現われの釘も一緒に移動するとすれば,現われが現われであり,実物であるということになる.位置同定の重みを弱めることで,現われが像と見なされることは減るのである.

いずれにせよ,異常状況にあってはこの法則を破ることが許されている.そして「実物」解釈はそれを破るのである.そして,虫メガネ越しに見える釘の頭の位置は,側面から見ての釘の頭と「同位置」であるという「位置同定」をとるのである.そしてその「ただ一つの位置」は虫メガネ越しには筒と「見透し線」上にあるが,側面からの視覚風景では筒と「一[[直線]]上」にはないのである.したがって虫メガネ越しに見える釘の頭,したがってまた釘の全体は「実物」であって「像」ではなく,ましてや「虚像」ではないのである.しかしここで幾何光学の教科書を絶版にする必要はない.そこでの「虚像」は光線の経路やその開き角の倍率を作図計算するための有効な「補助線」なのである.p. 123

「見る」ということは装置とともに現れる視覚風景のなかにいる私が見ているものが見ているということになるだろう.装置は視覚風景を変えてしまう.装置は予測モデルを変えてしまう.装置によって予測モデルが組み替えられる.だから,装置を使うことは訓練が必要になってくる.訓練して,装置を予測モデルに組み込んでしまえば,装置こみで世界を予測できるようになる.装置とともに予測されるモデルと装置が届ける世界テクスチャのデータとから視界が生成される.潜望鏡は視界を覆ってしまうから,このことを実感しやすい.大森は光ファイバーを使った想像をしているが,これもまた興味深い.網膜の位置は変わらないが,光ファイバーによって,私は自分の顔や背中を見えるようになる.これは光ファイバーではなく,視界を覆ってしまうVRでも同じことができるだろう.VRでも同じことができるということは,光路の曲がりという物理的な事象だけなく,情報的に世界を構成しても,同じ効果が得られるということになる.そして,情報の方が自由度高いのであれば,情報メインで考えてもいい感じがする.しかし,鏡がリアルタイムに光路をレンダリングできる装置で,コンピュータはそのスピードに勝てないということから,鏡の方が今のところは優位であって,それゆえに物質メインの考え方になっているのかもしれない.

以上で検討した,プリズム,虫メガネ,蜃気楼,陽炎,双眼鏡,の事例には一つの共通項がある.それは,それらの視覚風景での見透し線は眼球あたりを起点とするものとして定位される,ということである.トンネルの外からトンネルの入口と向う側の出口が見透せるならばその見透し線の基部は私の眼に定位される.つまり,視点は私の眼に定位される,ということである.ところが潜水艦の潜望鏡の場合はそうではない.艦長の視野には二隻の船が見通し線上に見えている.しかし彼はその見透し線が彼の眼を通るように,その二隻の船の「位置同定」をしはしない.もしそうしたとすれば魚雷は必ず的をはずすであろう.彼はその見透し線を潜望鏡の海から突きでた対物レンズを通るものとして位置同定をするのである.つまり,彼はその二隻の船を彼の眼の水平前方ではなく(もしそうしたなら二隻とも海中にあることになる),彼の頭上数メートルの前方に定位するのである.つまり,彼は当然のことながら船を海上に定位するのである.もちろん「実物」の船をである.p. 126 

この位置同定の方式は虫メガネの場合と同じものであるが,折れ線の折れが早々と基部で起こり,かつ折れ方が激しく,更に全視野にわたる,という点で独特なのである.この折れ線の折れ方は,例えば胃カメラのように柔らかに屈曲できる光ファイバーを使う場合には曲線的で可変的となる.エビやカニの眼には柄があるが,潜望鏡はいわば硬直した眼柄だと考えることもできる.そして光ファイバーを使うならば,自由に屈曲できる眼柄がえられるだろう.ただ網膜の位置は変わることなく,その眼柄の先端ではなく基部にある.しかしそのことはこの可撓眼柄によって自分の顔を外から見ることを妨げはしない.われわれが自分の手足を見ることができるのに自分の顔を見ることができないのは単に解剖学的偶然に過ぎない.この眼柄はただその偶然に変更を加えるだけなのである.p. 128

4 視野の重なり,位置の分裂と重畳

予測モデルはごちゃごちゃしているが,個々の感覚器官とリンクしている.私にとってはごちゃごちゃとした混沌のように感じられる予測モデルだが,リンクした感覚期間からの外部情報には瞬時反応して,モデルを切り分けるというか,リンクしたモデルを活かして,眼の場合は,左右の視界をつくり,重なり合わせる.左右の視界をそれぞれつくる予測モデルがあり,それらを統合する予測モデルがある.それらは眼がなければ機能しない.眼から入力される世界テクスチャのデータがあってはじめて,予測モデルは機能すが,世界テクスチャもまた予測モデルがなければ,視界を形成できない.視界は予測モデルと世界テクスチャとから生成されて,生成されたものが「実物」である.モノが二重に見える=視界に二つのモノが現れているとき,それは「実物」なのである.たとえ透けていたとしても,それは「実物」なのであり,二つの「実物」の統合の具合から,それは半透明な物体として視界に現れているだけである.平瀬ミキさんの作品《Translucent Objects》を思い出した.上の作品を思い出して,平瀬さんのウェブに行ったら《Translucent Objects -Compound eye-》という作品があった.こちらの分割されたモニターの状態が予測モデルで,二つの視界が統合される寸前の視界がスクリーンなのではないかと思った.

この位置同定を行なうとき,至近距離で見えている二つの物は共に「実物」なのであって「像」(二重像)ではない.それは左右両眼という異なる視点から見られた「同一の」物なのである.それを透かして他の物が見えるがそれはその鼻先の物が透明であることを意味しない.そうではなくて,それは一方の眼を視点とする視覚風景が他方の眼を視点とする視覚風景に重なっている,ということを意味するのである.p. 130

「その同定はアプリオリになされるものではなく経験的知識に基づいてなされる」という箇所から,大森の見るということには予測モデルのような見るという場を成立させるためのモデルが前提にされていると考えられるのではないだろうか.「時には自然的性向に逆らっての解釈なのである」という箇所からも,予測モデルが物理法則だけではなく,私の履歴にも影響されて,私が生き延びるためにそのようには普通見えないような現れを視界に生成する.生成されて視界に現われたものは全て,その位置で世界に存在している.視界は私の眼単体で生じるときもあれば,潜望鏡などの光学装置を介して現れるときもある.光学装置を介して現れるときは,光学装置の特性によって世界がどのように見えるのかを予測モデルに組み込むことで,光学装置を通しての世界に位置する物体の予測がされる.VRはこちらの予測モデルを予測するかたちで現われをつくれるというところに,世界とは異なる体験の場を私やあなたに提供する可能性を示す.

さて 2節以来,光学的に異常な視覚風景の中の位置と,光学的に正常な視覚風景の中の位置との間の「位置同定」が「実物」解釈においてはどのようになされるか,その方式を例示してきた.ここで注意しておきたいのは,その同定はアプリオリになされるものではなく経験的知識に基づいてなされる,ということである.しかも時には自然的性向に逆らっての解釈なのである.したがって,その同定は誤りうるものであり,事実またしばしば誤るのである.光学的錯覚や光学的詐術は少しも珍しいものではない.それらの誤謬を訂正し,あるいは誤謬を予防する方式こそ「実物」解釈なのである.なぜならばそれは,「実物」の位置をあらゆる正常異常の状況を通じて「同一位置」とする解釈方式であるからである.p. 132

5 鏡像

私は一人だが,視点は複数にすることができる.鏡を見ている私の視点と私の視点からの視線を鏡が反射していく先の風景を見ている別の視点がある.二つの視点が存在すると想像することは何を意味するのだろうか.鏡に映った風景は私の視点からは見えないが,かが向こうに設定された視点からは見える.私の視点と別の視点とが鏡のフレーム内で重なり合って,ベゼルで区切られた鏡面に共同の視界を生成する.私は別の視点の場所にいないが,別の視点を想定できる.私は世界に一つの視点としてあり,世界との相互作用において予測モデルをつくり,予測モデルから視野で見える領域を切り取ると同時に,世界から世界テクスチャを切り取り,視界をつくるとき,もう一つの視点を想定することができるのか.鏡を取り込んだ予測モデルにはもう一つの視点が組み込まれていると考えるべきなのか.鏡という光学装置を検出すると,予想モデル内の視点が二つになる.仮想カメラのように予測モデルを移動する別の視点があり,私の視点と鏡との位置から仮想カメラ的別の視点の位置が設定され,二つの視点の重なる領域が視界内視界として鏡のベゼル内に展開される.私の視界にもう一つ別の仮想カメラ的視点からの視界がはめ込まれる.私の視点と連動する仮想カメラ的視点が見ているものを私は見るのだから,鏡に見るのは像ではなくて,

こういえるのは始めに述べた(イ)の点,すなわち鏡の在る風景は二つの「視点」, EとE* ,からの風景の「重なり」(前節)だからである.眼 Eを「視点」とする風景と,上述の「視点」E* からの反転風景が重なっているのである.だから眼を「視点」とする「鏡の外」の風景と,それとは別の「視点」からの風景との間に位置同定することが有意味なのである(一つの視点からの風景の中の位置はとっくに定まっていて,位置同定などは無意味である).鏡の場合にはこの「重なり」は特殊であって,互いに入りまじらずに鏡の枠によって区切られた「はめこみ」になっている.しかし,ショーウィンドウのような半透明なガラスではそれが文字通りの「重なり」になる.そしてそのガラスが完全透明になるか完全不透明になるかすれば,重なりは消えて通常の(眼を「視点」とする)風景になる.p. 136

「私は一人でありただその一人の私を二つの異なる視点から眺めているだけである」というのは納得できてきたけれど,どうして二つの異なる視点を持てるのだろうか.鏡があるからだということも言えるかもしれないが,おそらくヒトは鏡以前からヒトは幽体離脱などで別の視点を持ってきた.視界で考えると一つの視点が当然になるが,予測モデルで考えると複数の視点を持つことは,生存確率を上げることに繋がると思う.予測モデル内で私の視点から離脱する別の視点から世界を見る訓練をしていると考えると,別の視点を持つことは普通のことのように思える.そして,別の視点を持つということは,ここから見えないけれど,あそこからは見えるという形で,世界を動き回っていると自然と学ぶ.私は一人であり,視界も一つだが,予測モデルにおいては視点は二つ,三つ,複数持つことができるし,より多くも視点を持てる方が生存に有利である.別の視点から予測モデルを私の視点からの視界に重ねる.それは鏡を使わなくても,あちらの視点から見た視界はこんな感じだろうということで,私の視界にうっすらと重ねられる,あるいは,重ねた感じをつくり認知と行為の活用する.私の視界には予測モデルで生成した別の視点からの視界が重ねられる.それらは明確なフレームを持たないので,重なりは不鮮明なものにもなる.鏡は私と別の視界の重ね合わせを光学装置として実現してしまった.しかも,とても高精度化かつ遅延もない状態で実現してしまった.私の別の視点からすでに見ていたうっすらとした視界は鏡の鮮明な視界の前に綺麗さっぱり上書きされてしまう.実際は,私の予測モデルにおける別の視点から世界そのものを見ていたのだが,鏡のおかげでそのように見えると勘違いしてしまう.そして,その鏡面の鮮明に表示されているものは触れることができないために像だと思ってしまう.しかし,鏡に映っているものは,私の視点の視界に現われる「実物」と同じプロセスで鏡に映る以前に予測モデル内の別の視点が生成する別の視界に現われる「実物」なのである.

かくして,鏡の中の私は私の「実物」であり私自身なのである.それは蛋白質と脂肪との塊りであり,内臓と血液をもち無数の大腸菌を蓄えている.それは「向う」から(「向う」の「視点」から)見た私自身なのである.だからその鏡像の位置は鏡のこちら側の「ここ」なのである.その鏡像の風景は,向う側に伸びてこちらに口を開いた自在潜望鏡(奇数の鏡の)を覗いた風景であり,あるいは,長い柄をもった眼球(網膜に鏡像反転手術をした)を向うにのばしてそこからこちらを見た風景なのである.特に,片眼だけをそうして,他方の眼の柄は巻き込んで眼窩の中に止めておけば鏡外に囲まれた鏡像風景にいっそう似るだろう.両眼の視覚風景が「重なる」からである.もちろんここに私が二人いるのではない.私は一人でありただその一人の私を二つの異なる視点から眺めているだけである.p. 137

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