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232:情報としてエキソニモのことを残したい私

エキソニモの《On Memory》を見てから一週間が経とうとしている.作品の記憶は落ち着いてきたような感じがする.「落ち着いてきた」というのは,これ以上は忘れることはないだろうということです.今日は本を読んでいるときに会場の情景が,私の意識に現れました.視界は本のテキストでほぼ埋まっていて,その上にとても薄く,会場の情景が被さってくる感じ.

このままでは忘れてしまうなということもあったので,この記事を書いている.《On Memory》を見ているときに,この作品とエキソニモの歴史とのリンクというものがあった.このことは書いておかないと忘れてしまうような気がしている.

会場に入ってすぐのオブジェクトには,曇りガラス越しにマウスが整然と並べられている.「マウス」ということで,私はすぐに《断末魔ウス》(2007)を思い出す.多くの人もエキソニモらしさを感じるのではないかと思う.その次のオブジェクトにはぬいぐるみが入れられている.これは,エキソニモらしさとかよりも,人間の記憶全般かなと思った.次のオブジェクトには,花のようなものをかたちづくるようにケーブルなどが入れらているし,ここはテキストにも「flower」とあった気がする.これを見て,エキソニモは見立てが上手いと思って,花を描いた作品もあったと思ったけれど,作品名までは思い出せなかった.東京都写真美術館で開催された「UN-DEAD-LINK」展でのエキソニモ年表で調べると,私の記憶にあったのは《Still Live》(2015)だった.作品画像を見ながら,8年前に,確かこの作品の前で,エキソニモを囲んでの食事会があったような記憶が蘇ってきた.私は一週間前に,タイトルは思い出せないけれど,この作品のことを思い出しながら,でも,食事会のことは忘れた状態で,花に見立てられたオブジェクトが入った作品を見ていたことになる.この3つのオブジェクトが会場に入っての最初の壁面にかけられていた.

芳名帳などが置いてある台の壁面に書かれた英文を読んでいると,「connect」という単語を読んだ.この単語を読んだ瞬間に,WAITINGROOMで開催されたエキソニモの個展『CONNECT THE RANDOM DOTS』を思い出した.私はこの記憶とともに,エキソニモは自分たちの歴史を,会場をぐるっと囲む英文とオブジェクトに重ねているのではないかという考えを抱くようになった.「connect」でそのような記憶と考えが意識されているなかで,大量のケーブルが入れられたオブジェクトを見た.「ケーブル」は「マウス」と並んで,エキソニモらしさを示すもので,私は「connectするのケーブルだよね」という感じで,しげしげとオブジェクトを眺めていた.その次のオブジェクトには「写真」や「CD」などが入られていた.私はこれを見てICCの床に埋め込まれたメディア年表を思い出していた.作品を見ているときに,ギャラリーオーナーの芦川さんが「赤岩さんが使っていて,車に轢かれたiPhoneも入っているですよ」と話す声が聞こえてきた.このオブジェクトには様々な記憶媒体が入れられているということだった.

壁に書かれた英文を読みながら,ギャラリー空間をぐるっと回ってきて,次のオブジェクトにはモノは何も入っていなかった.背景が白黒のグラデーションになっていて,文字列が入力されているテキストボックスが表示されているディスプレイの背景も白黒のグラデーションになっている.ここにどんな文字が入力されているのかは忘れてしまったとキーボードで打っているときに,確か「day and night」とか入力されていたのではないかと思い出した.作品を見ているときには,テキストと白黒のグラデーションから,すぐにオンライン作品の《0 to 1 / 1 to 0》(2019)を思い出していた.作品を見ながら考えたのか,それとも,このテキストを書くために《0 to 1 / 1 to 0》の記録映像と作品説明を読んでいるときに考えたのかは曖昧だけれど,エキソニモはデジタル「0と1」とを扱いながら,そこに「グラデーション」をつくるのが上手いよなと,私は考えた.

最後のオブジェクトの前のテキストの日本語訳が見当たらなかったけど,今は記載されているのだろうか.記載されていなくても,意味的に日本語訳がなくても面白い感じの英文だった.最後のオブジェクトにもモノは入れられてなくて,真っ黒の背景にディスプレイがあって,その背景も真っ黒で,そこに「Are you still there?」と書かれていた.私は「いるよ」と思った気がする.そして,「still」の使い方に,2011年に国立国際美術館に展示された「ゴットは、存在する。」(Series)の《ゴット・イズ・デット》というポスターの作品を思い出していた.このテキストを書いているとき,私は《ゴット・イズ・デット》についてどのように書いたのだろうかと検索して見ると以下のようにネタバレを気にしたテキストがあった.

エキソニモの《ゴット・イズ・デット》がとても良かった.古びた扉を開けると「ギー」と軋んだ音がする.音とともに暗闇の部屋に入る.暗闇の中にスポットライトが光っている.ライトの先にあるのは……(この先はまだまだ会期があるので,是非自分の目で見てください).

《ゴット・イズ・デット》が示すインターネットの「不穏さ」

作品自体の画像はこのときは撮影していなかったらしく,Googleフォトになかった.けれど,《ゴット・イズ・デット》は,2018年にYCAMで開催されたエキソニモ+YCAM共同企画展「メディアアートの輪廻転生」に「《ゴット・イズ・デット》の資料」として展示されていた.

《ゴット・イズ・デット》の資料

私がブログで《ゴット・イズ・デット》のネタバレを気にしたのは,日付の部分でした.私が見たときのポスターはその日の日付でした.なので,ゴットはまだ「デット」の状態になっていない,もしかしたら,最後まで「デット」にはならないのではないかと考えたので,詳しくは書かないほうがいいのかなと考えたのだと思います.しかし,最後には「デット」になったことを,私は7年後にYCAMで知ったのです.それから,5年後の記憶を扱った《On Memory》を見たときに,《ゴット・イズ・デット》のことを思い出して,この文章を書いているということになります.《ゴット・イズ・デット》を見ていると,言葉を使った意味の印象だけではなく,「黒」という色によっても,《On Memory》の最後のオブジェクトを見たときに《ゴット・イズ・デット》を思い出したことが説明できそうです.

《On Memory》の文字列とオブジェクトを見ながら,私が思い出したエキソニモ作品について書くときに,自分の記憶を探るだけではなく,東京都写真美術館の「UN-DEAD-LINK」展でのエキソニモ年表や自分のブログ,Googleフォトを使って,記憶を確かめる作業をしました.デジタルに保存されたデータを検索しなければ,私は自分の記憶を書き出すことができない状態になっていました.

エキソニモが《On Memory》でしたいのが,ヒトの記憶は消えてしまうということだけだったら,壁に描かれた文字だけでも,作品の狙いは成立する.ヒトの記憶と対比するかたちでブロックチェーンを使うことで,情報がヒトとは別に残り続ける可能性を示す.しかし,ブロックチェーンがあったとしても,ヒトの記憶とともに消失してしまう情報がある.私はヒトは情報のために情報を増やして,情報のためにできるだけ長く保存できる方法を考えるために存在していると考えている.情報に仕えているヒトは,自らの記憶が失われることを知っているから,石板からブロックチェーンまで様々な記憶手段をつくってきた.それでも,情報は消失してしまう.エキソニモは情報が消失してしまうことを知っているからこそ,ディスプレイというメモリと直結した装置を使って,ヒトの関与=インタラクション=記憶を組み込み,情報が消失することを表す.《On Memory》でオブジェクトだけではなく,ディスプレイ,コンピュータ,ブロックチェーンが使われているのは,情報は消失されもするけど,改変されながらも,残り続けるものということを情報の側から示そうとしているからではないだろうか.そして,情報としてエキソニモのことを残したい私は,ヒトとモノと情報との関係を扱った《On Memory》に関する私の記憶をテキストデータに変えるために,この文章を書いていてる.


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