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101:本当に床に砂を撒いているのではないか?

DAZNでF2のレースを見ていて,1位から3位までのドライバーが表彰式の前に待機しているブースが海辺であった.「海辺」を構成しているのは,壁に貼られた「波」の写真と床の「砂浜」の写真である.

壁の波の写真はすぐに写真だと気付いたけれど,床の砂浜の写真はしばらくは気づかなかった.「本当に床に砂を撒いているのではないか?」と思ってもしまった.しかし,ドライバーたちは石を避けようとしないし,ドライバーたちが動いても砂は全く動かない.ということで,床の砂浜も写真だと判明した.

けれど,すぐに気づかなかったのはなぜだろうか.「床」というか「地面」は「平なもの」と思い込んでいるからだろうか.砂浜であれば砂の起伏があるから平らでではないけれど,地面は大体は,大きく見れば「平ら」だと思い込んでいるから,砂浜の画像が示す凹凸がキャンセルされて「平ら」のまま視覚情報としてインプットされつつ,それが「砂浜」であるということも同時にインプットされ,二つの入力が私のなかのどこかで衝突して,どちらがディスプレイに表示されている床を構成しているのかが曖昧な状態になっていて,床の砂浜が写真であると認識するのが遅れたのかもしれない.

現象学から画像について論じた田口茂の「動的経験としての像経験───フッサールから出発して」はこの体験を説明してくれるようなテキストであった.

像物体という特異な物体が現われてくると,われわれは思わず知らず像を見てしまう.そこには,知覚的能力によって媒介されたさまざまな受動的機構が働いている.知覚における物体の射映構造,ならびにそれと連関する受動的な予料構造が,像経験をも受動的に動機づけているが,知覚におけるのとは違って,それが少しも充実されない点で,像経験は拮抗・抗争・葛藤(Widerstreit)の経験を含む.われわれのなかで受動的な機構が働き出すが,それは充実され実在的なものの措定に至ることはなく,非実在的な「像」の経験として宙吊りにされる.だが,非実在的だからといって,それを能動的に,自在に消すこともできるわけではない.非実在だとわかっていても,われわれはそこに像を見続けざるをえないのである.これが,像経験が受動的であると言わねばならない理由である.pp.45-46
2 受動的経験としての像経験───フッサールから出発して,田口茂

写真という「像物体」が床に貼り付けられているという特殊な状態において,私はきっとそれを受動的に「像物体」が与える「像経験」として「砂浜」を経験としたのだろう.これは田口が書くように「受動的」な体験で,私にはどうしようもなく,その床は砂浜として経験されたのであった.そして,床に敷かれた写真が示す「砂浜」であると理解しても,見るたびに砂浜として体験されてしまう.この「受動的」な体験のプロセスを切り開いて考えてみたら,面白いと考えているけれど,どうしたらいいのだろうか.


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