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106:「像物体」「像客体」「像主題」でもない「黒い線」を見る

Maki Fine Arts で開催されていた池田衆さんの個展「Object and Image」で展示されていた作品《Pomegranates #1 》が気になっている.

ギャラリーのサイトで紹介されていた作品画像を見たときには,どんな作品なのかいまいちわからなかった.けれど,実際に見にいったときに,個展タイトルの「Object and Image」を文字通りに体現する作品だということがわかり,どれも興味深かった.そのなかでもプレスリリースに掲載されている《Pomegranates #1 》がよかった.

池田さんの作品は写真を切り抜いていて,写真の「イメージ」の部分と「モノ」の部分とが「切り抜き」という行為で同居している感じがある.「イメージ」であり「モノ」であるということが同時に存在している部分が現れていて,私はそこに惹かれているのだと思う.《Pomegranates #1 》だと特に,果物のバックの黒い部分と白い部分の境界が突如「黒い線」になるのが興味深いし,何度も見てもゾクゾクする.

「境界線」という実際にはない「線」が,「黒い線」という「モノ」として写真の「イメージ」から切り出されている.切り抜かれる前までは「奥行き」を示す「境界線」が,切り抜かれた直後にこちら側と向こう側とを分ける「黒い線」となり,モノとして影を持って存在するようになる.

イメージであるものが突如,モノになる.このあたりをフッサールの像経験の記述を通して画像を分析する田口茂の「受動的経験としての像経験───フッサールから出発し」を経由して考えてみたい.

像客体が示す特有の捉えがたさは,おそらくそれが媒介現象であることに起因している.これに対し,像物体としてのキャンバスや絵の具や印画紙を,独立した対象として経験することは容易である.像主題としての人物や事物も,独立した対象として考えられる.像客体だけが,独立した対象として捉えることが難しい.しかし,像物体がある仕方で形成されると,そこにはっきりと「何か」が浮かび上がる.それが浮かび上がったときには,像主題もはっきりと意識される.キャンバスに塗りつけられた絵の具が,ある構成をとると,そこに赤い果実の像が浮かび上がる.それが浮かび上がったとき,赤い果実という実物も,主題として意識されている.しかし,赤い果実が本当にそこにあるわけではない.そこに見えているのは,赤い果実の「像」である.このように,像物体からも,像主題からも区別されるが,像物体や像主題無しには現出しない媒介的な交差現象が,「像客体」である.pp.27-28
田口茂「受動的経験としての像経験───フッサールから出発し」

「奥行き」のなかで黒と白との境界線を見るというのは,黒と白という色の教会という「像客体」を経由して「像主題」を見ることになるだろう.もちろん,これらはプリント用紙という「像物体」を経由している.写真が切り抜かれた瞬間,「像物体」というモノが前面に出てくるが,それでもそこには「黒い線」という「像客体」があり「像主題」を見ている.いや,それは単に「黒い線」というモノを見ているだけかもしれない.そして,それを「黒い線」だと認識すると,それはモノとしての存在を主張しだし,「黒い線」の切り抜かれていない部分,つまり,境界線の部分をもう一度見ると,そこには「モノとしての黒い線」と「イメージの境界線」とが分かち難く存在するように見えてくる.実際に,これらは「像物体」「像客体」「像主題」として同時に存在して像経験をつくりだしているので,写真を見るときにいつも体験していることに過ぎない.けれど,一度,「像物体」「像客体」「像主題」でもない「黒い線」を見ると,「境界線」に「黒い線」という異物が入り込んだものとして見てしまう.

この境界線に「異物」を見るということは,「見る」という視覚的な部分に,「切り抜く」という触覚的な操作が入り込んできたために,「奥行き」を構成する視覚と触覚とのバランスが崩れた結果として起こっているのではないだろうか.このとき,「奥行き」を示す境界線がモノ=像物体としてあるという通常の状態を超えて,何か得体の知れない存在が境界線から先の黒い部分にあるのではないかと感じさせる「向こう側感」が生まれている.

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