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056:空白と欠如とのあいだの厚み

「空白」の厚みを考えてみる.そもそも「空白」に厚みがあるのか.「空白」は何もないのだから,そこには厚みも薄さもなく,何もないのではないか.そんなことを考えていたときに,入不二基義さんの『あるようにあり,なるようになる』で次のような文章を読んだ.

このように「空白」の方が,「欠如」よりも,いっそう現実寄りである(かといって現実そのものには属さない).このことによって,二種類の無のあいだに「厚み」が発生している.つまり,「空白」は「欠如」のさらに〈奥〉あるいは〈裏〉に控えている無である.位置No.748/5706

入不二さんの『あるようにあり,なるようになる』は運命について論じられた哲学書だが,それをバルクとサーフェイスからイメージ論として読めないかというアイデアが上の文章を読んだときに閃いた.

単に閃いただけなのだが,入不二さんのテキストの感触から離れられなくなってしまった.「空白」には「厚み」がある.しかも,それは「欠如」の〈奥〉あるいは〈裏〉にあるらしい.〈裏〉があるということは,〈表〉があって,表と裏があるならば,そのあいだがあって,そこには「厚み」がある.〈奥〉があるなら,〈手前〉があって,そのあいだがあって,そこには「厚み」がある.表と裏と手前と奥があり,それらはサーフェイスとして現れ,そのあいだの厚みがバルクとして現れると考えるとどうだろうか.

「空白」は「欠如」によって切り出される.いや,「欠如」を生み出すフレームによって切り出されているからこそ,そこには切り出された「厚み」があるというイメージが出来上がるのではないだろうか.「欠如」がひとつのサーフェイスとしてフレームとなり,フレームが「空白」を切り出し,そこに「厚み」が生じる.「欠如」がサーフェイスであり,「空白」がバルクというか,「欠如」と「空白」のあいだの「厚み」がバルクだとすると,バルクは「欠如」でも「空白」でもない「厚み」となるだろう.そこに「厚み」であるのだが,それは「ある」と言えるのだろうか.「空白」と「欠如」のあいだに「厚み」があると言えるのだろうか.私たちは存在のサーフェイスのみを知覚しているのだとすれば,知覚し得ないけれど存在するバルクがあると考えられ,それと同じように「空白」と「欠如」のあいだに「厚み」とも言えるだろう.

「空白」と「欠如」のあいだの「厚み」に取り憑かれてしまった.この「厚み」をサーフェイスとバルクを使って切り出していきたい.



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