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059:バルクはサーフェイスを超え出ていく🗜

「欠如」や「空白」とは異なるかたちで「バルク」は存在しているだろうか.「バルク」はモノの全体として存在しているが,それは名指されることがないときもあれば,サーフェイスとの連続でモノが語られるときは「バルク」はないことになる.あるいは,「構造」と言われて,「バルク」が持つ「厚み」のような感触は「関係の束」に置き換わってしまうような感じがある.

現実には「欠如」や「空白」は存在しない(※3).しかし,だからといって,「欠如」や「空白」は,単なる空想や偏見の産物というわけではない.「欠如」や「空白」は,(現実の側ではなく)私たちの言語や論理の側が持ち込むものであるという意味では,主観的なものである.しかし,だからといって,私たちの思いのままになる主観的な観念というわけではない.むしろ,「欠如」や「空白」は,それなしには思考さえできないだろう.思考の可能性の条件として,「欠如」や「空白」は客観性を持つ.ここでは,単純に主観的/客観的に二分しても意味がない.両極性(私たちの言語・論理の側と現実自体の側)の間には,様々な観点や程度で主観的/客観的という区別を無数に引くことができるだろう.
あるようにあり,なるようになる 入不二基義

​​「バルク」は言語や論理の側が持ち込むのでなく,モノの特性のちがいとしてサーフェイスから連続していくモノの内部にある客観的なものである.

それでは,「空白」はどうだろうか.「空白」は「欠如」よりも,私たちの関心への依存度が小さい.というのも,たとえ私たちがどんな関心や欲望を持つとしても,「AからBへの交代」や「AでもBでもない」等の二者を宙づりにする観念を持つ限りは,「空白」を呼び込まざるをえないからである.「空白」は,「欠如」のようには関心依存的な無ではない.その意味において,「空白」の方が,「欠如」よりもいっそう「客観的(絶対的)」である.しかし,だからと言って,「空白」は,物理的な事実のように存在しているわけではない.あくまで「空白」は,私たちの論理・言語に属するのであって,現実自体の側にあるわけではない.位置No.748/5706
あるようにあり,なるようになる 入不二基義

サーフェイスからバルクへの交代するときに「空白」が現れる.「空白」は論理・言語に属するものであって,バルクは現実自体の側にある.確かにそこにある厚みがバルクとなる.そして,バルクはやがてまたサーフェイスとなる.「バルク|空白|サーフェイス」というかたちでモノもあるし,ディスプレイ上の映像もあると考えてみる.バルクとサーフェイスとのあいだに空白があり,それは二つの存在のあいだの「インターフェイス」ではなく,二つの存在が切り替わるために呼び込まざる得ないものである.「インターフェイス」ではなく「空白」があり,客観的でありながら,論理・言語に属したものがある.モノや映像は論理・言語でしか考えられない「空白」を抱えているということになるのだろうか.そして,その空白はサーフェイスを示しつつ,バルクによって全体を包含されていき,自らの存在をどこかに隠遁させていき,サーフェイスを透してバルクが現実自体の側に現れる.このプロセス全体を前景化したときに「インターフェイス」が生まれるのかもしれない.

「欠如」と「空白」のあいだの「厚み」に加えて,「空白」は,独自の「厚み」も発生させる.それは,「空白」の非存在(現実には空白は存在しないこと)をめぐって生じる.位置No.748/5706 
あるようにあり,なるようになる 入不二基義
ここで重要なことは,観念論と実在論の「対立」や「選択(どちらを選ぶか)」ではなく,「厚み」の発生である.
あるようにあり,なるようになる 入不二基義

バルクが発生するのは,バルクがサーフェイスそのものでもなく,モノそのものでもないということなのだろうか.サーフェイスを透して見ても,モノを透して見ても,どちらでもないということが,サーフェイスに挟まれたモノの厚みからバルクをはみ出させるのかもしれない.

空白についての「思考」は,どちら側から見てもあっち側へとはみ出すという独特な〈中間〉性を帯びている.この〈中間〉性は,「欠如」が私たちの観点や水準に応じて主観的でもあり客観的でもあるという相対性(変動幅)とは違う.むしろ,その「思考」のポジションは,絶対的に中間的である.この〈中間〉性が,「空白の非存在」をめぐる独自の「厚み」を発生させている.
あるようにあり,なるようになる 入不二基義

「観念論」と「実在論」とのあいだで「空白」は,どちらへもはみ出していく.この「はみ出す」という言葉がもつ感触が「空白」をどこか柔らかいものにしている.空白は押し潰れるような感じある.二つのサーフェイスに押しつぶされてかたちを変化させる空白.バルクもまた四方からサーフェイスに押し込まれているのかもしれない.しかし,外にはみ出てはこない.バルクは厚みとしてははみ出ることはないと書きたいけれど,マテリアルデザインで考察したように,その厚みがサーフェイスを飲み込んでいくようなときがある.バルクはサーフェイスの連続からはみ出て,サーフェイスの連続が成立するような厚みをつくりだす.「空白」とともにバルクは余計なものとして,モノとしても,映像としてもはみ出るのかもしれない.特に,インターフェイスとして前景化したプロセスにおいては,バルクはモノとしても映像としてもサーフェイスからはみ出していくような存在となっているのではないだろうか.

バルクの可塑性というか,はみ出るようにかたちを変えられるゴムのような弾性がサーフェイスを透して現れると考えてみるとどうだろうか.バルクは空白と同様のどこからもはみ出るような弾性を持った厚みを持っている.その厚みは変幻自在に変化する.厚みを規定するはずの複数のサーフェイスのあいだの距離を超えた厚みを持つこともある.バルクはサーフェイスを超え出ていく.


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