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198:This capacity of computational data to be, at one and the same time, both means of access to sensibility and sensibility itself

This capacity of computational data to be, at one and the same time, both means of access to sensibility and sensibility itself—or, in Whitehead’s terms, both objective sensibility eliciting subjective feeling and subjective feeling itself—furnishes yet another concrete form of support for my central claim for access to the data of sensibility (CADS). Computational data is exemplary on this score because of its dual, simultaneous operationality as production of and access to data. Such dual operationality, as I have already noted, also characterizes twenty-first-century media in their specificity, as forms of media that, though continuous in many ways with earlier media, are distinct on account of their capacity to perform the revelation of the mediated character of sensibility. More precisely, the data propagation of sensibility involves a coincidence of technical access to data of sensibility and the production of new sensibility: in the case of computation, that is, the act of accessing data of sensibility is itself a form of sensibility. Thus, with every operation to access extant sensibility (the settled world), new sensibility is necessarily generated; and with this technically mediated doubling of sensibility, a model of process is set into place that can explain both how worldly sensibility is self-propagating and how its propagation necessarily involves the operation of delimited processes of superjective creativity.

計算データは,感性へのアクセス手段であると同時に,感性そのものでもある.ホワイトヘッドの言葉を借りれば,主観的な感覚を引き出す客観的な感性であると同時に,主観的な感覚そのものでもあるということだ.これは,感性のデータ(CADS)へのアクセスを求める私の中心的な主張を,もう一つの具体的な形で裏付けるものである.計算データは,データの生成とデータへのアクセスという二重の同時操作性を持っているため,この点で典型的である.このような二重の操作性は,すでに述べたように,21世紀のメディアをその特異性において特徴づけている.それは,それ以前のメディアと多くの点で連続しているにもかかわらず,感性の媒介された特性を明らかにする能力を備えているという点で,異なるメディアの形態である.より正確に言えば,感性のデータ伝播には,感性のデータへの技術的なアクセスと新しい感性の生成との一致が含まれ,計算の場合は,感性のデータにアクセスする行為自体が感性の形態でとなる.このように,現存する感性(定まった世界)にアクセスする操作のたびに,新しい感性が必然的に生成される.この技術的に媒介された感性の二重化によって,世界的な感性が自己増殖することと,その増殖が超越的な創造性の限定されたプロセスの操作を必然的に伴うことの両方を説明できるプロセスのモデルが確立されるのである.(翻訳はDeepL+水野)

Mark B. N. Hansenの"Feed-Forward: On the Future of Twenty-First-Century Media"からの引用

マーク・ハンセンは21世紀のメディアであるコンピュータでは,コンピュータによって計算されるデータが,ヒトの感覚データになっているとしている.ハンセンは以前から,コンピュータによる微小な時間操作が,ヒトの感覚に入り込んできて,影響を与えていて,それがニューメディアの特徴だと書いていたので,一貫した主張をしていると思いながら,"Feed-Forward: On the Future of Twenty-First-Century Media"を読んだ.

コンピュータやスマートフォンによって生成されるデータは,ヒトの感覚と合流していくというのは,確かにそうだし,このことを前提にしないと,今の時代の感覚を考えることは難しいと思う.どのようなかたちで,コンピュータが生成し続けるデータとヒトの感覚データとを合流させて,あらたな予測モデルをつくっていくのか,ということを考えていかなければならないと,私は考えている.

ラップトップであれ,スマートフォンであれ,コンピュータは感覚のレベルで,ヒトとデータのやりとりをする回路を形成している.ヒトは単体ではなく,スマートフォンやコンピュータとつながり,その先のインターネットにつながっている.そして,デジタル化されたデータを現在は,視覚的,聴覚的なデータとして,自らの感覚データと合流させながら,あらたな予測モデルをつくり,最適化した認識と行為をし続け,あらたなデータを次々と生み出している.

このテキストもまたあらたなデータである.

21世紀メディアは,感覚データを受け取るだけでなく,それを操作することができるという点で従来の映画,ラジオ,テレビといったメディアとは異なるものになっている.ヒトはスマートフォンからデータを受信し,そこから生じた行為とともに,データをスマートフォンからインターネットへと送信して,データに改変を加えている.ヒトもコンピュータも双方にデータを改変し続ける回路をつくっているという点で,20世紀型メディアと21世紀型メディアとは異なるということになる.


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