『母性』

 「愛能う限り娘を愛する」という言葉が頻繁に登場する本作。母は祖母の「娘」でありながら、自身にとっては「母」なのである。いつまでも男に執着して「女」を捨てられない(捨てきる必要はないと思うが)母親像は、度々映画やドラマで描かれている。しかし、「娘」という立場を捨て切れない母親像はなかなか斬新な発想だと感服した。

作品とは全く関係ないが、私にとっての親子関係について以下書く。今こう思っているというより、中高と一番捻くれていた頃に抱いてしまった妄想に過ぎないが思い込みというものはなかなかに治らない。


親は子どもに聞く。「今日は学校どうだった?」と。
 その質問をする意図は何なのだろう。子どもと話したい。子どもの学校での様子を知りたい。子どものことを知りたい。
 ここで聞きたいのは学校で起こった事実や出来事ではあるが、子どもを取り巻く出来事を子どもが切り取った視線から話を聞きたいのだ。
 私は、相手を知りたいという欲求は愛情から来るもので、相手と一緒にいたいという気持ちと同じくらい大切なものだと思う。
 私は母親からあまり質問をされない。「事実」を聞かれることは少しあるのかもしれない。自分の意見や考え、気持ちを聞かれることは全くない。
 大切にはされている。でも、母は私に興味を持ってくれていると感じることはほとんどない。
 でもすべての母親が娘に100%の愛情を注げるわけではない。少なくとも彼女は母親としての義務は果たしている。それなのに、いや、だからこそ、きついと感じることがある。母親が自身の責任感、義務感から来ているのではないかと感じることが多々ある。
 「娘だから」大切にしてくれているのであって、優しく接してくるときがあるのであって、「娘ではない私」なら大嫌いなのではないか、と。
 大切に育ててもらっているのにこんなことを言うのはフェアじゃないのかもしれない。
 そしてこんな想いを抱えながら私は21歳になってしまった。いつまでも子どもではいられない。母親、母親と言っていられる年齢ではなくなってしまった。

 これは全部幻想なのかもしれない。自身のふがいなさ、自己肯定感の低さを何かのせいにしたくて母親に責任を押し付けようとしているのかもしれない。実に情けない話だ。

とはいえ、こういう愛について考えているとやはり思い出すのはキリスト教の「愛」。キリスト教でいう愛には3種類ある。エロス、フィリア、アガペー。

何かを求める愛情、友愛、そして第三の愛。この第三の愛は神の愛や親の愛を指し、一言でいうと無償の愛だ。自分が自分を嫌いでもなお、空っぽでもなお愛を注いでくれる。そんな無償の愛は尊いものだ。そう考えるならば興味を示さないにしても「娘だから」と母親が私に注いでくれる愛は偉大なものなのかもしれない。

ただ、とはいえ、愛とかなんだのではなく、すべては母の性格に起因することなのだと思う。彼女が私に興味を持たないとかではなく、そういう習慣がなかっただけなのだ。別に言葉数が少ない無口な人間な訳ではない。しかし、いつだって彼女は雑談しかしなくて、心のうちを打ち明けるなんてことはほとんどなかった。そして、そんな彼女のもとで育った私もまた自己開示が苦手になった。自分の心のうちを話すことをタブー視していて、恥ずかしくみっともないことだと思っていた。どの時点でこのような思い込みができたのかがわからない。気づけば中学の頃、自分の本音を話すことは涙なしでは難しくなった。恥ずかしさと惨めさといろんな感情が相まって、ボロボロと涙を流してしまう。そんな泣く姿も見せたいわけじゃないのにどうしても言葉とともに流れ落ちてしまうものだがら、なおさら話せなくなった。
実際に、心のうちを人に晒すって簡単じゃない。でもだからこそ、いつだって素直に心のうちを表現できる居場所を家族に作りたいと私は思う。いつかもし私に家族ができたら、これだけは大事にしたい。

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