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僕達の「悲しみ」を包む曲、『TRUTH behind U』

諸君、私は『TRUTH behind U』が好きだ。
諸君、私は『TRUTH behind U』が好きだ。
諸君、私は『TRUTH behind U』が大好きだ。

もやし親父です。

GITADORAに、
ポップン・ノスタルジアからの移植曲
『TRUTH behind U』が来て、早くも半年以上が経過しました。

そして、今後の6月21日には
『TRUTH behind U』生誕祭が全世界の首都圏を中心に盛大に開催されることでしょう。
僕達の喝采の歌を神々へ捧げよう。ついでに神輿も担ごう。うたちゃんに可愛いおべべを着させて胴上げだ。

さて、何を隠そう『TRUTH behind U』という曲は、私がギタドラアンケートで超猛烈プッシュしていた曲でした。
なので、2022年12月21日にコナステに来て、そして2023年9月13日にACギタドラに移植された時は、KONAMIの中にきっと神様がおるんやと気づかされ、西南西方角へこうべを深く垂れるほど感謝の念でいっぱいになりました。

ポップンとノスタルジアでも、同時収録されたタイミングから今現在まで、ずっとこの曲にはLOVEを注ぎ続けております。
ノスタルジアEXPART譜面をフルコンできた時は熱湯のような熱さの何かが頬をつたいそうになりましたし、ポップンEX譜面を初めてクリアするときは「もう これで 終わってもいい」とゴンさん的なありったけを出し切ってしまい、しばらく放心してしまったのも良い思い出です。

車の中でも1曲リピートでメチャクチャ流し続けた時期もありました。
そのせいで情緒をメチャクチャにしながら職場にいき、情緒をメチャクチャにしながら帰宅したこともあります。
せめて仕事行く時くらい情緒を落ち着かせる必要があると自分でも思う。

とにもかくにも、私は『TRUTH behind U』が大好きなのです。

でも、ここまで好き好き大好きと言っておきながらなんですが、正直なところ実は
「なぜこんなにワイは『TRUTH behind U』に入れ込んでいるんやろか」という正体を、最近まであまりうまく掴めてなかったんです。

何回聴いても心が動いて、何回でも慟哭の如き感情の濁流が押し寄せる…。
この感情を一言でいうなら「エモい」で片付けることも出来るでしょう。しかし、それでは私の心が1mmたりとも納得しません。
違うんだ。もっとこう、3文字に集約なんてできないくらいすごい曲なんだよ。この曲は。なぁ。おい。わかってくれよ。
こんな気持ちが、日を追うごとに強くなるわけです。

が、しかし、いざその内容を言語化しようとすると
「ん?これはどう言語化すればいいんだ…?」と、途方に暮れるもどかしさがあったというのもまた事実です。

曲の歌詞は複雑な部分が多いです。
その解釈については、自分でも端的に説明できない「何か」が心の奥底に蠢(うごめ)いてた為、それを表現することに対しては一種の迷いのようなものもありました。

しかし、そんなこんなで悶々としていたところに、とうとうギタドラへ『TRUTH behind U』が収録されました。
もはやこれは事件です。自分の心が、あとひと吹きで破裂する風船みてぇな有様になっちまいました。

なので今回は、
自分がなぜここまで『TRUTH behind U』を好き好んでいるのか、その理由についての明文化にいよいよ踏み切ってみた訳でございます。


そしたら、案の定めちゃくちゃに長くなってしまいました。
お前はいつもそうだ。

ということで、以下から非常~~~に長くなりますが、
自分が『TRUTH behind U』になぜここまでのクソデカ感情を持っているのか、複数の視点からの解釈と、ほんのちょっとの私情を挟みながら書いていきます。

長いので、目次を利用しながら、
少しずつ読んでいただければ幸いです。

なお、ここからの解釈を語る上で
色々とややこしいワードがあるので
ここに表記方法を注記しておきます。

・「うた」…ポップン初出のキャラクターのこと。
・『うた』…ポップンの曲名のこと。ジャンル名はポップミュージック。

「」(鉤括弧)と、『』(二重鉤括弧)、
ひらがなと漢字の違いに気を付けて頂けると幸いです。
また、本文章中の『』(二重鉤括弧)は曲名を表す際に使用する形となっています。


○『TRUTH behind U』のテーマとは

改めて確認となりますが、
『TRUTH behind U』は2018年6月21日に開催された
「pop'n music×ノスタルジア共演会」というイベントで登場した楽曲となっています。

アーティスト名義は「Zutt」となっています。
こちらのアーティストはPON氏とwac氏によるユニットとなっており、今回の楽曲でのボーカルはMarL氏とPON氏が担当しています。
また、「Zutt」名義では『НУМЛ』というポップンのボスクラス曲が作成されており、近年は『世界の果てに約束の凱歌を』も作曲されています。


さて、『TRUTH behind U』についてですが、考察・解釈についてはメインテーマ・サブテーマの二軸が存在すると私は考えています。

メインテーマとしては、
個人的にはポップンに収録されている楽曲である<『うた』のpt.2>をイメージしているのではと考えています。
ポップン世界の「うた」というキャラクターが、歌に対して抱いている心情とその背景を『TRUTH behind U』で表現しているのではないか、というものです。

そして、サブテーマ。
「うた」というキャラクターを通じての暗喩的なメッセージといえばいいでしょうか。
このメッセージは、「うた」というキャラクターへの理解を深めなければ辿り着かない、まるで迷路のように難解なものとなっています。

これは、私個人としての見解は<「表現者」への鼓舞>に行き着くのでは、と見ています。
すなわち「うた」を通して発信する作曲者(MarLさん)からのメッセージではないか、というものです。

ともすれば、メインテーマをなぞった解釈とサブテーマを読み取る解釈の二本立てが必要となるため、なにをどうしたって文字数が増えてしまうんですよね。
これでも頑張って削ったんや。しんどかったんやで。それでも「走れメロス」「羅生門」「蜘蛛の糸」を足した文字数も超えるハメになってしまったのは、なんか、ゴメン。

ということで、さっそく前置きから長くなってしまいましたが以下からはその解釈について触れていきます。

○ 歌詞を振り返ろう

まずは『TRUTH behind U』の歌詞を確認しましょう。

『TRUTH behind U』

願いの果てに僕らの距離を知るのが怖いと
震える声で光を拒む君と巡り遇った

When I realized why you were crying,
felt your tears as like me.

(google直訳:
 なぜ泣いていたのか気づいたとき、
 あなたの涙を私と同じように感じました)

追われるように焦がれるように答えを求めて
胸に抱いた 一縷の夢が 霞と知って

歌をやめた
僕は今
思い出したんだ 希望を
命のある意味を

この声が争いを巻き起こすのろいだと
何度も貫かれ 木霊の平和を生きてきた

"I know can't see your world…"
"But that's why I love…"

(google直訳:
 「あなたの世界が見えないのはわかっています」
 「でも、それが私が愛する理由です」)

僕の歌は 想いは
祝福の証だ

この声は 僕達の 壁を照らし出すけど
この愛は 僕達の その悲しみさえ包むんだ
だから 僕達は 歌うんだ

登場人物である
「君」「僕」「僕達」は、誰なのか。
「光を拒む」「一縷の夢」「歌をやめた」といった後ろ向きなワードから、
「命のある意味」「祝福の証」「悲しみさえ包むんだ」というワードへ、どのように心が反転していったのか。
これらが解釈を進めるにあたっての大きなポイントとなってくるでしょう。

まず、ここにおける「君」と「僕」と「僕達」の捉え方、この時点で私は頭を悩ませました。

(※…迷走の様子)

それはもう、こんなフローチャート的な図を作ってしまおうとするほどに。
この記事の原案を書き始めた去年11月くらいに作った図です。

しかし残念なことに、この図を作ろうとする事自体が、実は『TRUTH behind U』の解釈を大きく狭める事に繋がると、これを作成した数か月後に気付くことになりました。なので、考察の原案はその際に一度全消去しております。

むしろ、このように「考えられるすべての可能性」に対して、
『TRUTH behind U』は形を変えて包み込んでしまえる許容範囲の広さがあるのだ、という解釈に最終的には行き着きました。

ただ冒頭でもお話した通り、あくまで表向きの『TRUTH behind U』は『うた』のpt.2にあたる可能性が高いと自分は考えているため、
ストーリーとしての「君」「僕」「僕達」に対しては「うた」が絡んでくるものと考えています。
詳しい内容は後述となりますが、いずれメインテーマ考察では全体的に「うた」が絡んでくるものと考えてもらえればOKです。

○「うた」というキャラクター

では、次は「うた」というキャラクターについて軽く触れていきましょう。

「うた」は、ポップン21(SunnyPark)にて初登場となったキャラクターです。
担当曲は自身の名前と同じ『うた』と、UniLabにて追加された『脳ミソ de 向上』、そして今回取り上げている『TRUTH behind U』の3曲となっています。

外見は、真っ白な肌にボサボサで整えていない髪、制服も靴下も整える気ナシといった、
なかなか尖がった感じの見た目の少女となっています。
歌う時は、何故か持っているモップをマイク代わりにしているのが印象的です。

また、当時の公式ホームページの紹介では、

歌うことができなければ存在に意味が無い、歌うこと以外に全く興味が無いというストイックな女子高生のうたちゃん。

~中略~

放課後、学校という小さな世界のてっぺんで、目の前に広がる世界にむけて、今の全てを込めてうたをうたう女の子。

(公式HP 楽曲&キャラクター紹介ページより)

このように記載されている事から、
歌う事に対する異常な程のこだわりが感じられます。


また、前回の担当曲である『うた』も、『TRUTH behind U』に負けず劣らずの比喩に溢れた意味深難解ソングとなっており、「滅亡のバーゲンセール」という単語等も使われている事から、「うた」というキャラクターの内面を表しているような曲となっていました。

ここだけを捉えると「wac風味の思春期こじらせちゃった系ボーカル女子」で終わるような特徴に見えるのですが、彼女はそれ以外にも特別な能力や特色を持っており、それが本稿の『TRUTH behind U』の考察に繋がる重要なポイントになっています。
そこについては後程の解釈の途中で触れていきます。

では、いよいよ次項から歌詞の解釈に移っていきます。

○ 歌詞解釈①:「光を拒む君」とは?

願いの果てに僕らの距離を知るのが怖いと
震える声で光を拒む君と巡り遇った

最初の一文について、
まず「願いの果て」という表現は、多くの作品や物語などでは「果て」というニュアンスからバットエンドを想定する使われ方が多いものとなります。
そのため、歌詞のイメージとしては「願いが叶わなかった場合」あるいは
「願いを叶えても望むような結果が返ってこなかった場合」を指していると思います。

そして、続く「僕らの距離を知るのが怖い」という表現ですが、これが実はなかなか難解です。

一般的には、好きな相手なのであれば離れてしまう事が怖いと考えますし、
好ましくない、あるいは「恐れている」相手なのであれば近づいてしまう事が苦痛になると考えられます。
そのどちらかが怖いのだろうか、と考えることもできるのですが、
私は「このまま、つかず離れずの距離でいたい」という意味が込められていると解釈しました。

つまり、ここまでを要約すると
「貴方の願いは、たとえ叶えたとしてもそれがどのような結果になるかはわからない。
それに僕と君は、今の距離感でいたほうが何も考えずにすむじゃないか。
もし願いの果てにそれが崩れてしまったら、どうなってしまうだろう。それを考えるのが怖い。」
という解釈になります。

それを「震える声」で話しているのは「光を拒む君」です。

前後の文脈を踏まえると、
「光」とは「願い・願望を叶える事」を差していると思われます。
なので「光を拒む君」は、先ほどの解釈の通り、話している相手には願い・願望を叶えてほしくないと考えているものと思われます。

しかし、それはそこまで強いニュアンスで話しているようには感じません。
なぜなら「君」は「震える声」をだしている、すなわち「涙声」あるいは「絞り出すような小さい声」であることが伺えるため、
絶対にダメだ、という断絶に近い拒絶を込めた表現ではなく「どうなるか分からないという迷いや怖さ」を多分に含んだ表現であると捉えています。

たったこの2行の間に、恐ろしく丁寧に「光を拒む君」の様子が描写されていると私は思います。
通常、願いを叶えようとする事にそこまで臆病になる場合は、その願いの過程に多数の障害があるものと考えられます。
その障害が「君」をここまで陥れている、願いに絶望している状態であるという事を、半ば執拗と感じるほどに二重三重に表現されている、凄い歌詞です。

そして、そんな「君」と「巡り遇った」と表現されています。

「巡り遇う」という言葉は、辞書で引くと「長い期間をかけて、思いがけないタイミングで求めていた人・物に遇う」という意味があるそうです。
つまり、願望を叶えることを拒絶している「君」に会うことを、「僕」はずっと求めていたことを示唆しています。

これはどういう状態なのでしょうか。
震える声でこちらを拒絶するような相手に、ずっと会いたかったこの「僕」はどんな人物なのでしょうか。
これが今後の解釈・考察を進めていくにあたって重要なポイントとなります。

・メインテーマ解釈

さて、先述の通り「僕」と「君」をどこに置くかで今後のストーリー的な解釈は大きく変わります。

ここで、今回の私のメインテーマ解釈では、

「僕」は
「うた」本人、及び「うた」の主人格
「君」は
「うた」が歌を歌う事に対して抱いている隔離された感情

であるものとして進めていきます。
つまり、「君」とは「自分の中にいるもう一人の自分」という解釈です。

「うた」は歌う事に対して、人生で非常に大きな比重を置いています。
ということは、「うた」の持つ願い、「光」はどう考えても歌う事に対して関連付けられた内容であるとしか考えられません。

しかし、そう解釈した際に導かれるのは、
「歌に纏わる願いを、もう一人の自分が拒んでいる」という事になります。
自身の人生ともいえる歌を歌うという行為に対して、同時に何らかの恐れを抱いているという事です。

When I realized why you were crying,
felt your tears as like me.

後に続くこちらの英文歌詞は、
「君」が震える声を出しながら泣いている理由は、「僕」自身が理解している事を示唆しています。
「僕」が「君」に出会ったばかりなのに、既に泣いている理由を理解しているというくだりは、やはり「僕」と「君」が同一人物であるという暗喩を込めているのかな、と解釈しています。

さて、そろそろここで
「なぜ自分の感情に自分が出会うという解釈を行ったのか」という点について、注釈を加えていきたいと思います。

通常なら、自分の事は自分が一番わかっているはずなのですから、「自分が自分の感情に出会う」という表現は歪(いびつ)です。
「自分の感情を自分で理解できていない状態」という事にも繋がります。

しかし、多くの文学作品やゲームのシナリオなどでも、いわゆる「解離性同一性障害(多重人格)」という枠とは別に、
もう一人の自分に出会うという描写がされることは割と珍しいことではありません。

そして、こういった表現を行う際には、
心理学で言う所の「防衛機制」の中にある「抑圧」をモチーフにしているケースが多いのかな、と私は考えています。

・サブテーマ解釈

このあたりからは、サブテーマに関わる解釈に移ります。

まず、心理学における「防衛機制」とは何ぞや?という話ですが、

受け入れがたい状況や現実に対して、不安を軽減しようとする心理的メカニズム

(Wikipediaより引用)

という事を指すそうです。

そしてさっき出てきた「抑圧」とは、

実現困難な欲求や苦痛な体験などを無意識の中に封じ込め忘れようとすることである。その内容には観念、感情、思考、空想、記憶が含まれる。
~中略~
特に心的外傷体験(トラウマ体験)や、性的な欲求などの倫理的に禁止された欲求が抑圧されると考えられている。

(Wikipediaより引用)

このようにWikipedia上では記載されています。

ということで、さきほどの「君」をもう少し丁寧に言い換えるならば「抑圧」された「うた」の一部、ということになります。

転じて、「自分の感情を理解できていない状態」とは、
正確には「自身の喜怒哀楽の根源に関わる部分を、自身が自身を「抑圧」している事によって言語化できない状態」のことを指します。

ところで、こちらの文章をご覧になっている皆さんは、自身の「喜怒哀楽」を言語化するという行為をどれくらい経験した事があるでしょうか?

通常、自身の感情の出どころや状態を事細かに言語化するという行為は、ある程度の訓練が必要となります。
これはある意味「メタ認知」というものにも近い内容なのですが、「自身の喜怒哀楽の出発点はどこなのか」を見つめて考えて言語化する能力は、
意識して訓練しなければ一生涯得ることが出来ずに終わる可能性がある、そんな能力でもあります。

結構難しいんですよね、
自分の気持ちを言葉にするのって。

さらに、「自身の感情の出発点」を見つめようとした際に、
「自身が認めたくない事実情報」や「理不尽な過去の情報」によって、感情の出発点を自ら歪めてしまい、言語化がさらに困難になったり捻じれを起こすケースも存在します。

だからといって、そこで無理に感情の出発点を認識しようとすると、トラウマ・PTSDなど強い精神的な苦痛を伴うケースもあります。
なので、「感情の出発点を歪めてしまう事」自体をマイナスと捉え、無理に矯正するような動きや考えはあってはなりません。

心の防衛機制は誰しもにそれぞれの形で存在するものだと自分は考えています。その人の歩んできた人生や境遇、環境によって感情の処理方法に個人差が出るのは当たり前であると考えるべきでしょう。

ということで、「自身の感情を自身が理解できていない状態は存在する」というお話でした。
そして、「自身の感情を理解するには、長い時間と苦痛を伴う場合もある」という部分も、解釈に対しては重要なポイントとなります。

なので、私はそういった心の動きも加味して
「光を拒む君と巡り遇った」という表現は
「自身の感情と時間をかけてようやく向き合うことができた」と解釈しました。

さて、こう解釈すると
「うた」にはもしかして「自身が認めたくない事実」や「理不尽」があるのでは?という疑念に繋がります。

次の歌詞解釈へ進んでいきます。

○ 歌詞解釈②:「歌をやめた」事による解放

追われるように焦がれるように答えを求めて
胸に抱いた 一縷の夢が 霞と知って

この「追われるように焦がれるように」からは、
「仕方なく」という気持ちも、しかしそれでも「渇望する」という気持ちも見て取れます。
これはつまり、「焦燥感」をかみ砕いた表現であると考えられます。

そのような焦燥感に満ちた不安定な状態で「答えを求めて」います。
ここの「答え」という書き方には、
まるで自身に対して100%良好に作用するものがこの世には存在するはずだと、妄信しているかのような響きも感じます。

そして、その妄信している「答え」の先には「一縷の夢」があると「胸に抱いた」状態だった事が伺えます。
しかし、曲内ではうかがい知ることが出来ないような何かが決め手としてあったのでしょう。あるいは、「君」と出会った事によって、何かを理解したのでしょう。
それにより「一縷の夢」は、自分が掴むことが出来ないような「霞と知って」しまった。

・メインテーマ解釈

「うた」が、「一縷の夢」のために今まで苦しみながらも前に進もうとしていた事が伺える部分となっています。
しかし、それは叶わない、あるいは叶えたとしても答えには行き着かない事が何かをきっかけとして分かってしまい、
「霞」、つまり幻であると知ってしまった、という事が伺えます。

一縷という単語は、辞書で引くと「細い糸のような、かすかな」という意味合いがあるようです。
つまり、夢に対してもそもそも最初から大きな期待や希望を持っていなかったものの、しかし他に代替手段が考えられない為、藁にもすがるような気持ちでいた事を表現しているものと考えます。

総合して、こちらの2行については
「うた」が焦燥感に駆られて何らかの「答え」を求めていた事、
「一縷の夢」に対して不安定な心で執着をしていた事を表現していると思われます。
しかし、そんなものは存在しないと決定づけられる何かを理解してしまったのでしょう。

そしてその結果、
以降の

歌をやめた
僕はいま

へ繋がります。

ここでは、メロディにも空白が生まれます。
これは「歌をやめた」ことにより「うた」の中に「無」「静寂」「絶望」が訪れたことを楽曲全体で表現しているものと思います。

そして、歌詞内に出てきた「願い」「光」「一縷の夢」といったキーワードは、「うた」にとってやはり歌う事に関係するものであったという事が、ここで改めて歌詞からもメロディからも理解する事ができるポイントになります。

そして、「うた」が歌をやめるという事は、好きな物、ないし今まで心を繋ぎ止めていたものを手放す事を意味します。
その結果が、無力感や絶望、えも言えぬ音もない感情に行き着く選択であることは容易に想像できます。

それを、このたった5秒間という短い時間に凝縮している。
曲全体をギミックとして使って、恐ろしいほど丁寧に、そして重濃に表現している。
この5秒には、自分は光を飲み込むような重力を感じます。

しかし、何故か、
「歌をやめた」という選択肢の果てに何故か

思い出したんだ 希望を
命のある意味を

と曲調と歌詞が反転し、シンクロするようにカタルシス(心の浄化)に目覚めていきます。
自身が好きな歌を、一度手放したはずなのに、です。

これは一体どういう事でしょうか。

・サブテーマ解釈

この「こだわっていた物や手段を諦め、手放すこと」を選んだ瞬間に
「命のある意味」までも思い出すに至る流れについては、
自分は「仏教における<執着>の考え方に似ているな」と感じました。

調べてみたところ、仏教では

"どんな苦しみが生ずるのでも、すべて<執著(執着)>に縁って起るものである"

といった考え方があるそうです。

※…これを掘り下げていくと「煩悩」だとか「悟り」だとかのお話に繋がっていくのですがそこは割愛します。

<執着>している状態というものは、基本的に良い状態ではない事が多いです。なんとなく、言葉の雰囲気でそれは理解できるかと思います。

しかしながら、「諦めない」事と「執着」する事、
「愛する」事と「執着」する事など、一見すると線引きが難しい心情も多いと自分は思っています。

それらを「執着」か否かに分かり易く線引きするポイントは、「視野が狭くなっている状態」かどうか、だと思います。

純粋に「諦めない」「大好きだ」という気持ちで物事にのめりこむ人は、
例えば自身の目標が達成できた場合とできなかった場合のビジョンやその理由を、明確に分析する事ができます。
また、目標達成までの過程で苦労するような出来事が発生しても、理由に向き合い対処法を編み出したりする事ができます。

これを究極的な形にしていくと、目標に対して優先順位を設定し、合理的に「損切り」を判断することができるようになります。
諦めないための優先順位を設定する、大好きなものを継続するために優先順位をつけるという「情熱的な冷静さ」を持つことができるというわけです。
人という生き物は、体も時間も有限だし環境も身体機能も人それぞれだからね。仕方ないね。

しかしこれが「執着」となってくると、
達成したり継続できなかった場合の自分を想像することが怖く、自身の目標の達成や継続以外の事は考えないようにしてしまいます。

さらに、過程で発生する苦労の原因を、視野が狭くなっているせいで特定する事ができず、しかし「それを避けたり逃げたりすることはもっと怖い」と考えます。自身自らが挫折したり方向転換する事を許さなくなります。

結果、「自身で自身にストレスを与え続ける」、
すなわち物事に「執着」している状態が生まれてしまいます。


例えば、登山を趣味や生業にする人がいたとします。

登山をする理由として挙げられるものは、例えば
「山頂や道中の景色を楽しめる」「山の近くに温泉や美味しいものがある」
「歴史の1ページに名を残せる」「自身の限界に挑める」という感じになってくるのかな、と思います。
理由はいろいろあると思いますし、その登山対象となる山もライトなものからヘビーなものまで様々です。

さて、ここで何かしらの山を登頂中に天候の変化や体調不良が発生するとします。通常であれば、そういったアクシデントが発生した場合は登頂を断念するのが正常です。

山の天候変化は運の要素も絡んできます。どんなに精度の高い予測をしていてもそれが覆るケースは決して珍しくはありません。
体調不良の原因も気圧・現地の食べ物・服装等々、複合的なものが考えられるため原因の特定も難しいものです。

一度引き返し、天候の変化はなぜ発生したのだろう、なぜ体調が悪くなったのだろうという「原因」を探って、
万一天候が変化したときの対応方法を確定させておき、体調悪化を防ぐためにできる事があるかを「対策」し、
納得できるような準備をして、より万全な態勢でリトライをするような姿勢を持つ人は「諦めない」ことができる人だと考えます。

あるいは、自分には難しい場所だったと認め、「自身の能力やペースに合わせた楽しみ方にしよう」「無理のない範囲で別の山を登ったりしてみよう」と割り切れる人は、登山という行為に自分なりの理由を見出して「好き」でいる人だと思います。

これが「執着」している場合はどうなるでしょうか。

もうここには来れないかもしれない。もうこんなチャンスはないかもしれない。大見得を切ったから失敗は恥ずかしい。他の人を失望させたくない。ここまできた時間や経験を無駄にはしたくない。自分より先に名を残す人がでるのは我慢ができない。先駆者たちに馬鹿にされるのは我慢ができない。

こういった「退路を断つ」ような考え方に捉われてしまっている人は、いわば登山に「執着」している状態であるという事になります。
結果、「執着」している人はどんなトラブルがあっても登山をやめません。

例え、執着した結果として登頂を成功させたとしても、深い後遺症を負ったり、その成功体験が災いして以降のアクシデントでも内容を軽視してしまい命を落とすなど、あまり良い方向に繋がらないケースが殆どと言っていいでしょう。

(断っておきますが、ハードな登山を生業とする方々を蔑むような意図は全くありません)

また、「執着」に至る理由には「焦燥感」がワンセットになる事が多い、と自分は考えています。
時間に追われたり、成績を残さなければいけないという焦りがあったり、
タイムリミットや成果という要素が加わると「執着」は生まれやすくなると思います。

こう考えれば、「うた」は歌う事に対しての答えを焦燥感に駆られて探していたという事になる。
つまり、歌う事に「執着」していた事に繋がります。

なので、今回「うた」が歌をやめることによって希望や命の意味を思い出すというくだりは、永遠に歌う事を封印するという直接的な意味ではないと考えました。

歌に「執着」していた自身を見つめ直し、一度その「執着」を手放したことにより、本来の自分が歌に求めていたものや理由を見つめなおすことができた、すなわち「執着」から脱却をした事を意味しているのではないかと解釈しました。

では、なぜ「うた」は歌うことにそこまで「執着」していたのか。
引き続き歌詞を確認していきます。

○ 歌詞解釈③:「のろい」と「木霊」

この声が争いを巻き起こすのろいだと
何度も貫かれ 木霊の平和を生きてきた

この歌詞には、
「うた」が歌に「執着」をするに至る理由が書かれていると考えます。
しかしながら、この歌詞は非常に難解です。

通常、「争いを巻き起こす」ものがあるとすれば、それは「声」ではなく「発言」というニュアンスが正当と感じます。
転じて、「この<歌>が争いを巻き起こす」であれば歌の中身が原因かもしれない、と仮説を立てる事も出来ます。
しかし、あえて理由があってここは「声」という表現を採用しているのだろうと考えています。

ただ、「声」が「のろい」と扱われることもまた、通常であれば考えにくいです。これではまるで、第三者からの評価だけではなく、「うた」自身すら「声」に対してコンプレックスを抱いているようにも感じ取れます。

さらに、「声」によって「何度も貫かれ」に繋がるのも不可解です。「声」を出せば貫かれるとは、非常に穏やかではありません。

そして、「木霊の平和を生きてきた」とはなんでしょうか。
もしかしたら、ここが「歌に執着して生きてきた」というニュアンスを含んでいるのかもしれませんが、いったい何を表現しているのか、読み取るのが非常に難しいポイントです。

繰り返しますが、この歌詞は非常に難解です。
出てくる単語ひとつひとつを、
丁寧に分析していく必要がでてくるでしょう。

・メインテーマ解釈

さて、まずは「のろい」と記載されているものについて探っていきましょう。
それを紐解くにあたっては、担当キャラである「うた」のLOSEアニメにヒントが隠されています。

「うた」はポップンのLOSEアニメで、「咳込んだ瞬間に教室のガラスが割れる」という描写がされています。
この理由については公式に明言はされてないと思いますが、これは「うた」の力によるものと推測できます。
しかも、このLOSEアニメ内の教室の中には「うた」の姿が確認できない。
これはつまり、「うた」がその場にいなくとも遠くまで影響させてしまう可能性が高い力という事が推測できます。

私は、すなわちこれが「のろい」の事であると推測しています。

「うた」の発声の仕方次第で衝撃波のようなものがでてるのか、あるいは「祟り」のようなポルターガイスト的な現象が起きているのか、その力の理由や正体までは想像の範疇を超える事が出来ません。

しかし「うた」が歌ったり咳き込む事によって発生する見えない「のろい」は、周囲からは確実に畏怖の対象となることは間違いありません。
そうなれば、「うた」は自身が好きな歌を歌う事がイコールとなって、周りに「争い」が生まれてしまう可能性が非常に高い事が想像できます。

また、「のろい」といわれる力そのものは、おそらく誰にも見えない力と思われます。
なので、見えない事を理由に悪い尾びれを付けて噂をするような人がいた事により、「争い」の火種は「うた」にも予期できない形で大きくなった可能性も考えられるのです。

推測ですが、「のろい」は咳き込んだ時だけに発生する力である、という可能性も十分に考えられます。
しかし、咳き込む時=歌っている時、と他者に関連付けで認識されてしまった場合、確かに「うた」が歌う事は「争いを巻き起こすのろい」となってしまうでしょう。

「うた」の能力、すなわち「のろい」が実際に「争い」の火種になったことがあり、「何度も貫かれ」という表現がされている事から「うた」が歌うことを何らかの形で何回も阻害されてきた可能性がある、という事になります。

また、1度や2度だけでなく「何度も貫かれ」ているという事は、最初の数回は「うた」自身も阻害される原因を特定できていなかったり、なぜ自分が阻害されるのか理解できないタイミングが存在していた可能性も考えられます。


もし例えば、咳き込まなければ「のろい」は発動しないというのが本来の能力なのだとしたら、「うた」にとっては歌う事を阻害される意味が理解できないという事になります。
もしそんなすれ違いがあったのだとしたら、なんとも、可哀そうな話です。

ここの考察については色々な可能性に分岐する事が考えられるため、若干ややこしくなってきました。

一旦情報をまとめると、

・「のろい」は教室の窓を割るほどの力があり、おそらく「うた」の能力である。
・「のろい」の発動条件は不明。少なくとも咳き込めば発動する可能性は大。
・「のろい」の発動条件が不明なまま、「うた」が歌うと「のろい」が起きると周りに伝わった可能性が高い。
・「のろい」のせいで、「うた」は好きなことをすると阻害されるようになってしまった。
以上となります。

こう考えると、歌詞で「歌」ではなく「声」、という表現にしている理由もなんとなく納得感が出てくる気がします。
「咳き込まなければ大丈夫だから」と訴える「声」ですら聞き入れられず、結果それが争いの理由となった可能性があるとも示唆することができます。
ただ、もしそうだとしたら、なんとも、可哀そうな話です。

木霊の平和を生きてきた

そして、ここの「木霊」という表現も、非常に難解であると感じました。

私の解釈としては、声の反響を意味する「こだま」だけではなく、妖怪的な意味の「木魂」を掛けたダブルミーニングを狙っていると感じました。

木霊(木魂)は「古事記」「源氏物語」などでは妖怪の類として登場しており、「木を切り倒そうとすると祟られる」「神通力のような力をもつ」という特徴があるそうです。

これが転じて、
『見えない「のろい」の力を恐れられて何度も歌う事を阻害されるうち、
周囲から妖怪(木魂)のように恐れられるようになった』と解釈する事ができます。

こうして、「うた」は好きなものが阻害され抑制されるうち、
歌うという行為を人前では行わないように封印していきます。
これが、冒頭の「光を拒む君」すなわち「人前で歌いたいという光を拒む自分」に繋がるのではと推測します。

そして、その過程で「うた」は歌う事に対して苦悶し、思考にねじれを起こし、自身を抑圧したことにより何らかの「執着」を覚えるに至ったものと思われます。

そしてその「執着」が、学校の屋上で歌う事を選んだと考えます。

「うた」のFEVERアニメーションでは、屋上のてっぺんに立っている様子がうかがえます。
周りには黒い猫が一匹いるものの、人の姿は確認できません。

そして、「うた」のWINアニメーションでは、「テンコ」が一人屋上で歌う「うた」を見ています。
この時の視点でも、「うた」の周りに人の姿は確認できません。

この様子から、「うた」は「のろい」が降りかからないように、人前では歌わないようにしていると解釈する事ができます。

また、屋上の一番高いところで歌っていることから、歌声が遮られることなく奥まで届くことで「こだま」する可能性もあるのではと思います。
それ以外にも、周りに人がいない中で「うた」は歌っているため、自分の歌は自分にのみ響く、すなわち自分の中でだけ「こだま」するという、哀愁を帯びた表現として捉えることもできるのかなと思います。

歌声の「こだま」と、妖怪の「木霊」をかけるような表現が、ここで繋がってきます。

こう考えると、「木霊の平和を生きてきた」とは、「妖怪のように恐れられた結果、周りに人がいなくなり平和が生まれた」ことと、
「屋上でこだまする自身の歌声であれば、誰も傷つけることがないから平和になる」ことが両立している表現となります。

そう考えると、ここの「平和」という単語には、強い皮肉が込められているように感じます。

さて、あらためて歌詞を見返してみましょう。

この声が争いを巻き起こすのろいだと
何度も貫かれ 木霊の平和を生きてきた

改めてこの2行は、「うた」というキャラクターの過去を語る表現であった事がわかります。
そして、この暗い事実が羅列された歌詞をサビパートに持ってきたのは、やはりそれほどこの歌詞は「うた」や『TRUTH behind U』にとっては重要なカギであること、そして「うた」自身はこの事実をここで振り返る必要があったという重要性を示唆しているようにも感じます。

ようは、これこそが「うた」を作り上げたオリジンなのです。

もしここで、心の優しい誰かが「のろい」の原因を特定しようとしたり、「うた」に寄り添い「のろい」について理解をしようとすれば、「うた」は優しい歌を好み、慈愛を覚え、自身の服装を正し、愛されながら自分の好きな歌を歌っていたかもしれません。

しかし、そうはならなかった。

この事実こそが、「うた」の中心だったのです。
そしてきっと、これこそ「うた」が抑圧していたものの正体なのです。

・サブテーマ解釈

この「うた」のオリジンからは、「うた」が執着に至ったメカニズムも読み取る事ができます。

自身の行為によって第三者に対して害を伴ってしまった際、行うべきは「なぜそうなったか」という経緯の分析です。
結果、自身側に行為の過失が認められたのであれば、その内容を認め、害を伴わないように修正することによって解決できます。

しかしながら、
この「原因の特定」そのものを誤ってしまうという事故は、「うた」の事例だけではなく我々が生きる現代社会でも往々にして存在します。
しかも、本人が認識を誤るのではなく「第三者」が認識を誤るというタイプの質の悪い事故は、もはや枚挙にいとまがないほど発生しているといっても過言ではないでしょう。

ちょっと話がそれますが、例えばこれが「表現」による心理的な阻害となれば、いよいよ話は難しくなってきます。

世の中にある「映画」「ドラマ」「漫画」「イラスト」「小説」「音楽」などの作品は、人によってどうしても「合う・合わない」と感じるポイントが違ってくるし、同じ作品であっても捉え方は人それぞれです。
さらに国や人によって、「性」や「暴力」の表現は過激と感じるラインが全く違います。

では、「表現」による他者への気分的阻害はどこから発生するものなのでしょうか。「不快」という線引きを引くのは、誰が、どこで、何を基準に行うべきなのでしょうか。そもそも線引きは必要なのでしょうか。

…というさじ加減の問題は、人類の永遠の課題ともいえるでしょう。


サブテーマ解釈に戻ります。

「表現」が好きな人が、誰かにその「表現」は不快だからやめろ、と「のろい」のように扱われたとします。その場合、その人が「表現」をやめる事を選べば、不快と感じていた方々にとっては確かに「平和」になるでしょう。

しかし、「表現」が好きな人からすれば、「表現」を「のろい」と扱われた過去が消えるわけでもなく、「表現」を再開できない抑制がずっと続く事を意味します。(これが幼少期ともなれば、抑制はより強く作用し、無意識レベルまで刷り込まれる事もあります)

「平和」とは、確かに表面上では争いが発生していない状態の事を差します。しかしその見えない水面下で、表現者は「不快」の原因を特定できず「執着」に至る動きが発生することもしばしばです。

争いを生みたくない、心を貫かれたくないと考える表現者は我慢をすることが多いでしょう。この我慢や抑制は「それでも何とか表現をやめない方法はないのか」と方法や方向性を探る方向へとシフトしていきます。

そして、その過程で「思考のコントロール」がうまくいかず、思考のベクトルのバランスを失ってしまう事で、心のねじれが生まれて「執着」という形に発展していくのは、この現実世界でも決して珍しい事ではないと私は考えます。

そもそも、線引きがあいまいなものを根拠として「のろい」として扱われる場合もあるわけで、原因も不明、ピンポイントで自身の好きなことを害される理由も不明、その対応方法も不明となれば「思考のコントロール」がうまくいかなくなるのも当たり前といえます。

また、自身が好きなものによって周りを傷つけるかもしれないという罪の意識は、自身を責め続ける「罪びと」の意識を生んでしまうことでしょう。
こういった自己没頭により、周りが見えなくなってしまい、より「執着」が強くなってしまう可能性が非常に高いものと考えます。

「うた」の場合は「のろい」による物理的な損害を発生させているから、表現者の苦悩という意味では別枠なのでは?という考え方もできなくはないですが、
・なぜ自身が「のろい」と扱われるようになったのか、その原初となる原因がわからない
・なぜ自身が好きなものを阻害されるのかがわからない
・「のろい」と扱われないように対応するための方法を誰も教えてくれない
・「のろい」によって、確かに不快な目にあった人もいるのかもしれない
という条件をピックアップしていくと、別枠にするのは難しいと感じます。

「うた」が歌に対する「執着」を抱いたであろうこのプロセスは、意外と誰にとっても他人ごとではない心の動きであるという事です。

憶測ですが、きっと「うた」は、最初は自分の歌を誰かに聴いてほしいという単調な願いをもっていたと思います。
しかし、「のろい」は自身の力だけでは解決できず、しかし誰も助けてくれず、あまつさえ自身の行いを阻害してくる人が出てくるとあれば、あれだけ捻じれてしまっても仕方がないのかなとも感じます。

そして、怖いのは「いつから「のろい」として貫かれた」のかが書かれていない事なんですよね、実は。
先ほども書きましたが、抑制が幼少期から継続的に行われてしまうと「無意識レベルでの罪の意識」が形成されてしまうため、それを克服するには多大なる労力と時間を必要としてしまいます。
つまり、「うた」の心の中の「君」は、いつからそこにいたのだろう、「うた」はいつから答えを探し続けていたのだろう、という疑問につながるのです。

でも、それでも、
「うた」は優しいですよね。

構うもんか、お前らが傷つこうが自分の歌を無理やりにでも聴かせてやると吹っ切れるのではなく、自分の歌で誰かを傷つけたりしたくない、自分の歌が自分を嫌いになる理由になってほしくないという気持ちがまだ生きてるんですよ。
そして、それでも歌いたいという自分の気持ちを整理するために、あえて一人になって歌う道を選んだんですよ。

優しいじゃないですか。
悲しいほどに。

○ 歌詞解釈④:「祝福の証だ」

"I know can't see your world…"
"But that's why I love…"
僕の歌は 想いは
祝福の証だ

ここ、大好きです。
曲中で一番好きです。
極上のカタルシスを感じるパートです。
メロディも、歌詞も、大好きです。

優しく語りかけるような英字部分の後、
そこからスネアロールとともに躍動する音が、
歌詞が、
感情をのせて叫ぶように歌う声が、
ここに至るまでの鬱蒼とした感情すべてを吹き飛ばすような力を感じさせてくれます。

・メインテーマ解釈

まずメインテーマ側からの解釈として、
「うた」が自分の「のろい」を受入れ、それでもやっぱり歌が好きな自分を受入れ、自分の歌をいつか他の人たちに届けたいと願うに至った「執着」からの形ある脱却を表現していると感じました。

英文箇所の解釈についてですが、
"I know can't see your world…"について、
「私からは見えない貴方の世界」という表現には多重の意味を込めているものと推測しています。

まず一つ目は自分の心、すなわち「君」という存在です。

先ほど、確かに「命のある意味」を思い出すに至りましたが、それでも自身の「のろい」の原因そのものを理解できたわけでも、対応方法や抑制方法が理解できたわけでもありません。

それゆえ、「歌う事」そのものを完全に克服した状態ではないため、まだ「光を拒む君」は「のろい」とともにそこにいる、つまり「見えない世界」が自分の中にはまだ存在する事が示唆できます。

でも、それでも「愛する」と宣言しているのです。

自分は全てに絶望した。
それでも、歌う事が自分は好きだという事に気付いた。
だから自身の「のろい」に、そして蓋をし続けてきた自身の心に向き合い、自身のマイナス面、すなわち未だ克服できずにいる「見えない世界」も「愛する」と表現しているのです。

そして二つ目。歌を届けたい相手、つまりポップン世界の第三者です。

これは不特定多数を指していると解釈しており、その中には「うた」の力を「のろい」として扱った第三者も含んでいます。

「うた」はこの時点では、誰かに歌を届けるという行為を忌避してきたため誰か特定の顔を思い浮かべたりすることはないものと思います。
つまり、今は見えない相手、すなわち誰かと特定できる状態ではない事を「見えない世界」と表現しているのかなと解釈しています。

また、「うた」と第三者の心の距離は、今現在の時点では図り知ることが出来ないほどの距離があります。ましてやそれが「うた」を「のろい」として扱った相手なら、一生涯かけても縮めることが出来るか分からない距離かもしれません。
そういった意味でも「見えない世界」という表現をしていると解釈しています。

そして見えないからこそ、いつかそこに自分の歌を届けたい…そういった気持ちを「愛している」と言い換えているのかな、とも感じます。
なんとも重くて、オシャレな表現です。

三つ目は、『TRUTH behind U』を聴いている我々、つまりプレイヤーです。

「見えない世界」は現実世界である我々の事を指しているとも解釈できます。
もしかしたら「うた」はこちらの世界を認知していて、自身の歌を一番に届けたいのは『TRUTH behind U』を聴いて「うた」を理解してくれる貴方達です、という気持ちを「愛している」と表現しているのかもしれません。

そして、そんな気持ちを持つに至った「僕の歌」は、過去に受けた阻害と自分の忌々しい力と向き合ってもなお残ったこの「想い」は、
<命のある意味を示す、私が生まれた祝福の証だ>と、「僕」自らと「歌」というのろいの根源を、肯定して前に進むことを決意したのです。

「うた」が自身のアイデンティティを本当の意味で得ることが出来た瞬間です。是非とも、喝采を送ってあげたくなります。

・サブテーマ解釈

サブテーマ的にも、この部分は非常に重要です。

ここに至るまでの「うた」をもう一度振り返ってみましょう。

・長い期間をかけて、自身の抑圧していた感情に向き合った
・自身が執着していた「歌う」という行為と向き合った
・抑圧と執着を生んでいた自身の苦い記憶を整理した

これらを経由することで、「命のある意味」すなわち自分が一番望んでいるものが何であるかを発見することができました。

この経緯にこそ、自分は心を打たれました。

現実世界でも、「感情や出来事を抑圧してなかったことにする」なんてことは日常茶飯事のはずです。
現実世界でも、「自分が大事だと思っているものはなんだろう」と本気で向き合って考えるのは難しいものです。
現実世界でも、「振り返りたくない過去の、発生経緯と当時の自分の心情の確認」なんて、意識的に行うのは非常に苦痛を伴います。

しかし「うた」は、自身の好きな事のために自身の中に渦巻くものと向き合う事を決めました。
その経緯にまつわる「歌」も「想い」も「祝福の証」であると、ここでとうとう認めることができました。
これはすなわち、今までマイナスと捉えていたものも今後自分が生きていくために必要な物だったんだと認めることができたという事なのです。

ここまで「うた」が歩んできた道と葛藤、ここに至るまでの経緯すべてを振り返ってから改めて歌詞を眺めると、まるでラッセルの「幸福論」やブッダの「真理のことば」を彷彿させるような内容である事に気づかされます。

深く、実践的で、哲学的でありながら、「命のある意味」という幸福に対して真摯に向き合っている歌詞のように感じるのです。

ここまでくると、「うた」がまるで同様に悩み苦しむ人たちにとっての先駆者であり、体現者であり、導き手のような存在にすら思えてきます。
でも、それでいて「うた」はあまりにも人間臭すぎて、必死になって前に進もうとする意志には人間賛歌すら感じられて、愛おしくて堪らなくなります。


さぁ、いよいよ曲はフィナーレへと進んでいきます。

○ 歌詞解釈⑤:「壁」「愛」「悲しみ」

この声は 僕達の 壁を照らし出すけど
この愛は 僕達の その悲しみさえ包むんだ
だから 僕達は 歌うんだ

この最後の歌詞こそ、『TRUTH behind U』に込められた「聴き手へのメッセージ」であると自分は感じました。

・メインテーマ解釈

ここで初めて、「僕達」という表現がでてきます。
この「僕達」は、先ほどの解釈④英字部分での「貴方」と「うた」の事であると私は解釈しているので、

1.「うた」と、「光を拒む君」を合わせた「僕達」
2.「うた」と、「うた」が歌を聴かせたい相手を合わせた「僕達」
3.「うた」と、プレイヤーである我々を含めての「僕達」

これらを全て内包しているのが「僕達」ではないかと解釈しています。

滅亡のバーゲンセールだった『うた』という歌を歌っていた彼女は、相手に歌を届けたいという「声」を出し、そこにある「壁」を照らし出せるようになりました。
そして、そのうえで世界のすべてを憎みたくなるような「悲しみ」さえも包むような「愛」に目覚めました。

「だから 僕達は 歌うんだ」と最後に紡がれる歌詞からは、「うた」が今後も自身の「のろい」と向き合い続ける覚悟を、そして自分以外の人たちとも共に歌いあいたいという「希望」を、そして自身の好きな事を貫く事こそが「命のある意味」であると宣誓する気高さを、感じずにはいられません。

「うた」の精神的な成長。

メインテーマに対する歌詞の解釈は、これで以上となります。

・サブテーマ解釈

最後の歌詞にも、複数の比喩表現が散りばめられています。サブテーマ解釈を進めるにあたって今一度、用語の内容を整理しておきたいと思います。

まず「声」によって照らし出される「壁」についてですが、
「声」は表現、「壁」はネガティブな反応や拒絶、「心の壁」と読み替える事が可能です。

また、「愛」は壁という反応の背後に存在する要素を理解しようとする心(客観性)、そして「悲しみ」は壁ができる大元の原因を表現した単語となっています。

この声は 僕達の 壁を照らし出すけど
この愛は 僕達の その悲しみさえ包むんだ

つまりこちらの歌詞は、
「自身の表現によって表面化される相手の心の壁は、その壁の背後に原因がある。その存在を理解し認めることが出来れば、己の悲しみも、相手の悲しみも、包み込むことができる」
と読み解くことができます。

でもそれは、実は誰もがうっすらと何処かではわかっている事なんじゃないかと思います。

「相手の事を分かってあげるのが大切なんだよ」というメッセージは、小学校の授業でも習うようなことです。
しかしそれを実践するのはとても苦しく、簡単ではないケースが多いという現実は、社会にでて活動したり、「表現」に身を置いた事がある人なら身をもって理解しているのではないでしょうか。
絶望に打ちひしがれ、幼き頃に聞かされたメッセージなんて忘れてしまう事もざらにある事でしょう。

はっきり言えば、きれいごとです。
分かっていても、それは行うことが、とても難しい。

しかし、「うた」はそれを成し遂げる事ができました。
その経緯の中には、「自身がきれいごとを受け入れることが出来ない理由」と向き合うという過程が存在していたことを、ここで今一度思い出してみましょう。

声が、壁を明らかにする恐怖。
壁に悲しみ、絶望する恐怖。
表現の先にある、拒絶への恐怖。
その恐怖は、足をすくませ、「表現」を諦める理由には余りあるものとなる事もあるでしょう。

だから 僕達は 歌うんだ

最後のこの一文は、それすらもわかった上で歌いあおう、お互いに声を出し合おうという
「表現者」全員への力強い鼓舞です。

「うた」の心の在り方を紐解いていけば、きっと同じような苦しみを持つ「表現者」も、恐怖や絶望を乗り越える切っ掛けをつかんでいけるのではと思います。

つまり『TRUTH behind U』は、
「うた」というキャラクターを通して「貴方の背後にある真実」に気付かせてくれる、そんな曲であると解釈しました。

○『TRUTH behind U』が私の琴線に触れた理由

最後に、私がこんなアホみたいな長い文量を放出するに至った理由、
すなわち『TRUTH behind U』が私の琴線に触れた理由についてを記しておきたいと思います。

今回のこの文章内で使用している「表現」という単語は、文章記事や音楽、イラストや芸術作品などの「何かを創作して公表する」事だけではなく、もっともっとシンプルに「会話を通じて、自分の事を相手に伝える」事も含んでいます。

で、私はその「表現」が、とある「壁」に阻まれて上手くできなかった過去があるんですよね。
そして、それが出来ずに躊躇していたら、残念ながら既に永遠の別れに至った相手がいます。

相手は私の父親です。

私は、前職でメチャクチャに病んでしまった過去があります。いわゆる、うつ病です。
前職ではノルマというものが存在し、達成できずに苦しむ日々が続いていたせいで、すっかり職を続ける自信を無くしてしまっていました。

でも、その職に就くまでには専門的な勉強を学生時代の5年間を費やしてきた「過去」があり、またその職に就いたことを父親・母親・血縁者のみんなは喜んでくれていたという「実績」がありました。
さらにいうと、その職はごく一般的には将来安泰となる仕事と認識されている「優遇」がありました。

簡単にいえば、「辞めたい」と簡単に言えない環境がそこにはあったんですね。
それは自分の学生時代を無駄にする事になるという恐怖、そして周りの人間すべてを失望させてしまうかもしれないという恐怖、そしてなによりも、世間的には優遇されていると認識されている仕事を「辞めたいという気持ち」を誰も理解してくれないだろうという恐怖がそこにはありました。

言い換えるなら、
私の「仕事を辞めたい」という意思は、周りにとっては「のろい」のようなものでした。そして、自身に「仕事を辞めてはならない」という執着も生まれていたのです。

そんな中、私の父親はガンに倒れました。
とはいえ、すでに両親は数年前に離婚をしており、父親は別の家に住んでいるという状況だったので、知らせを受けるまでの期間はあまり交流らしい交流はできていませんでした。
つまり、私の父親は「息子がうつ病で苦しんでいる」ことを全く知らない状況でした。

見舞いを重ねるごとにやせ細っていく父親。
あぁ、これはもう長くないのだろう。それが目に見えてわかる日々でした。
すでに別居状態とはいえ、肉親の死が目の前に迫っているという事実は私のうつ病に拍車をかけ、とうとう自分は心を壊してしまい、なし崩し的に退職をする羽目になってしまいました。

さて、再就職はどうしよう。
うつ病に悩みながらも生活の事は考えなければいけない、そんな日々に突入しました。

そうだ、せめて死の淵にいる父親には
早くこのことを伝えなければ。

すまない、あんたの自慢の息子とやらは、あんたの自慢となっていた就職先を続けることはできなかったよ。
なぁ、どうすればいいと思う。うつに苦しみ、明日も見えない暗闇に襲われている自分は、どうすればいいんだろう。
最後でもいい。父親として、相談に乗ってくれないだろうか。

そんな風に私は、伝えたいという理由を利用して父親に甘えようとしました。
しかし、病室で面会し、仕事を辞めた事を切り出そうと思った矢先、父親は私にこう話したのです。

「なぁ、お前は本当に俺の自慢の息子だよ。もう最後かもしれないけど、ずっと自慢できる息子でいてくれてありがとうな。これだけは、声が出るうちに伝えたかったんだ。今日は来てくれてありがとう」

闘病生活ですでに声が枯れている状況で、
精一杯、絞り出すように、そんな事を私に話してきたのです。

あぁ。
これは、甘えようとした罰なのだ。
死にゆく父親に甘えようとした私の心の甘さが招いた、罰なのだ。
自分が仕事を辞めたという事を、死にゆく者に伝える事すら許さないという、最大級の罰なのだ。

その日は結局仕事の事を話せずに病室を後にしました。
そしてその数日後、父親は「緩和ケアを目的とした病棟」に移動し、とうとう会話をすることができなくなったと報せが入りました。

この瞬間、私の中の「執着」は解放されました。

自身に渦巻いていた未熟な感情すべてに真正面から向き合いました。自身が辞めた仕事に対して抱いていた感情を、すべて明らかにする作業に没頭しました。

思春期に拗らせた、離婚した両親に抱いていた感情にも真正面から向き合いました。自身の甘えが発生する感情の発生元の蓋を開け、そこにあるものを全て明らかにしていきました。

結果、自身がうつに苦しんでいる原因は、まさに自分の中にあったことを突き止める事ができたのです。
そして、自分の人生は自分の意志で決めてもよいのだと、自分を許すことで「命のある意味」を得ることができました。

もっと早く感情との向き合い方を理解できていればとか、なぜこうも未熟な自分を変えることが出来なかったのかとか、その後も後遺症のように、かなりの精神的苦痛を長い期間伴う事になりました。

そこから数日後、私は再就職を決めることができました。
父親の墓前では、「すまんな、仕事やめて再就職したよ」と
臆することなく報告することができました。

うつが治ってから、
ようやく数年になろうとしています。

今は、あの時の鬱蒼とした感情こそが、自身を変える切っ掛けであったと納得しています。
あのすれ違いのような会話があったからこそ、自身を見つめなおす切っ掛けになってくれたのだと父親には感謝しています。
そしてあの出来事がなければ、今でも自分を許すという気持ちにはたどり着けなかったのかもしれません。

現在職場では、うつ病や心のバランス調整に苦しむ人に寄り添うことが出来るようなポジションで働いています。これもまた、命のある意味なのかもしれないな、と自身の境遇を振り返る昨今です。

『TRUTH behind U』のストーリー性とメロディは、そんな未熟だった自分の過去とリンクして強烈なカタルシスを誘発しました。

自分の忌々しい過去の想いですら
「祝福の証」であると鼓舞し、
喝采を浴びせてくれているような気がして、
プレイしたり聴いたりするだけで、
今でも何回でも心が熱くなります。

今の今まで『TRUTH behind U』に対する感情をうまく言語化できていなかったのは、長く続いた自分の「のろい」が最後の妨げになっていたからかもしれません。
その「のろい」ですら、たった今、こうして言語化できた事によって愛で包み込むことができたような、そんな気がします。

○ さいごに

『TRUTH behind U』は、直訳すると「あなたの背後にある真実」です。

今回、『TRUTH behind U』の解釈を進めたことによって、改めて己の心の背後にある真実を見つけることができたような気がします。

今後の人生にも、
様々な転換期が訪れるかもしれません。

えげつないほどの絶望に再度、
打ちひしがれる時がくるかもしれません。

しかし、自身を振り返る苦しみを鼓舞に変えてくれたこの曲があれば、この先も「声を出して壁を照らし出し、悲しみを愛で包み込んでいける」ような、そんな気がします。


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さぁ、考えてみてください。
これが、たった2分に凝縮されているんですよ。この約25,000文字の内容が、2分の間に入っているんですよ。とんでもない事じゃないですか。『TRUTH behind U』、ヤバくないすか???????

こんなに脳と心を揺さぶられる素敵な曲をつくってくれた「Zutt」メンバー各位には、我が命尽きるその時まで感謝の念を忘れない事と思います。

伝われ…ッ!
『TRUTH behind U』は
すごい曲なんだという事…ッ!!!
伝われ…ッッッ!!!



だから最後にもう一度、
「声」を出して伝えます。

諸君、私は『TRUTH behind U』が好きだ。
諸君、私は『TRUTH behind U』が好きだ。
諸君、私は『TRUTH behind U』が大好きだ。


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