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優しさは想像力だとおもう。

好ましい人間は、やはり優しい人だとおもう。

でもぬるま湯みたいな優しさは時に本当に他人のためにならなくて、「優しい」という言葉の持つ幅についてけっこう考えてきた。
わりと長いこと「頭のいい人」とか「賢い人」と結論付けていたけれど、完全なイコールではなくて、補足が必要な表現だしすっきりしなかった。
最近は、優しさは、つまるところ想像力だと思っている。

他人を思いやることは、めちゃくちゃ頭を使う行為だ。まず当然その人個人の状況や思考や思想を慮らなくてはならないし、時にはその人の家族や友人関係も加味する必要があるし、自分の発言や行動がその先どんな影響を及ぼすかできる限りの可能性を洗い出さなくちゃならない。
言葉は万能ではなく、角度によって実によく色を変えるから(それが面白いのだけれど)、下手したら簡単に他人を呪ってしまうこともある。ひとは大なり小なり他人に呪われながら生きている。そして、人なり言葉なりの出会いによって、呪いを解きながら生きている。

こういった諸々をまとめて、わたしは想像力って表現したい。
他人の気持ちなんて分かるわけがない。この世にエスパーなんてない。
言わなくちゃ分からないのは確かにそう、でも言葉にしきれないことだってたくさんあるし、言葉にしてもそのままじゃ伝わりきらないことだらけだ。まずそれをしっかり分かったほうがいい。
過去も今も未来もぜんぶ踏まえた上で、一番その人やその人たちのためになるであろう言葉なり行動なりを、想像して回答してみるしかない。
最適解は、想像力の持ち札が多ければ多いほど導き出しやすい。そこに至るまで、けっこう頭を使う。少なくともわたしはそう思う。
だから「頭のいい人」ってなんとなく表現してきたけれど、勉強のできるできないとか関係なくて、ただ、想像力がどれだけ培われているかは、触れてきたものの多様性や考えてきた総量にある程度比例すると思う。

文章の読解力がどんどんなくなっているとか、問題視というかさんざん言われ尽くしているけれど、そうやって「読解力」とか一方向からの提示をしている間に、想像力がどんどん失われている気がする。社会問題とか言われるとよく分かんなくなっちゃうけど、優しい人が生まれそうな話だとはあんまり思えない。

たぶん、みんなもっと本気で感動したほうが良いとおもう。
本当に良いものをなんでもいいからたくさん見たほうが良いとおもう。スマホはたまに電源を切ったほうが良いとおもう。時には散歩してみたら良いとおもう。ほんのちょっとした自分だけの時間をもっと大切にしたら良いとおもう。美味しいものは凝ったものだけじゃないとおもうし、ちょっと照れるけどやっぱ空とか星とか綺麗だし、人間が創り出す凄いものに私たちはほんの、ほんの一部しかまだ出会っていない。

わたしは、どうせなら、本当の意味で優しい人間になりたい。だからいっぱい感動して考えて傷ついて笑って生きたいとおもいます。

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