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歯が健康だという安心は持ち続けるべき

東京に出てきてから、ことごとく良い歯医者に巡り合えなかった。
歯科医師が「歯の治療は土木工事」と言っていた、と人伝てに聞いたことがあるが、そうなると肝心なのは歯医者さんへの信頼度がいかに高いか、だ。歯医者以外にも、病院全てに言えることだと思うが。というか、「先生」という呼称を使う全ての職種に求められるのは、信頼だ。

去年までなんだかんだ1年以上通った歯医者を、ついに変える決心をした日は、それは悲しい気持ちになった。正直、なぜそこまで頑なに通っていたのかと思う。しかし、歯医者ジプシーのわたしは、「まぁ許容範囲」と思える歯医者からまた次の歯医者を探し求める煩わしさより、我慢して通い続ける方を選んでしまったのだ。(実際そこも、ひとつ前の歯医者がどうにも我慢できなくて変えた結果だった)
思えば、デフォルトで30分以上待たされる、前回の治療で何をしたか何を言ったか全く覚えていない、そのため約束したはずの事柄を余裕で反故にされる、治療がうまく進まないのはわたしの親知らずの生え方が悪いからだと言うが、その抜歯の予約が半年先まで取れない、などなど、具体的なクレームはいくらでも浮かぶし今度こそ言おうと何度思ったかしれないが、結局黙ることしか選べない性格をしている。ついにもう限界だなと思えたとき、いつも通り悪びれない受付で次の予約を聞かれ、しっかり10秒黙ってしまった。悲しくて言葉が出なかった。
「予定分からないので、予約取らないでおきます」とわたしが言うと、焦ったように、待たせたことを詫びてサンプルの歯磨き粉を渡してきた。これこの前ももらったけど、すごく不味くて使えなかったんだよなぁ。やんわりと断り、肩を落として、とぼとぼと帰った。心に石を積まれ続け、それが崩れるまで放っておくと、とにかく悲しい気持ちになるのだと知った。はぁ、また歯医者探さなきゃ、いいとこ見つかるかな。

そして今、わたしは新しい歯医者で、これまでの苦労が嘘のようにすぐ治療を終え、3ヶ月後の定期検診の予約まで完了している状態だ。前近所に住んでいた友人に聞いたら、とても良い歯医者を教えてくれた。あの我慢の日々はなんだったんだ。友人に何度も何度も感謝の気持ちを伝えたのは言うまでもない。そんなに?と笑われた。そんなにだ!
わたしのような歯医者ジプシーの方々、東京にはちゃんと良い歯医者がありますので、どうか諦めないでください。

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『フェルメールと17世紀オランダ絵画展』
⦅窓辺で手紙を読む女⦆の本来の姿をこの目で見られたのは、本当に幸せなことだと思う。修復過程の映像を見たときは、頭が下がる思いがした。文化を、芸術を、探究し続ける熱意があればこそ、これからの人類が肯定されていく。

わたしの歯医者の話にどうしてフェルメール展がくっついたかというと、展示されていたコレクションの中に、歯医者の絵が2つあったからだ。
ひとつは、ヘラルト・ダウの作品。歯医者の男性の隣に、口の中に手を突っ込んだ少女がいる。その位置の奥歯の治療はしんどいぞ、かわいそうに。
もうひとつが、ヘラルト・ファン・ホントホルストの原画に基づく複製版画。(ドレスデン国立古典絵画館は、複製版画の所蔵でも有名とのこと)
仰向けになった患者を、6人の男が覗き込むように囲んでいる。真上から見下ろすのが医者。灯りを持つ人、そして棒を持つ人が2人もいる。なぜだ、患者が暴れ出したら襲いかかるのか。何もしていない野次馬も2人ばかし。患者は恐怖の顔で右腕を上げているが、その右腕は野次馬の手によってしっかりと掴まれている。医者以外の男たちの覗き込む顔が、なんとも腹立たしい。なんだその顔は、怖いもの見たさってか。

虫歯は命に関わる病気だと言うが、本当に、麻酔と安心の治療が進歩したこの時代に生まれて良かったと思う。当時の治療って具体的にどんな感じだったのだろう。いや、あまり知りたくはない。ちょうど読んでいたメルヴィルの『白鯨』に、見事な技ですぐ虫歯を抜いてくれる医者、みたいな部分があった。とりあえず、信頼とかそういう話ではないな。
今の時代は、信頼している歯医者であれば、多少痛くても「ごめんね、もうちょっとだけ!」と言われれば、「あえて麻酔使わないでやってるんですね、承知」と思えるところはある。が、そのくらいの信頼でどうこうなる問題じゃないだろう。あの患者の顔と、覗き込む男たちの顔が、それを物語っている。

歯は本当に大切に。そして、信頼できる歯医者の存在も大切に。
フェルメールを見にいって、歯医者の話をすることになるとは思わなかった。次の定期検診は、6月です。

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