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月曜モカ子の私的モチーフvol.257「エルピスー希望、あるいは災いー」

先週の火曜にジャズピアニストの上山くんとエルピスの話をして、その時タイムリーに妹のミイ子がエルピスのことを呟いていたから、水曜にU-nextでエルピスを、最終話をのぞいて全部観て、そして上山くんと「我々も我々のできる限りのことをやろう」とメールを交わし合い、24日のChristmasを全力でやりぬき、そして今夜エルピスの最終話を観た。

このドラマに衝突してまた人生が変わってしまった。

ただ前回自分の人生を変えた2015年の「アラビヤ」という出来事と比べると、今回は「確認」という変わり方だったから「アラビヤ」の時の脳天かち割られるような「落雷」とは違う。
違うけれども衝突のサイズは同じなので、見終えてしばらくは放心して自身の中に湧き上がるエモーショナルを処理しきれなかったので、
Horie-Monさんが撮影してくれたクリスマスの動画を確認しながら想いを固めた。想いを固める、というか想いは固まっているのだが、それをどう言葉にすれば良いのか、思案する。


インスタのストーリーの投稿のバグでなぜか画像で残ってしまった
この瞬間の切り取りがわたしにはすごくこの夜を象徴して思えて、お気にり。

よくも悪くも、酒場というのはシャンパンタワーの一番下の段であり、
トップダウンで決まってく様々な出来事が最後に到達するところであり、同時に世界の綻びが真っ先に顕在化する場所でもある。

イーディ女主人兼小説家。小説家、という職業も持っているわたしは、あるいは筆を通して世界を変えることができる可能性も持っているかもしれない。けれども酒場という場所は、なかなか単体でそこからは世界を変えるのが困難な場所である。なにせ場末という場所、そこから世界をひっくり返すのはなかなか難しい。だから所詮酒場で起きる出来事といえば都知事選の時に「山本太郎」を推していたヤマネコが「そういう思想的な行動ここでやめてよ!」とわたしに怒られながら撒き散らかしたたピンクのビラが、帰ろうと思って扉を開けたら、滋賀から持ち帰った信楽焼のたぬきのところに挟まっている、所詮そんなところ。当然わたしは極端な思想の店だと思われたくないので、それをゴミ箱に捨てる。

同時に2015年の「アラビヤ」を経験したわたしは、小説家という職業がたとえ筆を持ったとて「世界を変えられる」という考えにも懐疑的絶望的。
あのとき、キムタクよりも我々の方がUAEの人たちの中では有名人だった。
中東の人たちは「イスラム国」一連の世界の報道を「CIAの策略でありプロパガンダ」だと言った。中東の人たち、というか我々は国賓であったので、街で会った市井の人が言ったのではなく、いわゆる日本でいう官房長官的な役職の人たち(例えね)がわたし達にそう言った。

「やりすぎコージー」とか「月刊ムー」とかが多少エンタメ的なニュアンスを含めて発信してるのではなく、
国家、と呼べる段階、または役職の人たちがわたしたちに
「真珠湾を攻撃”させた”のは誰か知っていますか?」と訊ねる。
第二次世界大戦の本当の黒幕を知ってますか? と。
東からみるのと西から見るのと、世界は真っ二つで真反対だ。

今だってそうだ。全ての報道はワクチンを無害だと言っているけど、
最近ネットで大きく声をあげた福島教授は、ただのガヤではなく京都大学の名誉教授で、そしてこの一連のニュースをテレビではどこもやらない。
これを我々は、どう解釈すればよい?

ジャマール閣下はこう言った。

「誰かが我々のパーカーを着て、街を破壊し人を殺している、我々(イスラム教)の仕業に見せかけ、この信仰を潰すために」

2015年リワ砂漠にて日没。

こんなこと、誰が信じる?
つまりはわたしが、実際に見聞きしてきたことだとここで語っても、誰がそのわたしが対峙した人たちが、その国を動かしている人たちで、それがその国の思想そのものだったと、誰が信じる? その人たちが「アラビヤと日本は実はDNA的には同じである」といういわゆる「ニチユ同祖論」を唱え、最後のランチの時に燭台が置かれた長テーブルで「コーランの最後の部分、つまり世界の終わりは近づいている、我々は同族として立ち上がらなければ」的なSPECの映画版のようなことをわたし達に言ったと、誰が信じる?
夢を見ていたんじゃない? と、友達に優しく言われたらそうだったのかもしれないと、思ってしまいそう。

もしくは映画「イミテーションゲーム」のガンバーバッチ先生のように
”Do you pay attention?”と怪しい目つきで言ってしまいそう。

Heritage Village。今見ると「TENET」みたいだなぁ。

そこからわたしはこんな真っ二つの世界で、
互いが互いの視点や政治的角度から見た景色だけを流していくプロパガンダな報道や世界の中で「自分の筆が世界を変える」などという妄想については具体的に思案しなくなった。
そしてわたしが始めたのが「Utatane」である。

つまりシャンパンタワーの裾野の、場末のBARで、とにかく今夜、たった一つでもいい、オセロを白くする。また明日、その隣に黒が置かれ、今宵の努力が台無しになったとしても。

つまりは2015年以降のわたしというのは世間的には毎年1冊ないし2冊とか精力的に新刊を刊行していた中島桃果子がいきなり何も出さなくなって、突然絶筆した、感じであったのだが、わたしはともかく末端から世界を良くしていくことに必死だったんである。この裾野で一つでも多くオセロを白く変えるとが、著者人生よりも重要だったんである。

そうして悟る。シャンパンタワーの末端で毎日オセロを白く(イーディを開業してからはUtataneがイーディとなった)替えようと必死にもがいているけど、大きな圧力、トップダウンに抗うというのは大変難しい。

店にお金が国や都から注入されなくなり、だったら感染を煽らないで欲しいのに(金くれと怒ってるわけじゃない)きっちりそれは煽ってくる。
同時にコロナ優良店の立ち入り検査はいつしますか、とかいう電話が区からかってきて「それを受けないと虹マークを剥奪しますよ」と言う。なぜ飲食店にこんな厳しい風を吹かせている大きな力に、我々が半ば脅されながらそんな協力をせねばならぬのか。
その虹マークの更新は、我々を何から救ってくれるのか。

わたしは検査を断り、そしてイーディは虹マークを、剥奪された。

電飾をまとい具体的に光ってみた2022のクリスマス女主人。

今、わたしにはある角度から見た場合「やるだけのことをやった」自負がある。それは著者という角度から。

アラビヤで受けた脳天かち割られ級の「人生の大衝突」以降、メジャーでの書籍刊行よりも末端から世界を変えることにいそしみ、その集大成として書き上げた激烈大傑作が、太宰賞の一次審査も通過しなかった。
(なんども書いてますがこれ審査の問題でなく自身の人生の話で筑摩書房への批判や抗議ではない)

ああ、そうか、まだまだ自分は未熟だった。力及ばす。
もっと精進して……なんて反省できるほど生半可な13年じゃなかった、
メジャーでやってきた2009年から2014年も、
「イラストレーターが絵を送ってこない」という謎の理由で最終話まで納品した連載が突然更新されなくなった2015年も。
世間的に絶筆していた2016年から2020年も。
わたしはいつだって死ぬ気で中島桃果子であり続けていたから。
その、著者であり続け、問い続けた自身の疑問への究極の答えが2020年の春に書き上げた「わたしと音楽、恋と世界」だった。

(今思えばあの連載中止は本当にエルピス的に謎だった。掘り下げるのが怖いので掘り下げないけど、あれはラノベでまさに”フライデーボンボン”みたいなクソエンタメコンテンツ、社会性とか無縁に見えたけど、やっぱりそこでも小さな花火を放つとそれは何か不都合な相手に見つかるものなのだ、あの中止の理由は絶対にイラストレーターではなかったはずだと、今わたしは改めて確信している)

「宵巴里」という作品を刊行できた。素晴らしい。
内容も素晴らしいし、クルーも素晴らしい。何より「刊行」できたことが素晴らしい。

同時にこれは、エルピス的に言うと「ニュース8」に戻ってから最終回までに恵那が今できる全力の「自身の仕事」としてやっている仕事に近い。

別に社会的な小説を書いてないんだけど。
そういう意味じゃなくって。

今わたしがイイと思うことと市場やマーケットや、何よりも出版業界が全く正反対の場所にあって、アラビヤに例えるならわたしは東から世界を見ていて、市場は西側から世界を見ている。
わたしは市場が一次を通過する価値もないと考えたあの作品が「良くなかった」ということが、正直全然わからない。
恵那の言葉を借りると「もう、これ以上」飲み込めない。

わかっている。あれはまだ原石的なもので、あのまま出せるものではなかったかもしれない。でも漫画でいうラフだとしても、魂はちゃんと書き抜かれていたはずだ。

あれが下読みも通過しないシロモノだと言うなら、じゃあ、一体何が、
「揺れている時代の熱い風に吹かれ」「からだ中で時を感じる」小説であり、文学なの?
うん、そうだね、そういうものは、今要らないんですよ、
今揺れている時代を見たくないし、からだ中で時を感じたくないんです、
読者は。ってことなんだよね、西側が感じる市場リサーチ。


と。笑。
ここから怒りを綴るつもりは実は全くなくって。
エルピス。
そういうような環境の中でプロデューサーの佐野亜裕美さんは、これをやり遂げたのだ。しかもNetflixとかそういう選択じゃなくて、わたしがやった「プライベート出版」のようなチョイスでもなく。
ゴールデンのテレビドラマで、地上波に、乗せた。
この作品のためにフジを退社して。企画から6年もの間、諦めなかった。

もうそのことが凄すぎて。


最終回。

これは極めて個人的な意見になるけど、場末の酒場で、毎日オセロを1枚でも白く、をモットーにやってる女主人的には、とても、身につまされるラストであり、リアリティのあるラストだと感じた。

大きな権力を倒すことはできなかった。
でも、1つオセロを換えた。そしてそのオセロは1つ、というか一人の人間の命であり、それを取り巻くたくさんの人間の人生である。
つまり1枚のオセロが裏返った時、一気に実は一列、オセロは裏返ったのだ。この出来事の尊さがわからない人は、人生の批評家ではあるけど自身が誰かのためや何かのためにたとえ自分自身のためだけにも戦ったことはない人ではないかと思う。”戦う君の歌を、戦わない奴らが笑うだろう” というか理解しない、そんな感じ。

あまりしょうもないことをピックアップしたくはないが最終回終わってすぐ「エルピス」について「業界内の評判は良かったのに視聴率が振るわなかったのはなぜ?」みたいな煽り記事がいくつか上がっていた。
これって超エルピスだなと思った。誰かがこれを「テレビ的失敗」とプロパガンダしている。正直わたしはこの記事を書いた人たちを気の毒に思った。
そしてこれをやった人たちが3話くらいまでの村井だったらいいのに。と思った。あるいはあの事件の真相を岸川に語った挙句岸川を嵌めた元警部的なやつだと思いたい。

エルピスは成功した。テレビ的にも。
Tverの上位に食い込んではいたが・・・って、まさにそれが何を意味するかって、子育てやご飯の支度や後片付けや、いろんなことをしながらとりあえず付けといて「ながら見」できるドラマでなく、きちんと自身の時間の中で対峙した人が多かった証拠じゃない?
エルピスは成功した。極めてテレビ的に。

これはハヤシライス。

そしていち視聴者としては、もうあの、チェリーさんがカレー作ってるくだりからのショートケーキ二個のあのシーンを見れただけで、
明日からも生きていこう、そう思えた。
号泣したよね。

ああ、そうだな、ここへ向かっていたんだよなって。
ああ、そうか。これが始まりだったもんな、って。

人は一つのものを追っているうちに、その先にいろんな蛇を見つけてしまって、それを退治しなきゃ勧善懲悪じゃないって感じになってくんだけど、
そもそも勧善懲悪って誰視点からの懲悪なの?って考えていくと、最後の恵那のビフィズス菌的なナレーションにつながっていく。

そこで一番確かなもので、この物語の起点になったのは、チェリーさんの想い、なんだよな。

そうなのだ、たった1つオセロが裏返ることに、数十年がかかっているのだ。
これがリアルの出来事であったなら。

アラビヤがわたしの順当だった(売れてはなかったが絶えず大手出版社からの依頼があったので・・・)メジャー人生を変えた。
それはまさに「希望、あるいは災い」であった。

そして今、エルピスがまたわたしを変えた。

確認、という形の静かな衝突で。

わたしはきっとやっぱり、根津の路地を照らすことだけに今後も集中するだろう。シャンパンタワーの一番下で、明日にはひっくり返されるオセロを、それでも全力で白く、いや黒く? 何が正義かわからないのでエルピス的に言えば「夢色に」ひっくり返してゆく。

それが今の、わたしの「仕事」だ。

          月モカvol.257「エルピスー希望、あるいは災いー」


メリークリスマス🎄✨❄️
わたしと栞はこの日全力でオセロを裏返した。

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☆モチーフとは動機、理由、主題という意味のフランス語の単語です。
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