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月曜モカ子の私的モチーフvol.247「拡張してゆく」

拡張してゆく。そのことはもう止められない。
拡張の時が、きたのだ。

明後日6月1日に、新刊「宵巴里」のビジュアルを解禁する。
装幀デザインといいポスターといい、信じられないくらい素晴らしい。
拡張してゆくこと間違いなし、である。

そして拡張には”じぶんひとりですむ問題じゃない”というところ発の、
ある種のふてぶてしさと凛とした佇まいと、それらが実際は一つの名前で押し出されることを抱えられるカリスマ性が必要だ。
今回ポスターには、最低限関わった人々の名前をクレジットしてもらったけれど、通常作家の新刊の告知は、新聞とかでもそうだが著者名とタイトルと出版社しか載らない。
けれど、その本はひとりで作っているわけじゃない。

つまり執筆しているときは、親しい友人や常連にその内容をあれこれ言われても「わたしだけの問題」で済むし、多少自虐的な態度をとってもみんなの真意や意見を取り入れることも市井を知る上では大切だったけど、
今からはもう、軽口でも「こんな本」とか「あんな本さ」とか、口が裂けても人に(群衆でなくて近しい人)に言わせてはいけない。

書籍である「宵巴里」への軽口は、編集者壷井さんへの侮辱であり、
装画の中村さんへの侮辱であり、装幀の松本さんへの侮辱であり、
頑張って売ってくれる滋賀のがんこ堂への侮辱になるからだ。

シズル感あるアイス珈琲の撮影に注力。

本を出すことがどういうことか、小説家という職業がどういうものか、
著名でなくともウィキペディアに文化人として掲載されていることがどういうことか、当然自分は知っていたので、三年前のオープン時から、こういう日が来ることは想定して店づくりを進めてきた。
それはどれだけお客さんが来なくても気高くあることで、どれだけお金を使ってくれる常連さんに対してもホステス的な接客をしないことである。

「生意気」「高飛車」「偉そうに」「何様気取りで」

と思われることは最初からわかっていて、それをしても守らなくてはいけない世界線というものがあった。それは、自分は小説家であり、
池田栞というファンが店内にいつもいて、
そしてわたしはいつか新刊を出し、そしてわたしが沈黙を破って本を出すとき、それはこれまでの著書より確実に「拡張する」からであった。
何様気取りかと問われると自分は実のところ「桃果子さま」なのであった。
そしてそれは気取り、ではなく事実、なのであった。
そしてそれこそが「#私の仕事」なのであった。

時が、静かに近づいている。拡張の足音。同時に感じる。
ある種の別れ。何かしらの惜別、も、そこには包括されるのだろうと。

2012年ブログアイコン。

今日、仲良しの常連さんとの6月末のご飯を断った。
常連さんの後輩夫妻のアテンドでの4人のご飯だった。
建前の言葉で断るのも嫌だと思って。正直に言った。
十年ぶりの単行本が刷られ納品される月に、ほんの2時間でも、
ホステスみたいなことをしたくない、ということ。
(水商売の観点で言うと非常に傲慢なセリフです…)

その人は理解を示してくれて、はっきり言ってくれてありがと、って言ってくれた。もし怒らせたら、相手の機嫌をとる行為もホステス仕事だからできないな、そう思っていた。
残念だけど、ここまでの付き合いかもしれない。と。

こういうことが増えていくかもしれない、と思う。
みんなが思っている「気さくで付き合いのいい女主人のモカコ」「当日でも時間があれば飛んできてくれるモカコ」と、新刊を出して作家然としてゆく「歴然たる中島桃果子」にはギャップがあるだろうか。
変わった、と思う人もいるかも。
開店当初に随分支えてやったのに、と、思う人も。
もちろんなるべく乖離しないように2019年からやってきた。
皆に面白い冗談だと思われながらも「わたしは天才作家です。売れてはないけど、いつもいいものしか書いてない」とはっきり言ってきたし、
ウソは一つもつかなかった。

けれど、人はその人の見たいようにわたしを見ていたはずだから。
コロナ前のたくさんの人が出入りするイーディを知ってる人はイーディをカジュアルな酒場と思っているけど、コロナ以降のレジスタンス的な、
サロン的なイーディから知った人は、ここをスナック、つまり水商売的なお店と思っているかもしれない。お客さんが、女主人というよりは ”ママ” を、心配してお酒を奢ってくれるような、そういうお店。新しい人の来ない、
閉鎖的な時短営業の中ではそういう雰囲気に、
だんだんと、なって行ったからね。

マジョリ画

だけどイーディというのは、そもそも女主人のいる店で、
女だけど主人であるから、自分の足で魅力的な店を作り、そのファンの人が通ってくれる、基本的に貸し借りゼロのお店のつもり。
色恋酒場じゃないし、お金を使うお客さんが偉いわけでもないし、
お客さんの奢ってくれるお酒に依存しない。
(依存しないけど奢りたい人は奢ってね、このモカコ様に…奢らせていただく、くらいのスタンスで……ペコリ。)

これから本が、世に出ていく。
たくさんの出版業界の才能をお借りしている。
飲食店ではそれが挨拶のようなものだとわかっていても、
わたし、もう、謙遜はしていられない。

イーディとがんこ堂で始まるけど、SNSとWebstoreがあるからそれはもう全国発売で、全国から読者が来る可能性がある以上(すでに北海道と千葉から通ってくれてる)、根津の町内の空気を読んだ店づくり、
も、していられない。

結果それら全部が生意気で高慢ちきに見える可能性があるんだけど、

カリスマとはそういうものだ。笑。

カリスマとは、生まれながに放つ光ではなく、
心にはそういう惜別や迷いを持ちつつ、
こちらから敢えて「嫌われにいくしかない」という、
その行為がもたらす気迫なのだろうと思う。

トム・クルーズはテレビ番組で「ちょっとお願いします」と言われたあらゆるオーダーを「ごめんそれはできない」ってことごとく断るけど、
ああやってレッドカーペットでは全力でファンに対応する。

ここを立てたらあっちが立たないことってあって、
自分が誰かのファンだったら、
その神様が、自分からみて程度の低い人間にへこへこしていたりパワハラやセクハラを受けているを見るのは、絶対に嫌だと思うんだ。
なので圧倒的カリスマでいてくれる志磨さんが好き。

イーディはそもそも開業時から「自称カリスマ女主人」のテイでここまでやってきたので、ファンの子が来たときにそういう忸怩たる思いは絶対に起こらないようになっているし、ご飯を断った常連さんも「店辞めて作家だけやれって言ったのは俺だからな」って返信をくれた。申し訳ない。
女主人の職業だけを言えば、なるべく腰低くなりたいし、
お客さんが望んでいることをわたしでよければ叶えてあげたいと思う。
きてくれてありがとう、と思っているので。

2013年/横浜。船の中にて”船パリ”。

ただ、拡張の時がきたのだ。
少なからず、誰かに誤解されるだろう。
誰かに「変わってしまった」と言われるだろう。
ただ、それは、わたしの視点から言うと、
その人がわたしのことを「その人が見たいように見ていた」だけなのだ。

なぜならわたしは2009年から2014年まで、そもそもれっきとした作家だったし、2019年から2021年も気持ちの上ではれっきとした作家だった。
(売れなくて店を)とか(落ち目になって)とか(気さくで腰が低いところが魅力)とかいうのは相手が勝手に見つけたわたしの魅力であり、

それらはもうせん、わたしの本当のファンたち(親友含む)からみた魅力ではなかった。

本当のファンたちはわたしが地下生活をシクシクとしているときも、常にわたしに敬意を払ってくれていたし、どれだけぶくぶく太ろうとも「スター」として扱ってくれた。例えば友人のマヤウーだって、どう考えても彼女のオーラの方が芸能人なのに、ことあるごとに「モカちゃんはやっぱスターだわ!」って言って、常にわたしを立ててくれた。

そういう人たちのために輝く時がきたのだ。
自分の手中にわたしを収めていることが自己承認な人たちと惜別して。
(イーディの常連にそんな人はいないよ、一応言っとく)
まあ、そういうことなのだ。

できる限りの別れを最小限にし、できるだけ嫌われないで行きたいが、
こればっかりはわからない。
装画と装幀が、素晴らしすぎるので。
それに見合う小説家にならなければ、作品に叱られるだろう。

小説家は第三形態に入る。
(第一形態=2009年〜2012年、デビュー初期/
   第二形態2015年〜2021年アラビヤ以降絶筆期/
   第三形態=2022年〜謎「宵巴里」から始まる拡張期)
店はそれに付随したものなので当然第三形態に入る。

2019年から一緒に盃を交わしあった皆が、全員同じこの、拡張する宇宙船に乗ってるといい。

昨日のレディオは【ON AIR】でした〜

重ね重ねになりますが「宵巴里🌙」のビジュアルは明後日水曜、
6月1日のイーディオープン投稿にて解禁します!

2011年、第一形態の頃の中島桃果子、後ろにクリムトあり。
<モチーフvol.247「拡張してゆく」2022.5.30>

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☆モチーフとは動機、理由、主題という意味のフランス語の単語です。
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