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月曜モカ子の私的モチーフvol.198「灯(あかり)(2019.01.14 アーカイヴ)

ここ数年、正月はずっと母の実家で過ごすようにしている。折に触れ登場する江戸末期に建てられた古い屋敷のことで、わたしは幼少期をここで過ごしているので、あまり他所の家という感じがせず過ごしていて落ち着く。
                          
先日はそこの仏間と隣の部屋の間の襖を外し、大宴会が行われ妹と妹の旦那たちを含め十数人がそこに集ったのだが、普段は90歳の祖母がひとりでその屋敷で暮らしている。
みんなも小学校に久しぶりに行って、教室や机がしごく小さく見える体験なんかしたことがあると思うのだけど、祖母の家でステンレスでできた小さくて深い風呂なんかに体育すわりをして入っていると、このお風呂ってこんなに小さかったっけ? このお風呂にあの背の高いおじいちゃんと二人入っていたのかあ、なんて思うし(しかしその頃わたしはベスフレくらい小さいのであるのだよな祖父に風呂に入れてもらっているのだから)、また、宴会をした仏間も、小さな頃は果てしなく広く見えたけれどこうやってみてみると、
まあ普通に8畳〜9畳の部屋なのである。

ただ、それはわたしの記憶との兼ね合いであって、
やっぱりこの家は広い。
田舎で土地がある古い屋敷は皆こんなようなもんなのだがーーいわゆる本家的な家たちーーもう「離れ」の部屋はほとんど使われていないし、叔母が若いころ住んでいた部屋も物置みたいになっていて、稼働していない部屋がいくつかある。で、何が言いたいか。
90歳の、基本的にはミノムシ状に毛布を巻きつけて眠るのが日々の祖母でも、祖母がそこで生き、1日を過ごしているだけで、その家には燈が灯っている。屋敷全体が息をしている。
燈が灯っているというのは、その家が生きている、生きているというか祖母によって生かされていることを表す。

                          
夜型なので、おばあちゃんが寝静まってしばらく経ってからチョロチョロとステンレスのお風呂に湯を張って(左からお湯が、右から水が出るタイプの蛇口)、2時とか3時頃に体育座りで入浴、真っ暗の屋敷の中でこの脱衣場だけに灯りが点いて、滋賀の冬に冷え切った屋敷にもくもくと風呂の蒸気が立ち上る中、体を拭き拭きこう思う、もしおばあちゃんがいなくなったら、この家からは灯が消えるのだろう。
そうするとこの家は死に近づいていくのだろうか。

ここではおばあちゃんがいなくなったら悲しい、という話じゃなくて、女の人が家に灯す燈は大きいということを書いてみたい。

                          
家に灯りを灯す存在、という言い方が「女は家にいろ」とか「女は家事をやる役割」とか、男尊女卑的な、女性にとってネガティヴなイメージと結びつくことが昨今多かったと思うのだけれど、なんていうのかな「火」というものは、具体的な効用よりも、「ただそこにある」ことへの安堵が多いように思う。ただそこに火が灯っているだけで人は「生きた心地がする」というやつ。

                          
それに対して「水」というものはもっと生命に直結していて「心地」とは無関係にそれが絶たれたら人は死ぬ、というやつだ。

いわゆる男の人が家族を守る、とか、養う、とか、食わせる、とか、必死に外で働くとかいうのはこの「水」につながっている感覚な気がする。

                          
ここで今日ジェンダーの話や男女平等の話とかしてしまうと、書きたいことと離れていってしまうので、そこらへんは割愛するのだけど、
女の人は火だなあと思ってみたりして、
灯りを灯すということは凄いことなのだなあと思ってみたりして。

(屋敷の施錠に関して従姉妹と揉める祖母⤴︎)

つまりさ、生き死にがかかっている時って「水」の問題になることが多くって、今みたいに職業やスキルを持たない時代、女の人は「なんにもできないくせに」とか「役には立たないもの」みたいに言われてきたと思うのだけど、
でも本当は「生きた心地」って、生き死にと同じくらい大切なことなんだよね。でも残念ながら、家に灯がともっている時、誰もそれに気づいていなくて、
その人がいなくなって、初めてその不在の大きさをかみしめるのだろう。
                          
その家から灯りが消えた時、男は何もできなくなるのだろう。

                          
何かしている、何か出来るから意味があるのではなくて、
そこに居るということにもう意味がある。
それが女の人であり、家に灯りがともっているということなのだろう。
90歳の祖母は、そこに存在しているだけで、
その大きな屋敷に、灯りをともし、家族を「生きた心地に」させている。

                     <イラスト=MihoKingo>

                          
ーモカコより追記ー
                            
本日使った「男」「女」という言葉は何かしらの役割の象徴としての意味合いです。
中には火のような父がいて、水のような母を持つ家族もあるだろうし、燈を灯せない女もいれば、燈をともし水も持ってこれる凄い男もいる。女性同士男性同士のカップルで、火と水、月と太陽のように役割を分けて暮らしている人たちもいると思います。わたしが今日伝えたかったのは、これまでの歴史で主に女性がしてきた「家に灯をともす」ということが、どれだけ実は凄いことかということであって、あと極めて個人的に自分のおばあちゃんのことを書きたかったのであって、ジェンダーに対する何かしらのアレではありません。
                            
個人はあくまで個人で、おのおの、唯一無二のスタイルで、互いに受け入れ認め合えればそれでいいとわたしは思っています。ただあまり細かく説明すると、エッセイの中に漂う風情みたいなものが消えてしまうかなと思い、
かといって言葉足らずで誰かを傷つけてしまうのもと思い、こちらに追記させていただくことにしました。

☆モチーフとは動機、理由、主題という意味のフランス語の単語です。

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