見出し画像

【磐梯山信仰と大伴修験のルーツ】

2年前の春、車を飛ばして、北陸から新潟へ日本海沿岸を巡り、阿賀野川沿いに会津盆地に入るという旅をした。
会津は、太古より列島各地との交流が盛んで、なかでも日本海側の広範囲な地域からヒトやモノの流入した歴史がある。
この旅では、海を渡り会津に移り住んだ古代の人々の足跡を感じ取りたいと思ったのだ。

旅の最終日は、会津盆地を東に横断し、猪苗代町三ツ和の出雲神社に着いた。磐梯山の裾野から、猪苗代湖方面に続く田園地帯に鎮座するこの小社には、ぽつんと鎮守の森が残る。  
参道から社殿越しに見る雄大な磐梯山はじつに見事で、この豊かな自然環境は、太古から人々をひきつける力があったのだとしみじみ思った。

画像1

                                 (出雲神社から北へみる磐梯山)

磐梯山は、約5万年前と明治21年(1888)に、大規模な山体崩壊・岩なだれを起こした。

5万年前の山体崩壊は表磐梯側で起き、日橋川の谷が埋められ、堰き止め湖として猪苗代湖が誕生するが、会津最古の遺跡として有名な、旧石器時代の笹山原遺跡(会津若松市湊町)や、縄文時代の法(ほう)正尻(しょうじり)遺跡(耶麻郡磐梯町)は、まさにその岩なだれによる流れ山地形の上にある。

笹山原遺跡では、2万8千年前の石器が多数出土し、その後の縄文時代や平安時代の遺構や遺物も広範囲に発見されている。法正尻遺跡は、約4500年前の集落遺跡で、大人数の集団が長期にわたり住み続けていた。
出土した土器には、関東や東北北部、新潟の土器の特徴があり、新潟のヒスイや栃木方面の黒曜石が出土したから、ヒトやモノが集まる交通の要所だったと考えられている。
同時期の巨大住居遺跡として、青森県の三内丸山遺跡が有名だが、そこを北部の拠点として、法正尻遺跡が南部の拠点とする、縄文の一大ネットワークがあったとしてもおかしくはない。

◇ ◇ ◇

明治21年の噴火は裏磐梯側で起き、水蒸気爆発により小磐梯(こばんだい)が崩壊した。
この噴火では、死者・行方不明者数が477人にのぼるなど甚大な被害を残したが、岩なだれが川をせき止めることで、桧原湖などの多くの湖沼群を作り、今では風光明媚な観光地となっている。
『磐梯山信仰』(橋本武氏)によれば、病悩山(やもうさん)といわれ、祟り(たたり)をなす山とおそれられた磐梯山は、磐梯修験の入(にゅう)峯(ぶ)修行により鎮め(しずめ)清められ、女人禁制の道場となり、潔斎(けっさい)ののち白衣のいでたちでお山かけをする霊場であった。近代になって修行の戒律が緩み、女人の登山が目立つようになったという。

興味深いところでは、磐梯山に登るときは鶏の卵を持って行ってはならぬ、磐梯明神のお怒りに触れてお山が荒れ、わざわいに遭うという古くからの禁忌があったという。
これは磐梯山頂の明神に捧げて埋めた鶏の霊のたたりとされ、古くは磐梯山を「鶏(にわとり)嶽(だけ)」と呼んだと話す古老もいたという。

この鶏嶽という名前の由来については橋本氏も首をひねるが、私は、会津のニワトリ権現(田島町)のことを思い出した。
本欄の『鬼渡神社と山の民の足跡』でもとり上げたが、かつてその田島地域では、災難があるといって鶏の飼育を禁じ、その卵さえ口にしなかった。
金達寿氏は、これを古代朝鮮の新羅がニワトリを神聖視したことに関係があると指摘したが、たしかに、同じ信仰を持つ人々が、磐梯山一帯にも移り住んだのかもしれない。

もうひとつ、「鬼渡神社」との関連はどうだろう。全国的に珍しいこの神社は、会津地域に集中し、会津若松市湊町にも存在する。
鬼渡(おにわたり)は、ニワタリ・ニワトリと変化し、多くは病気平癒を祈るニワトリ信仰に変化したが、私は、元来は山を渡ってきた製鉄民の神だったと考えている。
詳細は省くが、鬼渡神社の二柱の神は、もとは福井県の足羽(あすわ)神社に鎮座し、継体天皇(5~6世紀)皇子時代の大型治水事業を支えた。つまり、鉱物採集や製鉄の神であり、製鉄技術をもつ山の民(製鉄民)の奉じる神でもあった。

山の民は、良質の木材と製鉄材料を求めて各地を渡り歩き、製鉄の火に照らされた彼らの顔が赤鬼のように見えたことから「鬼渡」になったというのが私説だ。
やがて山の民が表の世界から消えると、その神本来の意味も忘れられ、ニワトリの神様になったと考えた。

猪苗代湖の西岸(湊町)では古くから製鉄が行われた。
その地に鎮座する荒(あら)脛(はばき)神社・須佐乃男(すさのお)神社・金(かな)砂(すな)神社はどれも製鉄の神だが、鬼渡神社もその一角にある。磐梯山を「鶏(にわとり)嶽(だけ)」と呼んだのは、その昔、鬼渡(ニワトリ)の神を奉じる一団が磐梯山へ入り、盛んに鉱物の採集を行っていたという、そんな伝承があったからかもしれない。

◇ ◇ ◇

画像4

           (不動院龍宝寺不動堂)   

恵日寺は、磐梯山の山麓一帯に広く展開した山岳寺院だが、そのすぐ東側に建つのが「不動院龍宝寺不動堂」である。

案内板には、「会津地方における修験道の広まりは、慧日寺創建より古いといわれる。この地には大伴家による大寺修験が続き、磐梯修験は大伴修験とも称され、『新編会津風土記』には磐梯山・厩獄山の他に吾妻山修験を掛け持ち、猪苗代成就院と共に活動していたことが記載されている。」とあった。

画像3

修験道の開祖とされるのは「役(えんの)小角(おづぬ)(役(えんの)行者(ぎょうじゃ))」である。634年に大和国葛上郡(現在の奈良県御所市)に生まれ、鬼神を使い、瞬時に各地を駆け抜けるなどの呪術を使ったとされる伝説の人物だが、会津の大伴家の伝承でも、その役行者を磐梯修験の開祖とする。

山口弥一郎氏は、「山麓に磐梯山信仰の基地を置き、大伴家が修験として居を構えた。(中略)恵日寺開基といわれる大同二年の八〇七年より、少なくても五十九年はさかのぼり、修験の祖役小角の時代より三十年は後れている」とする(『吾妻山・磐梯山信仰と恵日寺』)。
もっとも、多くの修験の山が役行者を開祖と伝えるから、磐梯修験の開祖もそうだと鵜呑みにすることはできないが、奈良から会津に渡った徳一が築いた仏教王国の一帯には、すでに修験道による信仰形態があったことは重要だ。

大伴修験の起源を知ることはできないが、中世の記録によると、永正年間(1504~1521)に無住となり、九州・英彦山(ひこさん)より修行僧を迎えて磐梯山不動院龍宝寺となる、とある。
福岡・大分両県にまたがる英彦山(彦山)は、羽黒山(山形県)・熊野大峰山(奈良県)とともに「日本三大修験山」に数えられる場所だ。
中興を託す人物を遠く九州から迎えたというのはとても意味がありそうだが、仮に会津・大伴修験のルーツが北九州にあったとすれば、8世紀中ごろ、遠く列島を縦断し磐梯山に入った一派が、この地の修験道を主導したことになり、その活動範囲には驚くばかりだ。

◇ ◇ ◇

恵日寺縁起などでは、大同元年(806)頃に磐梯山の大爆発が起きたと伝える。
その被害が甚大だったために、時の朝廷は空海を遣わして、その秘法によりこれを鎮めさせた。山の名を「磐梯(いわはし)」とし、この時現れた山の神を「磐梯明神」として恵日寺を興した。
空海は、この寺に滞在した3年の間に、僧侶が300人ほどになったが、大同5年(810)に徳一に引き継ぎ都へ帰ったと伝えている。(ただし、空海が会津に入ったのは史実ではないとされている。)

画像4

                    (恵日寺跡)                             

山口弥一郎氏は、大伴修験と恵日寺の関係について、「恵日寺開基以前にすでに大伴修験が磐梯明神信仰の基地を開いているのに、中央の名僧が来往。恵日寺を大伴修験の屋敷の一隅に開き、漸次(ぜんじ)信仰を集めるに及んで、何時か庇(ひさし)を貸して母屋(おもや)をとられたように、(中略)大伴修験を導師から道案内の従者のような位置に置きかえ、恵日寺縁起のみ大きく喧伝されるようになって、大伴修験は影のように恵日寺の隆盛の裏に潜んでしまった観がある。」と述べている(前書)。

私はここで、大伴修験を「導師から道案内の従者のような位置に置きかえ」という表現に注目する。これは宗教的な意味合いの他に、恵日寺側が、磐梯山一帯における大伴修験の利権を奪い取ったと読み取ることができる。

修験者と聞けば、厳しい苦行をとおして、山岳が持つ自然の霊力を身に付ける姿を連想するが、古代における修験者の生活は現実的な側面が強い。
貴重な山の鉱物資源を発見すれば結界を張り、神域として一般から拒絶された空間を作った。薬草なども同じで、それらを独占するためのノウハウや流通ルートは、長い間修験者の特権となり、広範囲に山を支配していたのだ。
先に、鉱物採集や製鉄に関わる山の民について述べたが、良質な原材料を求めて各地を渡り歩く彼らは、修験者へ寄り添うように生活していたかもしれない。

徳一は、磐梯山が宝の山であることを知っていたのだ。
これから恵日寺という大伽藍(がらん)を建て、各地に寺を建立するとなれば、なにより原材料の調達が第一であり、それを押さえる大伴修験は傘下に置かねばならない集団であった。
修験道の根底には、森羅万象に命や神霊が宿るとして、神奈備(かむなび)や磐座(いわくら)を信仰の対象とする古神道があるが、徳一は、彼らの宗教を包含すると同時に、磐梯山の利権を押さえ、強大な仏教王国を完成させたのである。

#日経COMEMO #NIKKEI

この記事が気に入ったらサポートをしてみませんか?